六章 地上へ 1
見張りの兵士は確かに聖地にいたが、アーチャを快く歓迎してくれるはずもなかった。恐怖に青ざめた表情で全力疾走してくるアーチャを、過度のノイローゼで頭がいかれたドレイだと勘違いしたようだ。一瞬だけかいま見せたあの怯えた表情をうかがえば、そう語っているのは明白だった。
「反逆者だ!」
ベルトに固定された剣に手を伸ばそうとする兵士に向かって、アーチャは叫んだ。童顔で小柄の、ひ弱そうな兵士の顔が何か言いたそうにアーチャを見つめ返した。
「ジャーニスだったんだ! ジクスを殺したのはジャーニスだったんだ! 今日、これから、ここを脱走しようと企ててる!」
兵士が混乱気味にあたふたし始めた。何か様子がおかしい。
「すいません。僕、新人なんです。三日前にここへ来たばかりの」
アーチャは目を丸くし、穴の開くほど兵士を見つめた。ふと、これもジャーニスの策略なのではないかと疑ってしまった。よりによって、こんな日に限って新人の兵士が見張りだなんて……。
「悔し紛れの悪あがきかい? アーチャ」
ジャーニスの声が聖地に反響した。平然とした顔つきのジャーニスが、乱れた髪の毛を整えながらこちらに歩み寄って来る。結局何も出来ないまま、アーチャは挟み込まれてしまった。
「あ、もしかして、君が812番のドレイ?」
兵士が突拍子もない声を出したので、アーチャは思わず振り向いた。どうやら、襟に描かれていたアーチャのドレイ番号を読み取ったらしい。
「君、ブラックリストの『要注意・危険人物』の一人に数えられてるよ……」
「違う! 危険なのはあいつだ! ジャーニスだ! 早く捕まえろ!」
アーチャが怒鳴っても、兵士は身じろぎもしなかった。それどころか、ますます状況が悪くなる。
「ジャーニスのことなら聞いてます。彼はルーティー族との混血種です。リストには載っていません……とりあえず、仲間を呼ぶので待っていてください」
兵士が胸ポケットから取り出したのは、見覚えのある小さなリモコンだった。とっさに、アーチャは兵士の腹部へ向かって肩から体当たりした。兵士は数メートルほど哀れに吹っ飛び、堅い地面の上を痛々しく転がって動かなくなった。
「僕は君と違って待遇が良いんだ。前に教えただろう」
再び、アーチャはジャーニスと正面から向き合った。奇妙なくらいの静寂と、穴という穴からこちらの様子を覗き見るたくさんの視線が、この二人の周囲を取り囲んでいるように思えた。
「気が変わった」
ジャーニスの声は、閑静な空間と同化するような静かな口調だった。
「事の真相を知られても、君の力は必要だと思えた。だが、やはり危険だ。君は今、ジクスやコッファのように計画をぶち壊そうとした。この地獄を抜け出すために手を組んだ最高の仲間だと思っていたのに……どうやら、君とは馬が合わなかったようだ」
ジャーニスは服の中に手を突っ込み、おもむろに吹き矢を取り出した。その瞬間、アーチャの頭の中は、アンジとコッファのことでいっぱいに膨れ上がった。そして、改めてジャーニスのことが憎いと思った。殺人を犯したことに何の罪の意識も持たないジャーニスを、呪ってやりたいとさえ思った。
気付くと、ジャーニスは吹き矢を口にあてがい、その発射口をしっかりとアーチャに向けていた。
「血を汚してでも守らなければならない大切な人たちって?」
死期を悟ったアーチャは、ずっと気になっていたジャーニスの言葉の意味を唐突に尋ねた。心のどこかにあったわずかな希望が……ジャーニスを父親というかけがえのない存在として慕っていきたいというわずかな希望が、アーチャをそうさせていた。
吹き矢を握りしめるジャーニスの手が地面に向かって下ろされた。
「家族だよ」
アーチャはドキリとした。ジャーニスの口調や表情が、ほんの一瞬だけ、あの時に……アーチャがジャーニスと初めて会話したあの時に……両親と共に過ごした、幸せな時間を思い出したあの時に、戻った気がしたから。
「結婚してたの?」
「ああ……妻と子がいる。みんな、僕の帰りを待っている……だから、僕は家族にもう一度会うまでは、絶対に死ねない。絶対に計画の失敗は許されない!」
大量の水を弾き上げる謎の轟音が聖地に響き渡り、ジャーニスの叫び声の余韻を掻き消した。荒々しい波が湖面でうねり、ほとりを目指して波紋のように広がった。アーチャは、漆黒の巨体が湖から突き上がる異様な姿を、ジャーニスの頭越しにはっきりと見た。キラキラと照り輝く硬質なボディに、『グレイクレイ』という白い文字が描かれている。
アーチャたちが強奪する手はずだった潜水艇のお出ましだ。
船体はアーチャの予想以上に小さかったが、その威厳の大きさには感銘するものがある。アーチャは立ちすくむことしかできないでいたが、それは束の間だった。
事の発端は、同時に起こった。たくさんの羽音、大勢の足音、そして、開く潜水艇の扉。それらがすべて共通の空間に寄り集まり、互いにすべてを悟った時、ジャーニスの計画は実行された。