七章 グレア・レヴ 5
「あの人……ファージニアスって人、私のことを知ってるようだった」
シーツをギュッとたぐり寄せながら、シャヌが不安げに呟いた。アーチャはうなだれて首をかしげた。
「ある人物を追いかける者……か。きっと、俺たちが知らない何か重大なことを隠してるに違いない。それに少なくとも、ここらの人間じゃあないな。あれだけ気色の悪い服を着るのは、世界でもジェッキンゲンくらいなもんだ」
「どうでもいいけど、ファージニアスってジェッキンゲンに似てると思わないか? 顔立ち、服装、喋り方、仕草……」
アンジの声からは、確かにどうでもよさそうな雰囲気がにじみ出ていた。
「言われてみればそうかもしれないな……ジェッキンゲンの立場が立場なだけに、まだまだ油断は禁物だね。でもあいつ、素性の分からない怪しい奴だけど、悪党ではなさそうだよ」
「信用するのはまだ早いぜ?」
アンジが重々しい口調で忠告した。
「もしかしたら、国軍の一味かもしれない。俺たちの正体がバレたら、シャヌはともかく、俺たちに明日はない」
「大丈夫よ」
シャヌがきっぱり言い切ったので、アーチャもアンジもとっさに彼女の方を振り向いた。
「分かるの。大丈夫、彼なら信用できる」
「えらい自信だな。根拠でもあるのか?」
アンジがからかうように尋ねると、シャヌはこくりとうなずいた。
「うん。アーチャがそうだったから」
体中が熱くなるのを感じて、アーチャはとっさにシャヌから目をそばめた。そんなアーチャを小馬鹿にするように、アンジはニッタリと笑った。
「アーチャ、俺はお前の今後の活躍に期待してるぜ。色んな意味でな」
「へっ、そりゃどうも……そういえばシャヌは、こうして外を歩いたことってあんまりないんじゃないか? ジェッキンゲンと一緒だった時も、屋敷の中に閉じ込められっぱなしだったって言ってたよね?」
シャヌは笑顔で、だがどこか悲しそうにうなずいた。
「私が知ってる世界は、すべて本の中のことだけだった。その世界は、どこまで行っても青空が続いていて、花が咲き乱れ、動物たちは人間と共存し、そして、何よりも平和だった……アクアマリンと呼ばれる海底へ連れて行かれてから、現実はそうじゃないんだって、改めて気付かされたわ。……今世界がどうなっているのか、私は知らなくちゃいけない。だから、こうしてみんなで世界を歩けること、そうすることで、本には書かれていない本当に大切な物を見つけることが、今の私にとっては必要なことなの」
シャヌは青く澄んだ大空を見上げた。翼を羽ばたかせる一羽のオオワシが、空を大きく自由に舞っていた。
「一度だけでいいから、誰にも見つからないように、飛んでるところを見せてよ。見てみたいんだ、シャヌがその翼で飛ぶ姿を」
アーチャが楽しげに息を弾ませると、シャヌは少し戸惑ったようだった。そして、しわがピンと張るほど、シーツをしっかりと前にたぐり寄せた。
「飛べないの」
シャヌはすっかり落ち込んだ様子で言った。
「私、この翼で飛んだことがないの……一度も」
「一度も?」
アーチャはポカンとした。
「ジェッキンゲンの屋敷にいる時、こっそり飛ぼうとしてみたんだけど、どうしてもできなかった。飛び方が分からないの」
「飛べない翼ってわけか」
自動車のタイヤが残していったわだちの上をバランス良く歩きながら、アンジが横からしわがれ声を出した。
グレア・レヴの街はどこも殺風景だが、いつの間にか、あたりにはさっきまでいた町中とはまた別の、飾り気のない景色が広がっていた。北へと伸びる小石混じりの道はある建物の手前まで続いていて、両端には枯れ木が生えており(というより、ただ立っている)、その向こう側には荒野が広がっている。周囲数キロ先に、切り立った崖が鉄壁のようにそびえ立ってくれているおかげで、幸い、この廃れた街が立派な要塞のように見える。
「あれは?」
シャヌが見つめる先には何とも不思議な建物がそそり立っていた。凹凸の極端な建築物が地面から天に向かって伸びており、その根元には先ほどの自動車の姿も確認できる。この乾き切った長い一本道も、その珍奇な建物の手前で終わっていた。
「あれぞ!」
アーチャが二人の前に踊り出た。
「我らルースター・コールズのアジトだ。全部が拾い物で作られてる!」
アンジは一瞬足を止めたが、またすぐに歩き出した。
「拾い物? つまり……ゴミか?」
アンジなりに分かりやすく言い換えたことが、アーチャには気に食わなかった。
「断じて、ゴミなんかではない。そうだな……あの入口を見よ」
アーチャは建物の下部にある、こげ茶色の立派な扉を指差した。アンジとシャヌがそれを見た。
「あの扉は、ティーバラ邸のものだ。主のファッダーが屋敷を取り壊して巨大カジノを建設す
るというので、その計画を聞きつけた俺たちは、作業員にまぎれてまんまと調達してきた。……そして、次は外壁」
アーチャは、今度は建物がすっぽり入るほど大きな円を指先で描き、物々しく説明を続けた。
「一階部分は元からそこにあった家の外壁を使わせてもらった。二階は鉄板を溶接して張り合わせ、中の熱を逃がすためにしゃれた窓もつけた。日当たりは最高だ。夜には星座の観察もできる。……続いて、三階に注目」
アンジとシャヌはちょっぴり顔を上げ、二階上部からこぶのように突き出している三階部分を眺めた。
「なんてったって、今の時代、鉄は貴重な代物だ。そこで、三階は木造になった。夏は涼しいし、冬は暖かい。だけど、あそこは首領のヴァークスの部屋一つきりしかないんだ。ちなみに、ヴァークスってのは俺たちのボスで、身寄りのない俺を拾ってくれた器のでかい男さ。ヴァークスか……そういえば、さっきいなかったな」
すぐに気を取り直して、アーチャは建物の一番てっぺんにある何かキラキラ光るものを指し示した。
「あれこそが、ルースター・コールズの象徴だ」
アンジとシャヌはキョロキョロと目を泳がせ、その象徴とやらを探した。陽射しが反射して見えにくいが、あれは確かに金色に輝くおんどりの像だ。
「あのニワトリがどうかしたか? 朝に鳴くのか?」
アンジの嫌味たっぷりな一言を、アーチャは鼻で笑ってあしらった。
「ルースター・コールズ……つまり、『おんどりの鳴き声』を象徴する純金の像だ。換金すれば、金貨千枚は確実だね」
“金貨千枚”という言葉に、アンジの目の色が変わった。
「売れ、今すぐ売ってしまえ! 今夜は脱走祝いだ!」
アーチャは原形をとどめないほど顔をしかめた。
「街のみんながそう言うよ。だけど、あれは絶対に売れない。ヴァークスでさえ一目置く、ルースター・コールズを見守ってくれている守護神だからね」
像を手に入れたいきさつを長々と説明しようと思ったが、そんな暇はなさそうだった。ゴミで作られた塔のようなアジトが、もう目と鼻の先まで迫っていたのだ。
「近くで見ると凄い迫力ね」
今にも崩れ落ちてきそうなアジトを見上げながら、シャヌは半ば感極まってそう言った。
「懐かしいなあ。ここに帰って来るのは三週間ぶりなんだ」
アーチャは車越しにアジトの周囲を見回した。大きくて頑丈そうな『笑いは危険』と書かれた木箱が数段になって積み重ねられているのも、根っこの先端まであらわにされた数本の大木が横様に倒れているのも、ひどく錆びついた調理用の鍋と空の酒瓶がごちゃまぜになって放り出されているのも、みんな三週間前と同じ、あの時のままだ。
「さあ、中に入ろうぜ……とは言っても、全員無事に入りきれるか心配だ」
アーチャは二人に向かって手招きし、他の“拾い物”と比べても到底釣り合わない豪華な扉を押し開けた。