八章 閉幕 3
のどかな草原が過ぎ去り、見渡す限りのカボチャ畑が広がる田園地帯にさしかかると、アーチャはいよいよ緊張し始めた。
「もう少しだ……もう少し」
あぜ道を抜け、視界をこげ茶色の一色に染めていた田畑が過ぎ去ると、その先は森だった。
「この森を抜ければトワゴはもうすぐそこだ。車はここに置いていこう。トワゴ付近に駐車しようものなら、ものの数分で分解されて、闇市場へ直行だ」
アーチャたちは、森へ入ってすぐに見つけた、背の高い草や花が生い茂る湿地に車を停めた。こういう時、迷彩柄って本当に役立つよな、とアーチャは感心した。
「さあ、二人とも早く! こんな森さっさと抜けちゃおう! あの小人たちはそう待ってはくれないぞ……アンジ! 違う違う! そこの取っ手を引いて、ドアを開けるんだ。乗り越えちゃダメだよ! 乗る時にやって見せただろう?」
散々まくしたてた後、性急に二人を促しながら、アーチャは先頭を切って歩き始めた。三人は木漏れ日に照らし出される暖かな道の上を突き進んだ。
「嫌なものですねえ。小さな虫が飛び回る森というのは」
顔の近くでビュンビュン飛び交う数匹の蚊に手をわずらわせながら、ファージニアスは非難じみた声を上げた。
「ファージニアス。お前、どこから来たのかくらい教えてくれてもいいんじゃないか?」
ハエの群がる、異様なほど巨大な黒い花に目を奪われようとも、アンジの抱くファージニアスへの疑わしげな感心を忘れさせたりはしなかった。シャヌのことで頭がいっぱいで、猛然と行進を続けていたアーチャでさえも、これには耳を傾けた。
「遠い未来からですよ」
アーチャは思わず足を止め、それにつられてアンジも立ち止まった。そして、二人は互いに顔を見合わせた。アンジはひどくショックを受けたような顔をしていたが、アーチャは吹き出しそうなのをこらえるため、けいれん混じりの無表情になってしまった。
「なーんてね! 冗談ですよ、冗談!」
ファージニアスの笑い飛ばす高らかな声が、森の木々にぶつかって響き渡った。そして、「さあ、歩き続けましょう!」とばかりの優雅な大股開きでさっさと出発してしまった。
「俺、じいさんの症状があいつに感染したのかと思った」
そう口にするアンジの笑顔は、「それはそれで面白い」と楽しげに語っているようだった。
「だけど……」
アーチャは声を低くして言った。
「結局またこうして、煙に巻かれたってわけだ。本当に、何者なんだろうな、あいつ」
数十分も歩いた頃、ようやく森の出口らしいものが見えてきて、三人の足は自然と小走りになっていた。左右に密集していた大木が少しずつその数を減らし、やがて完全に無くなると、そこはもう森ではなかった。トワゴの街を一望できる、小高い丘の上に三人は立っていた。
雑草がまばらに生い茂るなだらかな斜面の向こうに、その街はあった。だが、アーチャが“あれ”を街と呼ばなければ、誰もあれを“街”だと認識できなかっただろう。
言わばトワゴという街は、朽ちかけた円形状の巨大なドームだった。以前は、何か立派な施設だったに違いない。崩れ落ちた丸天井から確認できる限り、スポーツをやる上ではもってこいの形状になっているのは確かなようだった。石造だが、たくさんの観客席もあるし、緑の剥げかけた芝もわずかに残っている。
「国に認められた、正真正銘の街だよ。ちゃんと人が住める構造になってるし、雨風も防げる。夏にはこうして多くのならず者が集まるしね」
「元々は何だったんだ?」
丘を駆け下りながら、アンジが聞いた。
「剣闘士たちが戦っていた闘技場ですよ」
アーチャより早く、ファージニアスがきっぱりと答えた。まるで、私の知らないことなど皆無だと言わんばかりの、そんな流暢とした口ぶりだった。
「様々な言い伝えや伝統はあるようですが、剣闘士たちによる戦いは、主に見世物としてとり行われていたようですね。剣闘士に選ばれるのは、敵国との戦争で捕らえた捕虜やドレイ、死刑囚などで、“剣の奴隷”とも呼ばれていました。ですが、そんな冷酷な戦いに興味を抱く国民もいましてね。志願兵なんかも大勢いたみたいです。この闘技場はトワーゴ・ラ・アーミラと呼ばれ、トワゴという名の街となったのはつい最近のことなのです」
ファージニアスの説明ぶりは、観光スポットを案内するガイドも顔負けだったに違いない。トワゴをよく知るアーチャでさえ、今の説明には舌を巻いたほどだ。
「ファージニアスって、実は博識だよな」
アーチャは心の底からファージニアスのことを見直した。ファージニアスは、ごく当たり前のことをしたのだと主張するように、アーチャに向かってにっこり微笑んだ。
「私はあなた方の敵ではありません、仲間なのですよ。私の持ち得るすべての知識を、可能な範囲内であれば、あなた方に提供するのは当然のことです」
闘技場から溢れ出る熱狂的な歓声に圧倒され、“可能な範囲外”が何なのかを聞き逃したのは痛手だった。だが、トワゴへの入口はもう目と鼻の先だ。
「ずいぶんと盛り上がってるな……俺、ヒト族が大勢いる所は苦手なんだ」
闘技場の崩れかかった入口を前にして、アンジは二の足を踏んでいた。兜と鎧、そして剣を装備した剣闘士の大きな石像が、その狭い入口の両脇でにおう立ちし、それぞれがこちらを見下ろしている。
「らしくねえなあ、アンジさんよ」
アーチャが嘲った。
「別にここで待っててもいいんだぜ? 小人たちからシャヌを引き離して、大っぴらになる前にずらかるだけだからさ」
だが結局、三人一緒にトワゴへ行くこととなった。ここまで来て引き下がれるものかと、アンジがついに勇気を振り絞ったのだ。それに、アンジたちイクシム族はなぜか廃墟を好むため、その意欲に駆り立てられたのもまた事実だった。