七章 グレア・レヴ 9
アーチャとアンジは一階で眠ることになった。椅子を並べてベッドを作り、そこらに落ちていた衣服を布団代わりに使用した。寝心地が悪いせいもあってか(地下の固い地面よりはまだいくらかマシだが)、アーチャはなかなか眠れなかった。アンジと一言も口を利かない夜は、彼と親友になってからこれが初めてのことだった。そのことを考えると、アーチャはますます自分が惨めに思えてならなかった。
『少し気分を晴らしたい』
アーチャは椅子の寝台からそっと起き上がり、散らかり放題の床を踏み越え、扉を開けて静かに外へ出た。ひやりと冷たい夜の空気が全身を包み込み、背中をそっと押されるような弱い夜風が吹いていた。
周囲に視界を遮るものはなく、果てしなく続く大地がアジトの中とは両極端であるせいか、ここはさっきまでいた『拾い物の空間』よりも閑静のような気がした。夜空に散りばめられた星たちがまばゆいほどに輝くその姿は、それぞれが「私を見てくれ」と、ファージニアスのような自己主張をしているようだった。
アーチャは車に乗り込み、シートを後ろに倒してあっという間に二つ目のベッドを作ってしまった。こうすれば、ミルクの流れた跡とも呼ばれる天の川を一望できる。この場合、車に屋根がないのはアーチャにとって好都合だった。それに何よりも、疲れ切った心と体を癒す上では、この満天の星空の右に出るものはない。ドレイとして働かされるずっと前から、ここはアーチャのお気に入りの場所だったのだ。疲れた時や、何か嫌なことがあった日には、こうして夜空を見上げ、耳を澄ます。そうすると……。
「隣、いい?」
アーチャは声のした方とは反対の側へ飛び上がった。毛布にくるまったシャヌが、曖昧に微笑んでアーチャを見つめていた。
「シャヌ……どうしてここに?」
アーチャの声は明らかに調子外れだった。
「窓からアーチャの姿が見えたの。……それに、私も眠れなかったから」
アーチャはためらうことなくシャヌを招き入れ、隣のシートを倒して同じくベッドをこしらえた。
「窮屈な所ですが、ささ、どうぞおくつろぎ下さい」
アーチャはシャヌを丁重に招き入れ、手を取って彼女が車に乗り込むのを手伝った。
「わあ……すごく綺麗……」
夜空を見上げたシャヌは、無数の宝石で彩られた美しい夜空に酔いしれていた。そのうっとりと夢見るような表情は、まばたきをするほんの一瞬の時間でさえ損をしたくないと言わんばかりだった。
「こんな星空は初めて?」
少しためらいがちに、アーチャはそっと尋ねた。
「え? あ、うん。都会ではこんなに綺麗な星空は見られなかったから……」
アーチャはシャヌの横顔をちらと見た。星明りに照らされ、ほの明るいあさぎ色に染まっている。緊張のせいか、また心臓が高鳴り始めた。アーチャは気を紛らわすために、星空へと目線を戻した。
『どうして緊張する必要がある?』
そんな疑問を振り払おうと、アーチャは天に輝く星の数を数え始めた。嫌なことや不安なことを忘れるには、このやり方が一番手っ取り早いのだ。
「アーチャ……」
「ん?」
二百五十個目まで数え終わった時、シャヌが不意に話しかけてきた。
「私がいると……迷惑?」
アーチャは思わず半身を起こし、シャヌを見つめた。さっき小人たちと一悶着起こしたことで、シャヌがここまで思い詰めていたなんて気が付かなかった。
「そんなことないさ! 絶対に! もしかして、さっきのことを気にしてるの?」
シャヌはアーチャを直視しようとはしなかった。そのことが、更にアーチャを不安がらせた。
「あいつらが言ってたことなんか気にしちゃ駄目だ。ピゲ族って、脇目も振らない無礼な奴ばかりなのさ」
アーチャはどうにかしてシャヌを元気付かせようとがんばったが、虚しく空回りするだけだった。それからしばらくして、ようやくシャヌが口を利いた。
「ヴァークスさんが死んだって聞いたあの時、私、とても怖くなった」
シャヌが何のことを言っているのか、アーチャにはすぐピンと来た。小人たちとの会話が終わった直後、具合悪そうなシャヌを二階まで連れて行ったのは、ほんの数時間前のことだった。
「何がそんなに怖かったの?」
アーチャが尋ねると、シャヌは天の川を見上げたまま首を横に振った。
「私にもよく分からない。よく分からないけど、“死”っていう言葉が、私に何かを訴えかけてきたのは確かなの……体が震えて、頭の中は真っ白だった」
毛布を握るシャヌの両手に、ぐっと強い力が加わった。アーチャは、そんなシャヌの思いをしっかりと受け止め、彼女の横顔をまっすぐに見つめた。
「また何かあったら、いつでも、どこでも、どんなことでも相談してくれよ。俺、シャヌを守るって、心に誓ったんだ」
「うん。いつか、ね」
星明りでキラキラと照り返るシャヌの瞳が、やっとアーチャを見つめ返してくれた。アーチャが、その瞳に満面の笑顔で応えるかたわら、心の片隅でほっと安堵していたのは確かだった。
「さっきからずっと気になってたことがあるんだけどさ」
アーチャはウキウキしながらそう切り出した。
「シャヌって、魔法を使えるの? 言い伝えによると、マイラ族はその強大な魔力で地上のあらゆる生物を震撼させたって……」
ここまで言い終えて、アーチャは「またバカなことをした」と思い、とっさに口をつぐんだ……が、もう遅かった。
「いいの、事実だから」
シャヌの目線はまた星空に戻り、その口調は素っ気なかった。アーチャは罪悪感で胸が締めつけられるのを感じた。
「ごめん、シャヌ。本当にごめん!」
頭まで下げて平謝りするアーチャに、シャヌはちょっぴり驚いたようだった。
「アーチャ、どうしたの? 私、全然気にしてないよ」
アーチャはゆっくりと顔を上げ、笑顔のシャヌを見た。本当に気にしていないようだった。
「でもね……私、魔法は使わないようにしてるの。ジェッキンゲンの屋敷の中では魔法が禁止されていたし、それに……とっても怖いから」
語りかけてくるようなシャヌの瞳が、アーチャを見つめたまま離さなかった。
「ねえ、アーチャ……自分のことが怖くなる時って、ある?」
急に何を言い出すんだろうと、アーチャはいぶかしげにシャヌを見た。
「ある?」
消え入るような声で、シャヌは再び聞いた。アーチャはすぐに答えを導き出した。
「ああ……何度もあるよ」
アーチャは本当のことを言った。
「例えば、どんな時に?」
「そうだな……自分という存在そのものが、何なのか分からなくなった時。そして、
自分の無力さを痛感して、目の前が真っ暗になった時……」
アーチャはふと、子供の頃を思い出した。両親と共に生きていた、まだあどけないあの頃を……。だが、突如、アーチャの視界が真紅の炎に包まれた。
目に映るすべてのものが音を立てて激しく燃え、無数の火の粉が踊るように宙へ舞い上がっている。家という家から火の手が上がり、地を覆い尽くす炎が盛んに燃え上がった。驚くことに、見渡す限りの空も、そこに漂う細い筋のような雲も、すべて真紅に染まっていた。人々の悲鳴が聞こえ、逃げ惑う足音がいくつも重なる。熱風が、物の焼ける匂いが、断末魔の叫び声が、炎と化してアーチャを包み込む……。
その灼熱の炎に飲み込まれる町の真ん中で、アーチャ・ルーイェンが、声を上げて泣いていた。
「アーチャ?」
シャヌの呼びかける声で、アーチャは我に返ることができた。肌寒い野外だというのに、額にはしっとりと汗をかき、呼吸も荒かった。
「アーチャ、大丈夫?」
「ああ、もう大丈夫だ」
幾度か深呼吸を繰り返し、平静さをやや取り戻してから、アーチャはしゃがれ声で答えた。
「十年前のちょっとした思い出が……たまに思い出すと、パニックになっちまうんだ」
シャヌを怖がらせないようにと白状したつもりだったが、どうやら逆効果だったらしい。何だかんだ言ってごまかしても、視界は一向にぼやけたままだし、指先の感覚はまだ戻っていない。シャヌはそのことに、薄々勘付いているようだった。
「十年前に、一体何があったの?」
その質問に、アーチャは首を横に振って応じた。
「ごめん。今は教えられない……あ、つまりその……」
アーチャは、こちらに向けられたシャヌの熱い眼差しを避けようとして、言葉を喉に詰まらせてしまった。
「今日はもう遅いし、いつまでも外にいたら風邪を引いちまう。せっかく手に入れた自由を棒に振りたくはないだろう?」
アーチャを気遣うシャヌの積極的な態度を棒に振ることが望ましい状況であるなら、アーチャの言い分にも納得がいく。だが、アーチャが首を縦に振らなかった本当の理由は、それだけではなかった。シャヌに余計な心配をかけさせたくはなかったし、何より、十年前の一件を誰にも話したくないというのが一番の理由だった。両親を亡くした辛酸な過去を、大っぴらにしたくはなかったのだ。過去の惨劇に同情されるくらいなら、すべてを胸の内だけで抱え込んでいた方が気楽でいい……つまり、アーチャはそういう人間なのだ。
自分のことをひた隠しにし、シャヌのことばかり詮索するのはうしろめたい気もするが、今のアーチャにはどうすることもできなかった。
ただ今は、ほんの先にある未来へ向かって、がむしゃらに突き進むしかない。これからのことはこれから考え、直面した危機にはそれぞれが結束して立ち向かうしかない。それが、アーチャたちに課せられた……国軍から追われるアーチャたちに課せられた使命なのだ。
「やれるだけ、やってやるさ」
アーチャはギシギシときしむ椅子のベッドの上で小さく寝返りをうちながら、そう呟いた。すっかり冷え切った体に布団代わりの衣服をしっかりとまとわせて。