八章 閉幕 1
曙光がアジトの中を照らし出し、アーチャを包み込んだ。目もくらむような陽射しから逃れるように寝返りすると、アーチャは椅子の上から無様に転げ落ち、その痛みと驚きで目を覚ました。その苦痛に満ちたうめき声で起こされたのはアンジだった。
「うわ……! あっ……はあ……」
起きたばかりだというのに、アンジの顔は三日も不眠不休していたかのように疲れ切って見えた。
「なあアンジ、もう一眠りした方がいいんじゃないか?」
アーチャはアンジのことを本気で心配してそう促した。
「いや……ただ……の夢だ」
アンジの口はろれつが回らない。
「ドレイとして……重い岩を運ばされてた……そうしたら、岩が俺の方へ転がってきて……」
それ以上は続けられないとばかりに、アンジはブルッと震えた。無理もないとアーチャは思った。アンジがドレイとして働かされていた期間は、アーチャよりも遥かに長い。うまく脱走できたからといって、海底での辛酸な生活を完全に忘れられるわけではない。
「朝食はまだかなあ。いつもならもうとっくに作り始めてる時間帯なんだけど」
食事の話をすれば、アンジも少しは元気を取り戻すだろうと考えて、アーチャはわざと大きな声でそう言った。しかし、台所を覗いてはみたが、そこに小人たちの姿はなかった。アーチャが不信に思った矢先、階段を下りてくる騒がしい足音が聞こえてきた。
「にい! どうしよう!」
カエマだった。階下に辿り着くなり、悲鳴に近い声を発してアーチャにしがみついた。
「シャヌがいないの!」
アーチャもアンジも、この一言で完全に目を覚ました。バケツいっぱいの水を頭からかぶった気分だった。
「ばかな!」
アーチャは我を忘れて階段を駆け上がり、二階の部屋に足を踏み入れた。そこには、ファージニアス、じいさん、トナの寝姿しか確認できなかった。それに、いないのはシャヌだけではない。
「小人は?」
後を追って来たカエマに向かって、アーチャは荒々しく聞いた。
「分かんない。あたしが起きたら四人はもういなくって……」
「何か変わったことはなかった? 何でもいい」
カエマは部屋を見回して考えに耽った。
「あたし、寒いなあって思って、目が覚めたの……」
窓が開いていた。そこから、朝の柔らかな涼風が朝陽と共に部屋の中に入り込んでいる。それを見つけると、アーチャは無意識のうちに大股で歩きだしていた。脇目も振らずに部屋を横切ったので、危うくじいさんのきゃしゃな足を踏みつけるところだった。窓辺から身を乗り出して眼下を眺めると……。
「やっぱり……」
アーチャは絶望した。その目で見たのは、アジトの外壁を伝って、頑丈そうな縄はしごが地面まで垂れ下がっている光景だった。この縄はしごはヴァークスが非常用に設けたものだが、普段は丸く折りたたまれて窓のすぐ下に固定されていた。小人たちとシャヌは、ここからアジトを抜け出したに違いない。アーチャはそう確信を抱いた。
「でもなぜだ?」
ずっと遠くの景色を眺めながら、アーチャは考えを巡らせた。おりしも、足元で眠りこけていた面々が、ようやく目を覚まし始めた。
「誰か、小人たちとシャヌがこの窓から外へ出たのを見なかったか?」
だが、誰もアーチャの質問に答えられるような状態ではなかった。トナはいつまでも寝ぼけ眼をしばたかせていたし、じいさんはみんなのそばへ歩み寄って朝の挨拶を交わすのに専念していた。ファージニアスときたら、聞いていたのかいなかったのか、寝起きの顔を誰にも見せまいと、うつむき加減で部屋を立ち去ってしまう有り様だ。
「おはよう、アーチャ」
これが朝の大切な仕事なのだと胸を張り、じいさんはアーチャに毅然とした語調で挨拶した。
「おはよう」
焦燥感にかられながら、アーチャは仕方なく挨拶を返した。
「なあ、じいさん。小人たちとシャヌがこの窓から外へ出たのを見なかったか?」
アーチャはもう一度同じ質問を繰り返した。じいさんはシミとシワだらけの顔にニンマリと笑顔を広げた。
「散歩は楽しいよ」
何か知っているような言い草だ。
「シャヌが出て行くのを見たの?」
トナの着替えを手伝っていたカエマがとっさに尋ねた。じいさんはもっとニンマリしてアーチャを見た。あんまり微笑むので、顔が上下に分かれるのではないかと思った。
「ピゲ族はわしに言ったんじゃ。散歩に行ってくる、と」
「シャヌも一緒だったか?」
アーチャは急き立てるような強い口調で問いただした。
「あれは夜中じゃった。暗かったが、わしは目が不自由で……じゃが、星は明るくてのう……そう、それは、シャヌがこの部屋へ戻ってきた直後じゃった。確か……一、二、三……四人が、その窓から……そして……」
じいさんがゆっくりと発する言葉を一つ一つ解釈するのは難儀だった。それでも尚、アーチャは歯がゆい思いを噛み殺し、じいさんの次の言葉を辛抱強く待った。
「おお、そうじゃった!」
じいさんは蚊も潰せないほど弱々しく手を叩いた。何か思い出したらしい。
「アンジにまだ挨拶をしていなかったようじゃ」
アーチャは怒鳴りつけたい衝動を必死に抑えつけながら、部屋を出て行くじいさんの背中を見送った。着替え終わったトナと、二人のやり取りを間近で観察していたカエマが、心配そうな面持ちでアーチャのそばまでやって来た。
「まさかとは思うけど、あの三人が無理やりシャヌを……?」
カエマの意見は、アーチャの意見と見事に一致していた。
「だけど分からないな……どうしてシャヌを連れ去る必要が……」
その時、壁に掛けられたある物を見て、アーチャは絶句した。それはすっかり色あせた風景画のカレンダーだった。ちょうど今日の日付のところに、大きく赤丸が付けられている。その丸の中には確かに、『トラッシュ・ラッシュ・トワゴ 〜閉幕〜』とヴァークスによって書かれたと思しき汚い字があった。
「これだ……これだったんだ! あいつら、まさか……」
アーチャは言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。
「そんなはずない!」
アーチャの心の中を見透かしたのだろうか? カエマは、そんなことは有り得ないとばかりに、強い口調で否定した。
「だってそうでしょ? シャヌを盗品として提出するなんて、人間として最低よ!」
「でも、あいつらならやりかねない。どこまでも執念深くて、お金や名声のためならどんな汚い手段にだって出る奴らだ」
アーチャは深刻な顔つきで念を押した。
「アーチャ……その……お姉ちゃんを助けに行くの?」
トナは口ごもりながらぶつぶつと聞いた。アーチャには、この質問の真意が何となく分かった気がした。トナの勝ち気な性格を前提に踏まえると、ルースター・コールズが優勝できるのであれば、小人たちがどんなに“汚い手段”に出ても、許されるべきであると考えるはずだ。むしろ、この大会はそこを醍醐味として開催しているようなものだ。犯罪の『は』の字も心得ない悪党がこぞって参加する大会で、綺麗も汚いもあったものではない。
だが、今のアーチャに大会のルールを顧みている暇はない。トナへの返事は、当然初めから決まっていた。
「もちろん、助けに行くさ。今すぐにな!」