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六章  地上へ  5

「何だって?」


 違った意味で、アーチャはまた聞き返した。


「私、ここからは出られない」


 シャヌの声はまた小さくなっていたが、その内容は全く一緒だった。


「どうして……何で?」


 シャヌはまとったシーツを前にたぐり寄せ、ただでさえ小柄な体を更に小さくし、その表情をアーチャに窺わせないほど深くうつむいてしまった。


「シャヌが怖いのはよく分かる。俺だって……いや、俺は平気さ! 地上へ行くためなら、背に腹は変えられないだろう? だから、その……シャヌもがんばろうぜ!」


 こんな時、もっと気の利く言葉をかけられたらどんなに良いものかと、アーチャは心底悔やんだ。シャヌはうつむいたまま、首を横に振った。


「私がいなくなったら、みんなに迷惑をかけてしまう。それに……」


 シャヌは何か言いたそうに、アーチャに向かって目配せした。


「何なの?」


 戸惑いながら、アーチャは穏やかな口調で聞いた。そしてとうとう、覚悟を決めたように、シャヌはまっすぐ顔を上げた。


「地上で自由を手に入れても、私には行くところがない」


 よく考えてみれば、すぐに気付きそうなことじゃないか。アーチャは自分の鈍感さにまたもや腹を立てた。そもそも、この時代にマイラ族が存在していること自体、おかしな話だというのに……。


「親はいないの?」


 どこまで聞いてよいやら、アーチャにははっきりとした自信がなかった。シャヌの心を傷つけまいと、独り相撲をしているようで情けなかった。


「分からない……私がマイラ族のことを口にするのを、あの人はとても嫌っていたから……」


「あの人って、ジェッキンゲン・トーバノアのこと?」


 シャヌがうなずいたのとほとんど同時に、扉がゆっくりと開いた。アーチャは悲鳴を上げそうになった。そこに立っていたのは、ゼル・スタンバインだった。


「何の用だ?」


 目を皿のように丸くして硬直するアーチャを見つめながら、ゼルは冷静な口調で尋ねた。そして、アーチャの返事を聞くこともせず、机の引き出しから白い用紙と短い鉛筆を取り出すと、立ったまま何かを走り書きし始めた。アーチャが見る限りでは、ギービー族の反乱について、誰かに報告書を書いているようだった。


「何の用なんだ?」


 ゼルは繰り返した。一度目より、はるかに荒々しい口調だった。これ以上隠し切れないと思い、アーチャはついに観念した。


「俺は今日、これから、シャヌと一緒にアクアマリンを抜け出す。地上へ出て、俺はシャヌを守る」


 アンジとじいさんのことを伏せて、アーチャは白状した。鉛筆を握るゼルの手がピタリと止まった。シャヌは不安げに、アーチャとゼルの姿を交互に見つめている。

 今度こそ、実験の材料としてこの身をささげることになるだろう……常盤色のマントで覆われたゼルの後ろ姿を見つめながら、寒くて暗い牢屋のことを、アーチャは鮮明に思い出していた。何の解決策も見つからない、絶体絶命の土壇場にアーチャは立たされていた。

 ゼルは用紙の脇に鉛筆を置き、アーチャを振り返った。赤い軍服と厳しいゼルの顔が、ランプの明かりに照らし出されてこちらを見下ろしていた。

 もう、煮るなり焼くなり、好きなようにしてくれ……それは、アーチャが腹を決めて間もない時だった。


「その言葉、信じて良いのだな?」


 アーチャは最初、ゼルが何を言っているのか理解できなかった。またそれは、シャヌも同じらしかった。寂しげな瞳で、怪訝そうにアーチャを見つめている。


「いざとなったら自分一人だけ助かればそれでいいなどと、たわけた考えを持っているのではないのか?」


 重大な試験問題でも課するような物々しい口調で、ゼルは更に続けた。彼が何を伝えたいのか、アーチャはようやく勘付き始めた。


「こんな言葉を、父親から言い聞かされたことがある」


 アーチャは過去の思い出に耽りながらそう言った。


「誰も救えない奴に、自分を救う資格はない……それは、俺が一番よく心得てることだ」


 静寂が訪れた。アーチャはゼルを、ゼルはアーチャを、シャヌはその双方を見つめながら、ただ時間だけが過ぎていった。


「世界が破滅への道を歩み始めた」


 しばらくの後、ゼルが出し抜けに切り出した。厳格な表情はそのままだ。


「そして、シャヌの恐るべき魔力は、我が軍の最終兵器となった」


 シャヌは怯えるように体を震わせた。そんなシャヌをかばうように、アーチャはぐいと前へ踏み出した。


「シャヌは人殺しの武器なんかじゃない。俺たちと同じ人間だ。まっとうに生きる権利を俺たちから奪おうっていうなら、誰であろうと容赦はしない」


「私もそう思う」


 ゼルの口調は穏やかだった。あまりに穏和すぎて、アーチャは拍子抜けしてしまった。


「812番……やはり、お前はかつてのドレイたちとは違うようだ。地下の地獄にいながらにして、お前の目はまだ死んでいない」


 ゼルは部屋の奥まで進み、右手をそっと壁に添えた。すると、ゼルが触れていた面の壁が一瞬で消え去り(アーチャは思わずまばたきを繰り返し、シャヌの方からは小さな悲鳴が上がった)、その向こう側に暗闇が広がった。音はなかったが、冷たい風が部屋に入り込み、アーチャの顔を打った。

 きっとこれこそが、フィンが通ったという隠し通路に違いない。その闇を背に、ゼルはこちらに向き直った。力強さを感じさせるその勇ましい眼差しが、アーチャとシャヌを見つめ返していた。


「私は、軍という組織に縛られ、己の意思を主張することへの恐怖心に屈していた。偶然など起こりはしない、これは運命だから仕方ないと決め付けていた過去の自分を、私は今、とても恥ずかしく思う」


 再度、ゼルとアーチャは間近で向かい合った。アーチャを見下ろすゼルの表情には、一点の曇りさえなかった。


「お前を見ていると、偶然ではなく、奇跡というものを、私は一度信じてみたくなった」


 やはり、アーチャの見る目に狂いはなかった。ゼル・スタンバインは、アーチャの予想以上に“まとも”な兵士だった。いや、彼は本当に兵士なのだろうか? このまま兵士として、国軍に仕えていてよいのだろうか? いぶかりながら、アーチャは尊敬の眼差しでゼルを見つめていた。ゼルがどんな立場であろうと、アーチャが彼を敬愛しているという事実に、何ら変わりはないのだ。おそらく、これらからもずっと。

 ゼルはシーツで身を隠すシャヌの方へきびきびと歩いていった。


「シャヌ、彼と一緒にここを出なさい。彼ならきっと君のことを守ってくれる。私なんかよりもずっと頼りになるはずだ。大丈夫、ジェッキンゲンのことなら私が何とかする」


「でも、私がいなくなったらあなたが……」


「私のことはどうでもいい。それより、君が本当に心配すべきは自分自身のことだ。君はここにいてはいけないんだ……彼と一緒に、どこか遠くへ逃げなさい。追っ手の来ない、遥か遠い国へ」


 シャヌはまたうつむいたが、それは束の間だった。再び顔を上げたシャヌの表情は、もう完全に吹っ切れていた。そこには、立派ともいえるマイラ族の優美な風格がにじみ出ていた。


「分かりました。私、やれるだけやってみます」


 シャヌは、今度はアーチャの方を笑顔で振り向いた。アーチャはドキリとした。


「一緒にがんばろうね、アーチャ」


 はにかみながら、アーチャはこくりとうなずいた。


「なあ、兵士さん……俺のこと、買いかぶりすぎなんじゃないか?」


 恥ずかしさをごまかすために、アーチャは口ごもりながらゼルに質問した。ゼルは、そんなアーチャの思いを知ってか知らぬか、ただ「そんなことはない」と豪語しただけだった。

 結局、アーチャはこの部屋の中で誰よりも安堵していた。実験の材料という、最悪の事態をまぬがれた……残された道は、たった一つだけだ。


「ここを行けば、地上に出られるはずだ。マープル族の間だけで知られる隠し通路だが、至って問題はないだろう」


「フィンが脱走に使った通路だからね」


 アーチャは得意になって発言したが、ゼルのいぶかしげな視線にすぐさま気付いた。


「えっと……人に聞いたんだ。ジャーニスが……」


 無意識のうちに、アーチャはその次の言葉を失っていた。嘆かわしい最期を迎えたジャーニスの姿が、アーチャの脳裏に浮かんでは消えた。


「ジャーニスが、脱走したフィンについて色々教えてくれたんだ」


 アーチャは悲しみをぐっとこらえながら言い終えた。


「ああ。フィンのことも、彼らが企てていた脱走計画のことも、私は知っていた。先日死んだジクスが、私にだけそのすべてを語ってくれていたから」


 通路の暗がりを見つめながら、ゼルは静かに言った。それを聞いて、アーチャは度肝を抜かれた。


「それじゃあ、どうして止めようとしなかったんだ? あんたら兵士にとって、俺たちは戦争に使うための道具じゃなかったのか?」


 アーチャは吐き捨てるようにまくしたてた。ゼルは漆黒の闇からアーチャへと視線を移し、その強面を少しだけ和らげた。


「誰にでも共通の未来が存在する。それがどのようなものであれ、お前たちにはその未来に向かって生きていく権利がある。私は、軍のやり方に納得がいかないだけだ」


「あんた、ちょっと変わってるね」


 アーチャは半ば呆れて言った。


「いいえ、アーチャ。ゼルは兵士の中でも、自分のことをちゃんとよく分かってる兵士なのよ」


 シャヌがそう指摘した時、アーチャはふと、この二人の間柄をもっと詳しく知りたくなった。だが、今はそんな時ではない。アーチャは忘れかけていた自制心を取り戻した。


「さあ、もう行こう! 仲間が待ってる」


 アーチャはシャヌを促し、数歩先を進んで通路の闇に足を踏み入れた。


「812番!」


 アーチャは立ち止まり、振り向いた。シャヌの肩越しに、におう立ちしているゼルの姿がちらと見えた。


「812番、名は何と?」


 アーチャはにっこりした。


「俺はアーチャ・ルーイェンだ! 世界に名高き窃盗団、ルースター・コールズの“おせっかい野郎”とは俺のことよ!」


 快活な叫び声を響かせながら、アーチャとシャヌは深い闇の中に消えていった。


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