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七章  グレア・レヴ  8

 日も暮れ、肌寒い静かな夜がやって来た。アーチャはようやく汚らしいドレイ服から解放され、身動きしやすい服装に着替えた。どちらもほこりまみれのくたびれた衣服だが、あんなドレイ服で都会の街中を歩くくらいなら、裸の方がまだマシだ。

 アンジは……というより、イクシム族は、普段服を着て生活することはない。


「周りはみんな服を着てる。せめて、ズボンくらいは穿いたらどうだ?」


 アーチャの提案に、アンジは渋々と納得した。というのも、長いドレイ生活の間に、服という物はアンジにとって心地良い貴重品となっていた。だが、アンジが余裕をもって着れるだけの服などありはしない。


「上着は遠慮しておく……下は……こいつをこのままひっくり返せばいい」


 結局、アンジはドレイ服の上だけを脱ぎ捨て、ズボンの生地を裏表ひっくり返して使用するという荒業に出た。これなら、外を出歩いても怪しまれることはないだろう。

 そうこうしている内に、みんなが待ちに待った夕飯の時間がやって来た。今や、アジトの中いっぱいに御馳走の香りが充満していた。


「ああ、もう! こう狭くっちゃ息もできやしない!」


 大きな丸テーブルの上から雑用品を払い除け、中綿の飛び出したかび臭いクッションを椅子の上に敷きながら、小人がキーキー声で叫んだ。


「カエマ、今日はここで食っていくのか?」


 野菜スープが煮立った大鍋をテーブルの真ん中まで運びながら、アーチャがカエマに聞いた。


「お邪魔してごめんね、にい。お母さん、帰りは明日になるって言ってたの。最近は特に忙しいんだって」


「どんなお仕事をしてるの?」


 もうすっかり容態の良くなったシャヌがそう話しかけた。カエマはにっこりした。


「水商売。お客さんのグラスにお酒を酌んで、人生の相談にのってあげるんだって。ねえ、シャヌは何歳? どこから来たの? 家族は? 好きな花は? 本は読む?」


 目の前に並べられていく豪勢な食事には目もくれず、カエマは夢中になってシャヌに質問攻めした。シャヌはいささか困惑気味に、だがカエマに負けないくらいにっこりして質問に答えていった。食事が始まる頃になると、シャヌとカエマの間にはもうほとんど隔たりなどなくなっていた。

 やがて、すべての料理と人数分の食器がテーブルの上に並べられた。ここしばらく食欲の失せるような食事ばかりだったアーチャとアンジは、この瞬間をどれだけ待ちわびたことか。イノノシの丸焼きを見つめる瞳が視覚を刺激し、部屋を満たすこうばしい香りが嗅覚をくすぐった。フォークを握りしめるアーチャの手はわずかに震えている。

 それからのことは、アーチャ自身、あまりよく覚えていなかった。ただ、唯一はっきりと覚えていることといえば、アーチャの胃の中は幸せな気持ちでいっぱいになり、こんなに美味しい料理を食べたのは生まれて初めてだと、夢見心地で感想を漏らしたことだけだ。

 ふと我に返ると、アーチャの目の前に広がっていたのはバランス良く積み重ねられた空っぽの皿だった。


「大人げなーい」


 いかにも極楽そうなアーチャの表情を覗き込みながら、カエマがあけすけに非難した。


「にいとアンジ、みんなの分まで食べちゃうんだもん」


 アーチャはそっぽを向いた。


「なあアンジ……何か聞こえたか?」


「さあ? 耳元でハエでも飛んだかな」


 アーチャとアンジのだらけっぷりに、シャヌは思わずクスッと笑ったが、カエマは苛立たしげに鼻をフンと鳴らして小人たちを手伝った。


「あ、私も手伝わなくっちゃ」


 シャヌが立ち上がった。だが、背中の翼を覆い隠していたシーツはその運動に逆らうように……まだそこに居座っていたいとでも言うように……シャヌの肩からスルリと滑り落ちた。じいさんの座っている椅子の脚が、床まで垂れ下がっていたシーツの端を踏んづけていたのだ。アーチャは滑り落ちるシーツを掴み取ろうととっさに腕を伸ばしたが、時すでに遅し、だ。

 アジトに沈黙が訪れ、空気が張り詰めた。アーチャは前かがみ姿勢のまま硬直し、アンジはシーツと一緒に椅子からずり落ちそうになった。どこかで食器の割れるけたたましい音が鳴り響いた時、静寂は破られた。


「マイラの翼!」


 三人の小人が一斉に声を張り上げた。絶叫前の深呼吸さえも同時だった。アーチャはうなだれたまま机に突っ伏した。次に聞こえてきたのはカエマの甲高い声だった。


「きっと作り物よ! ね、シャヌ? だって、マイラ族は滅びたんですもの。きっと……いいえ絶対に、にいが私たちを驚かそうと計画したのよ。ね、シャヌ?」


 カエマは、自分では十分冷静を保てているつもりだったが、誰が見ても明らかに動揺していた。目は激しくシャヌの顔と翼を行ったり来たりしているし、なぜかドレスの裾を固く握りしめている。


「お姉ちゃん、すっごくきれい」


 見惚れるトナのすぐ隣で、じいさんは、まるで女神様でも崇めるかのような恍惚そうな笑顔でシャヌを見つめていた。このままでは、手を合わせて拝みかねない。


「落ち着きたまえ、諸君!」


 壁に寄りかかり、手に持っていたグラスを紳士的に傾けていたファージニアスが、誰よりも平静さを際立たせたその声でみんなを再び沈黙させた。彼があんな埃まみれの部屋の隅っこで何をしていたのか、アーチャは知っていた。グラスに注いだぶどうジュースをワインに見立てて一興していたのだ。


「この煌びやかさと、壮麗さを兼ね備えた翼を目の当たりにすれば、歴史上の事実に疑いの目を向けても仕方がないでしょう」


 ファージニアスはグラスを小タンスの上に置き、床に転がっていたゴリラの不細工な人形を踏み越えると、シャヌを目の前にして立ち止まった。


「最悪な時代の流れに乗って生まれ落ちた天使……。これから、どんなに苦しい困難に遭っても立ち向かわなければなりません。……本当に、悲劇的なことです」


「あなたもしかして、私の過去を知ってるの? 私自身が知らない過去を」


 シャヌが厳しく問いかけると、ファージニアスはあからさまに目線を逸らし、額に手をあてがって首を振った。


「いけない、いけない。私としたことが……危うく過去の二の舞を演じるところでした。それではみなさん、私はもう寝ます」


 グラスの中身を急いで空にしたファージニアスは、逃げるようにして階段を上り始めた。だが、すぐにまた顔だけひょいと現れた。


「一応、念のため、後から来る方々に忠告しておきます。間違っても、私の寝顔を踏みつけるようなことをしないで下さいね!」


ファージニアスの姿が完全に見えなくなると、小人たちが息を吹き返したようにまた一斉に騒ぎ始めた。その矛先はアーチャだった。


「どうして黙ってたのさ?」


「何が?」


 アーチャの声には愛想のかけらもない。


「彼女がマイラ族だって……いや、そんなことはありえないんだけどね……一言教えてくれても良かったんじゃないかい? ……いや、そんなことはありえないんだけどね……」


 小人たちはシャヌの周囲に群がり、高い鼻がくっつきそうになるほど間近で翼を観察した。そして、当惑しきったシャヌをわざと無視するように、大きな声で聞こえよがしに討論を始めた。一人はこの翼がまがい物であることを証明させる言葉を並べ、一人はマイラ族が滅びた一端を語って聞かせ、最後の一人はもっぱら相づち役に徹した。


「おい、やめろ!」


 アーチャの堪忍袋の緒が音を立てて切れた。


「シャヌは特別でも何でもないんだ! 今すぐシャヌから離れろ!」


 怒鳴り終えた時、アーチャは、どうしてこんなに熱くムキになっているのか、自分でもよく分からなかった。小人たちの無礼な態度に腹が立っているのは確かだが……。


「そうかい」


 小人の一人が呟くような小声で言った。


「あたしたちは信用できないってわけかい? え?」


「ああ、ちっとも」


 アーチャの冷たい口調は遠慮なしだ。


「ガムダンの国でもそうさ。お前たち三人がわがまま言って別行動をしてなきゃ、ヴァークスはもしかしたら……」


 胸の内にしまっておいた不満を洗いざらいぶちまけてやろうと思ったが、アーチャはそれ以上言葉を続けなかった。カエマやトナのいる前で、ヴァークスの死を悟られるような言動は慎まなければと、アーチャなりにとっさに考慮したのだ。

 三度の沈黙と同時に、かつてないほどの険悪なムードが流れ始めた。小人たちとは度々もめごとを起こしてきたアーチャだが、ここまで険悪なのは初めてだった。

 アーチャと小人たちとの暗黙の睨み合いが一分も続いた後、その間に立っていたシャヌが気まずそうに口を開き、このどんよりと重々しい空気を少しだけ緩和してくれた。


「あの……そろそろ寝ましょう……疲れが溜まってて、それでみんなイライラしてるのよ」


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