六章 地上へ 2
バサバサと慌しい羽音がアーチャの耳元をかすめた直後、目の前を小柄な真っ黒い何かが飛んで行った。それも、一つや二つではない。チラッと見た限りでは数え切れないほど多くの何者かが聖地の至る所を飛び回っている。アーチャは辺りを飛び交う中の一匹だけに的をしぼり、その何者かをよく見ようと試みた。
それはギービー族だった。大きな口は顔の半分を占め、両あごにびっしりと生え揃った鋭い牙をガチガチと鳴らし、金切り声でキーキー鳴き叫んでいる。うさぎに似た耳と、こうもりのような羽が空中でパタパタとはためいている。ずる賢そうな三つの黄色い小さな瞳がキョロキョロと動き回り、有り余る四つの細長い腕で何かイタズラを仕掛けてやろうと手もみしている。
その数と姿に、アーチャは鬼気迫るものを感じた。これだけ多くのギービー族が監禁されていただなんて、想像もしていなかったのだ。しかも、その一匹一匹がとても凶暴だ。所々で取っ組み合いの激しい喧嘩が勃発しているし(体長よりも長いしっぽを互いに引っ張り合ったり、耳にかじりついたり……)、内の一匹は、ジャーニスが手にしていた吹き矢を乱暴に引っつかみ、遠くの方へ放り投げてしまった。もはや、ギービー族は聖地だけに限らず、アクアマリンの至る所で暴れまわっているようだった。
やがて、アクアマリン内のすべての兵士たちがこの騒ぎに気付き始めた。こちらに向かっていた兵士たち、睡眠していた兵士たち、潜水艇の中の兵士たち、その全員が聖地に集結し、度肝を抜かれたような表情で天井を見上げた。そして、我に返ったような勇ましい顔つきに変わったかと思うと、聖地をほとんど黒一色に埋め尽くす小悪魔たちを一匹でも取り押さえようと奮闘し始めた。
「そうだ、それでいい! もっとだ、もっと暴れろ!」
狂ったように歓喜しながら、ジャーニスは両手を天井に掲げて叫んでいた。もはや湖面に浮かぶ潜水艇には、ジャーニスの思惑通り、兵士たちの監視の目は行き届いていない。奪取しようと思えば、いつでもそうできる。アクアマリンの警備体制はギービー族によって完全に崩され、ここはすでに無法地帯と化していたのだ。
兵士たちが死に物狂いでギービー族と戦っているかたわら、ジャーニスは顔中をほころばせ、アーチャに向かってほくそえんでいた。
「僕は行く、地上へ。光と、愛すべき家族を求めて。……アーチャ、君はどうする?」
「俺の親友を殺したお前と手を組むくらいなら、ここで死ぬまでドレイをしていた方がまだマシだ。お前とは行かない……絶対に行くもんか!」
微塵の迷いもうかがわせない、よどみなきアーチャの言葉だった。
「言っておくけど、僕は君のことを恨んでいるわけではない。目の前にある絶好の機会を逃すことが自分のためにならないことくらい、君にだって分かっているだろう? あとで後悔しても、もう手遅れだよ」
潜水艇に向かって歩き始めたジャーニスは、すぐにその足を止めた。どこか一点を、驚愕しきった表情で見つめている。アーチャはつられるように、ジャーニスの視線の先を見た。この大混乱の中、そこだけが切り取られた別世界のように、周囲とは異なった奇妙な雰囲気を漂わせていた。
死んだはずのアンジとコッファがそこにいた。青紫色の血の気のない表情のコッファはアンジにしがみつくように立っていて、その手には確かに、あの吹き矢が握られていた。その姿に戦慄し、氷づけになったジャーニスは、吹き矢の狙い撃ちには最適な的と化していた。
アーチャが次に目にした光景は、同時に倒れ込むジャーニスとコッファのはかない姿だった。
「アンジ……お前、本当にアンジなのか?」
震える足取りでイクシム族の男に近づきながら、アーチャはまだ信じられないという口調でそう尋ねた。男は大きくしっかりとうなずくと、「俺だ」と一言だけそう口にした。アーチャは全身から力が抜け落ちた気がした。
「アンジ……よく無事だったな」
「お前らの体と一緒にすんじゃねえよ。岩よりも硬いこの体を打ちやぶれるものがこの世に存在するなら、ぜひ教えてほしいくらいだ……そんなことより……」
アンジはコッファの顔を覗き込んだ。すでに息絶えていた。あの一吹きで、すべての力を使い果たしてしまったのだろう。だが、毒によって苦しみながら死んでいったというのに、コッファの表情はなぜか安らかだった。
アーチャはジャーニスの方を見た。まだかすかだが、指先が動いている。地面をつかんで立ち上がろうと、必死にもがいているようだった。
「放って置け、あんな奴……おい」
アンジの言葉に耳さえ傾けようとせず、アーチャはジャーニスのそばまで歩み寄り、仰向けに起こしてあげた。ジャーニスの荒々しい息遣いがアーチャの頬にあたり、毒矢が首に深く突き刺さっているのが見えた。周りではギービー族と兵士たちとの小さな戦争が巻き起こり、先ほどより一層騒がしくなった。
「あと……あと、もう少しだった……のに」
ガラガラと喉を打ち鳴らすような声だった。目には涙が溜まり、こめかみを伝って音もなく流れ落ちた。そんなジャーニスを見て、アーチャは思った。この人を死なせてはいけないと。この人は……ジャーニスは、アーチャにとって“大切”な人なのだと。
「喋っちゃダメだ……死んじまう……」
アーチャの声はジャーニスと同じくらい震えていた。何もできなかった自分が、誰も守れなかった自分が、とても腹立たしくて、とても悔しくて、このやりきれない思いを涙に乗せて流してしまいたかった。そうすることで、心の中の嫌なことをすべて忘れしまいたかった。
「泣くな……アーチャ……泣くんじゃない」
ジャーニスの微弱な声が語りかけた。アーチャは小さく、わずかにうなずいた。
「そう……それでいい。アーチャ……僕の代わりにここを出るんだ……ここを出て……守るべき大切な人を見つけるんだ」
アーチャは首を横に振った。
「ずっと言えなかったけど、最初会った時から、俺はジャーニスを父親のように思ってきた。忘れかけていた親の存在を、ジャーニスのおかげで思い出すことができたんだ。だから俺にとって、ジャーニスは大切な存在だ」
ジャーニスの顔がみるみる青ざめていった。その瞳にはすでに生気がなく、黒い天井を向いたまま据わっていた。そして、音を発しない赤紫色の唇が「違う」と、はっきりそう動いた。ジャーニスのまぶたはゆっくりと落ち、唇がまたわずかに動いた。今度はちゃんとその音を発した。
「行け、地上へ」
当たり所が悪く、矢に含まれていた毒は急速にジャーニスの体内を虫食んでいった。そして、ジャーニスは死んだ。アーチャただ一人に見守られながら、陽の光さえ届かない地の奥底で。