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七章  グレア・レヴ  1

 アーチャ、アンジ、シャヌ、そしてじいさんは、互いに手を取り合い、暖かい柔らかな草地から起き上がった。ふわりと心地良い夏の風が丘を駆け抜け、ずっと向こうの方で咲き誇る色とりどりの花たちを優しく揺らしていた。上空で何気なく漂うふっくらとした厚い雲が草原に影を落とし、風に煽られてゆっくりと南の方角へ移動している。

 その場には似つかわしくないドレイ服姿の男三人と、白いワンピースの上に白いシーツをまとう少女が一人、目の前に広がる賛美な光景に目を奪われ、ただただその場で呼吸を繰り返しているしかなかった……長い間ご無沙汰していた、“地上”での呼吸を。


「俺たち、帰って来たんだ……地上に」


 アーチャの口調は、まるで寝言のように物静かだった。


「これが地上じゃなかったら、きっと天国だろうな」


 アンジは夢見るような表情で言った。アンジがこんな幸せそうな顔をするのは、兵士たちからたくさんの御馳走を奪ったあの時以来だった。


「見て!」


 シャヌが空を指差して、突然叫んだ。青い鳥が数羽、楽しそうに空を舞っていた。アーチャはそれがどうかしたのかと聞きたくなったが、仲むつまじい鳥たちを見ているうちに、気がガラリと変わってしまった。知らぬ間に、涙が溢れ出そうになっていた。


「すげえ……すっげー!」


 青い鳥たちを追いかけるように、アーチャは夢中になって丘を駆け下りていった。かつて、地上という世界で自由に翼を羽ばたかせる鳥たちを見て、アーチャはこれほどまで感銘したことはなかった。それが当たり前のことだと思っていたから……深く考えず、自由に行動することこそが、人間が生きていく上での当然の権利だと思っていたから。


「俺、やっと分かった!」


 丘の上の三人を振り返って、アーチャはとんでもなく大きな声で言った。


「当たり前と感じることが、とっても幸せなことだったんだ!」


 風に揺られて楽しそうに前後する草花の上に、アーチャは仰向けにドサリと倒れ込んだ。そして、地に向かって降り注ぐ太陽からの熱いエネルギーを、その弱りきった体のすべてで受け止めた。


「俺、生きるよ」


 アーチャは呟いた。


「海底に残された他のドレイたちや……ジャーニスの分まで、しっかり生きる」


 丘を下りてくる三人の足音が聞こえてきた。アーチャは軽快に立ち上がり、幾本もの細い灰色の煙が立ち昇る東の方角を指差した。


「あっちに歩いていけば街がある。まずはそこで今後のことを考えよう」


「アーチャが住んでいた所なの?」


 シャヌのちょっとした質問に、アーチャはただ「うん」とだけ答えた。


「懐かしいのう」


 東へ向かって歩き始めた矢先、じいさんが上の空で言った。


「何が?」


 みんなが疑問に思ったことを、アーチャが代表して尋ねた。だが、じいさんは物思いに耽ったまますっかり黙り込んでしまった。アーチャは、じいさんがふらつく足取りで歩くのを心配そうに見つめ続けるシャヌの姿に気付いた。


「そういえば、シャヌはまだ何にも知らないんだっけ」


 アーチャはアンジの巨大な腕をわしづかんで、シャヌの前にぐいぐい引っ張り出した。


「こいつがアンジ。鼻持ちならないけど、根は良い奴だ」


 アンジはわずかにお辞儀して、シャヌの顔をちらと窺った。どうやら、イクシム族である自分の姿を、シャヌがどう思っているのか気になっているようだ。ただ者なら、怖くて逃げ出してしまうだろう。だが、シャヌの場合はむしろ、アンジのことをいささか気に入った様子だ。


「私はシャヌっていいます。もう知ってると思うけど、マイラ族の生き残りなの……アンジさんって、イクシム族でしょう? イクシム族はすっごく力持ちだって、本で読んだことある」


「俺たちのことが本に?」


 なぜだか、アンジは本の話題に気を取られた。


「自慢じゃないが、俺は生まれてから一度も本を読んだことがねえ。だから本の素性なんて知らないが、イクシム族のことを書くなんて、その作家はかなり暇を持て余してたんだな」


「タダ働きよりよっぽどマシさ」


 過酷なドレイ生活を生々しく思い返しながら、アーチャはうつろな声を出した。


「あちらの方は?」


 じいさんのくの字に折れ曲がった腰を不安そうに眺めながら、シャヌはこっそり聞いた。シャヌにとっては、アンジよりもじいさんの方がよっぽど恐ろしいに違いない。


「あの人は……」


 二人は口ごもり、何も答えることができなかった。アーチャとアンジは、今ごろになってある事に気付いた。


「そういえば、俺、おじいさんの名前知らないや……」


 肌に密着するドレイ服が気持ち悪いなと思いながら、アーチャはポロッと言った。


「俺もだ」


 アンジときたら、知らなくても特に支障はないと言わんばかりの素っ気なさだ。


「聞いてくるね」


 そんな二人を置いて、シャヌはじいさんのそばへ行ってしまった。アーチャは今まで、じいさんの名前を知りたいと思ったことさえなかった。というより、じいさんに名前を尋ねることが時間の浪費につながるということを、アーチャとアンジは誰よりもよく知っていたのだ。


「忘れちゃったんだって」


 数分後、浮かない顔をこしらえて、シャヌは二人に悲しげな声で報告した。それを耳にして、アーチャとアンジは顔を見合わせた。


「あのおじいさん、少しいかれてるのさ」


 アーチャが淡々と説明した。


「いや、かなりだ」


 アンジがすぐさま訂正した。シャヌはわずかに首をかしげた。


「記憶喪失みたいだったけど……」


「え? 記憶……?」


 記憶喪失という言葉に、アーチャは敏感に反応した。


「だけど、昔から野菜が好きだったって、前に言ってたよ。さっきだって、懐かしいとか懐かしくないとか……」


「何かを体験したり、感じたりしたことは、曖昧に覚えてるみたい」


「確かに……」


 アンジはいかにも深刻そうな声色で会話に入り込んだ。


「断片的だったじいさんの記憶が突然はっきりとよみがえった例がある。じいさんが狂ったように奇声を上げて、部屋中が大騒ぎになったあの時だ。それに、人魚の所ではこうも言った……『わしも何かを探していたような気がするぞ』」


 三人はしげしげとじいさんを見た。はげかけの頭をこちらに向け、空に浮かぶ雲の数を、声を上げて楽しそうに数えている。


「とても不思議なおじいさんね」


 じいさんと出会った時のいきさつをアーチャが話し終えた時、シャヌはそう感想を漏らした。その時じいさんは、雲の形が何に見えるかを声に出して読み上げているところだった。じいさんが「ずんぐりカボチャ」と命名した雲のちょうど真下に、目的地の街を見渡すことができた。先ほどよりもその輪郭がはっきりと見え、空に昇っていく煙が段々と濃く、太くなってきた。


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