六章 地上へ 4
アーチャは彼らに感謝の念を抱きつつ、昨夜、ジャーニスに見せてもらったアクアマリンの地図の内容を思い出していた。ここで一番高い位置にある部屋は確か……。
「9時の方向……ゼル・スタンバインの部屋だ」
そうと分かればと、アーチャは再び走り始めた。ただ一つだけ不可解なのは、聖地にゼルの姿が見えないことだった。彼がもし、少女と一緒に部屋にいるとしたら……アーチャはそれ以上考えないようにした。不安と緊張で頭の中がパンク寸前だったのだ。一度にこんなにたくさんの考え事を巡らせたのは、アーチャが初めて窃盗団として盗みを働いた時以来だった。だがその時でさえ、心臓がこんなにも激しく脈を打つことはなかった。
道が坂になり、大きな曲線を描き始めた。通路の幅は上へ行くほど狭くなり、ランプの熱が肌に伝わってくるほどの圧迫感だ。そして、足先の感覚が鈍くなり始めた時、一つの扉がアーチャの前に突如として現れた。そこは少し開けた平坦な地面の上だった。まだ記憶に新しい、闇に溶け込むゼルの部屋の扉がその奥の方に見え、部屋と通路を隔てる木造の壁が黙々と立ちふさがり、こちらを冷たく見下ろしていた。
アンジと一緒に行こうと思えば、すぐにでもそう決断できた。だが、アーチャには忘れることができなかった。作業場で見た、少女の悲哀な表情を。助けを求める、あのすがるような眼差しを。アーチャは、すべてを捨てる覚悟で、扉を思い切り押し開けた。
見覚えのある質素なつくりの部屋がそこにあった。
部屋の片隅にベッドが、机の脇に鏡台がなければ、ジャーニスの部屋と区別がつかなかったろう。そして、ここがジャーニスの部屋ではないと断言できる明確な点は、マイラ族の少女がこの部屋に存在していることだ。鏡台の前の小さな椅子に腰かけていた少女は、今しがた乱暴に扉を開け、部屋にずかずかと入って来たのはどこの誰だろうかと、鏡からそっと目を離し、そして、アーチャを見たのだった。
そのまましばらく、二人は沈黙という時間に縛られてしまったかのように、ただじっと見つめ合っていた。少女は何がなんだか分からなかったのだろうが、アーチャは違った。少女と目が合ったその瞬間から、アーチャの心は大きく揺れ動いた。この子を守るためならどんなことだってできる……そんな気さえした。
「あの……?」
少女は、ボーっと突っ立ったままのアーチャを心配そうに気遣い、澄み切った純粋な声で呼びかけた。アーチャはハッと我に返り、何度かまばたきを繰り返して平静を保とうとした。気付くと、少女は立ち上がり、サテン地の白いドレスをなびかせてアーチャに近寄ってくるところだった。
「あ、ごめん……驚かせちゃって。俺の名前はアーチャ……ここのドレイさ」
つい先ほどとは全く違う緊張感がアーチャを取り巻いていた。少女と目が合う度に、体中がじわりと熱くなるのを感じた。
「君を助けに来たんだ……アクアマリンから脱出するために」
言葉を並べるのでさえ一苦労で、アーチャはやっとの思いで言い終えることができた。それを聞いて、少女は何かを思い出したのだろう。両手で口をふさぎ、間の距離を更に縮めて、アーチャをもっとよく見ようとした。
「あなたもしかして、作業場にいた、あの……ハラペコくん?」
「え……ああ、そうさ。俺のこと、覚えててくれたんだね」
そのあだ名はアーチャにとってお気に召さないものだったが、それで少女が自分のことを覚えていてくれたのなら、ジェッキンゲンに少しくらいは感謝してやろうと、アーチャは渋々と深謝することにした。
「私、シャヌっていいます」
少女は名前を告げ、すぐに続けた。
「アーチャさん。見てのとおり、私、マイラ族……」
「アーチャって呼んでいいよ」
それだけを言って、アーチャはただにっこりと微笑んだ。
「私が怖くないの?」
純白の両翼がふわりと嬉しそうに弾んだのを、アーチャは見た。
「君を怖いと思うなら、わざわざこんな所まで助けに来るもんか」
嬉しそうにはためく翼は、その喜びをシャヌ本人にも分けてあげたようだった。
シャヌの笑顔を、アーチャは初めて目にすることができたのだ。
「ねえねえ。俺も君のこと、シャヌって呼んでいい?」
少女は赤面し、うつむいたまま小さくうなずいた。アーチャは心の底から安堵した。先ほどからしつこくまとわりついていた、あの奇妙な緊張感が少しだけ取り払われた気がした。
「私を助けるって、一体どういうこと?」
ベッドのシーツをがむしゃらに剥ぎ取ろうとするアーチャの背中に向かって、シャヌは小さな声で尋ねた。
「地上へ行くんだ。俺の仲間も一緒さ」
シャヌを不安がらせないように明るく振舞いながら、アーチャはとうとうシーツ全体を引っぺがした。そして、シャヌの着ている白いワンピースと背中の翼を覆い隠すようにして、そのシーツをふわりとかぶせてあげた。
「地上でその翼が見られちまったら、またここに逆戻りだからな……これでよし」
それはあまりに不自然な格好だったが、翼はうまい具合に隠れてくれた。あとは、本当にこのシーツの役立つ時が来てくれることを祈るばかりだ。
「私の話しを聞いてほしいの」
今度は部屋中の壁という壁を拳で叩き始めたアーチャに向かって、シャヌは声をかけた。だが、シャヌの声は小さすぎて、アーチャはうまく聞き取ることができなかった。
「え、何? 何か言った?」
「私、ここからは出られない」
今度ははっきりと聞こえた。シャヌの思いもよらぬ言葉に、アーチャは呆気に取られて、しばらく口が半開きのままだった。