六章 地上へ 6
ぬかるんだ地面を踏みしめながら、アーチャとシャヌは歩き続けた。黙々と歩き続けて数分後、細い一本通路はいつの間にか青緑色へとほのかに輝き、剥き出しの岩壁を美しく照らし出していた。高い天井からは聖地と同じ、無数の岩のつららがこちらに向かって突き出している。二人が地を踏み鳴らす音以外は全く何も聞こえない。無音の空気に包まれた空間が果てしなく続いているようだった。
「たくさんの魔の力が、ここに集まってるみたい……」
シャヌはアーチャのすぐ後ろを歩いていたが、その声がどこから発せられたのか分からないくらい、通路の壁という壁に反響し、二重、三重になってアーチャに聞こえた。
「分かるの?」
声を低く落としながら、アーチャはすぐに尋ねた。
「感じるの。どんどん強くなってる」
「いつもと変わらないけどなあ……壁が綺麗ってこと以外は」
アーチャは周囲をくまなく見渡した。ふと、シャヌと目が合った。
「怖い?」
アーチャをじっと見つめたまま、シャヌは首を横に振った。
「だけど、この海底に来る前までは毎日が怖かった」
そういえばと、アーチャは思った。シャヌがアクアマリンへ来る前のことを、アーチャはまだ何も知らない。
「シャヌがここへ来た時、ジェッキンゲンと一緒だったよね? 彼と住んでたの?」
シャヌは力無くうなずいた。
「物心ついた時から、私はあの人の屋敷にいたの。でも、その屋敷からは一歩も外へは出してもらえなかった。だから私は、一日のほとんどを自分の部屋で過ごしたわ……色々な本を読んだり、窓から見える風景を絵に描いたりして」
シャヌの表情は、エメラルドグリーンの美麗な輝きでさえ補えきれないほど、どんよりと暗くなっていった。
「そして、つい最近読んだ本でやっと分かったの。この翼の意味が……私がマイラ族という、百年も前に滅びたはずの種族だということが。本当の親が誰なのかも、どうしてここにいるのかも……私が存在する理由でさえ、何も分からない。そのことが、とても怖かった」
シャヌは足を止め、アーチャも即座に立ち止まった。あの日、作業場でシャヌが見せた、あのすがるような悲哀な表情が、アーチャをじっと見つめていた。
「アーチャ……私って何なの? 人目を避けて、隔離された部屋で何十年も生きてきた私って、一体何なの?」
「シャヌはシャヌさ」
アーチャは心からきっぱりと言い切った。
「マイラ族としてじゃなく、シャヌはシャヌのまま、自由に生きていけばいい。だから、いつかその翼を隠さなくてもいい日が来るように、俺は精一杯努力する。さっき言ったろう? 俺はシャヌを守るって」
いつの間にか、シャヌの顔は溢れんばかりの笑顔に変わっていた。これから待ち受けるどんな苦難にも打ち勝てる……そんな晴々とした笑顔だった。
上がりも下りもしない道を、二人は縦に並んで歩き続けていた。周りの様子も、この静けさも、何ら変わりはない。アーチャの記憶では、確か、この隠し通路は完全な円形だったはずだ。だとすると……。
「もしかしたら俺たち、同じ所を歩き続けてるかもしれないぞ」
アーチャは困惑を隠しきれずにそう口にした。
「でも、足跡がないわ」
シャヌは青緑色に照らし出される、アーチャの数メートル先の地面をしっかりと指差し、正確な事実を証明してみせた。確かに、ここの通路は足跡がはっきり残るほどぬかるんでいた。だとすると、これも人魚族のまやかしなのだろうか?
「それに、魔力はますます強くなってる……あれ、何かしら?」
アーチャは前へ向き直った。先細くなりつつある通路の先に、大きく開けた、ここよりも遥かに明るい輝きに包まれる謎の空間が存在していた。二人はそこへ向かって、同時に走り出した。
そこで二人が見たのは、水のようにしっとりときらめく青い衣に身を包んだ、一人の年老いた人魚だった。空間の中央で堂々と身構える苔だらけの大岩に腰かけ、目をつむって物静かに瞑想している。うろこに覆われた繊細に輝く青緑色のその手には、メロンほどの大きな真珠が握られ、長い指に包み込まれながら淡い光を放っている。アーチャとシャヌは恐る恐る近づいて行った。
「この世に二つとない神秘、それが音」
ほんの数メートル手前まで来た時、人魚が突然口を開いた。
「音は、すべての事物に対し、その裏の顔を私に教えてくれる。真実に覆い隠された虚実が、私に語りかけてくるのです。あなたたちの吐息や足音でさえ、その対象となる」
シャヌに劣らないほど綺麗な声だが、じれったくなるようなゆっくりとした喋り方だった。
「あなたは誰?」
礼儀もわきまえず、アーチャは出し抜けに聞いた。しかし、人魚の目がぎょろりとこちらを見たので、アーチャはとっさに愛想よく笑っておいた。改めてよく見ると、人とも魚とも見て取れない顔をしている。だが、繊細に織り込まれた衣の裾から伸びるその下半身は、確かに魚の尾ひれだ。
「私の名はグランモニカ。この海底で二百五十年以上生きてきた、人魚族の長です」
アーチャとシャヌは顔を見合わせた。鏡を見ているかのように、二人の驚いた表情はそっくり同じだった。
「私には分かります。あなたたちの他にもまだ、こちらに向かって歩いて来る者たちがいる……」
「きっとアンジたちだ!」
アーチャは大きな声でそう言った。その声に反応するように、どこからか別の声が聞こえてきた。しかも、何だかやたらと騒々しい。
「本当に外に出られるんだろうな? もし何か悪巧みしてるんだったら……」
「さっきからしつこいぞ……おい、じいさん!」
「あの老いぼれ、また立ち止まってるぞ。ニール、連れて来てやれ」
「いいよ。俺、お世話大好きだから」
「信用できねえ言葉だ」
「あいつはああ見えて純粋だ。俺は筋金入りの薄情だがな……ところでその人魚、非常食にしちゃあ豪華過ぎねえか?」
「ばか。非常食なはずないだろ」
不意に、アーチャとアンジは互いを見つけた。アーチャは通路から出てくるアンジを、アンジは満面の笑みでにおう立ちするアーチャの姿を。
「よう、親友」
アーチャは『やってやったぞ』という得意げな笑顔でアンジに言った。
「うまくいったみたいだな、親友」
シャヌの方にちらと目配せするアンジの表情は、どこか嬉しそうだった。折りしも、ジングとニール、そしてじいさんが通路を抜けてアーチャたちの元へと集まった。