五章 正当な行為 1
気付くと、アーチャは疲れ切った両腕に三本のゴボウを抱えて、アンジとじいさんがいる作りかけの巨大な石柱の所へ向かって歩いていた。土だらけのゴボウは無残にしなり果て、あらゆる箇所から威勢よく毛が伸びていた。ここで口にする最後の食ベ物になるかもしれない、記念すべきゴボウだ。
「わしは昔から、野菜が大好きじゃった」
アーチャが放ったゴボウを受け取った時、じいさんは嬉しそうにそう言った。かつて味わったことのないほどの肉体労働で全身を痛めていたアーチャは、非難がましい目つきでじいさんを見た。
「気楽でいいよなあ。ペンキ塗りは」
昨日から続く過酷な労働は、悪化の一途を辿っていた。疲労困憊していたアーチャは作業が始まってからというもの、ほとんど意識がないまま重い石柱や黄金に輝くレンガを神殿の奥へと運んでいた。だがそのおかげで、時間は矢のように過ぎていってくれた。
「アーチャ……お前、かなり痩せたんじゃないか? 顔色も悪いぜ」
アーチャの横顔をしげしげと眺めながらアンジが言った。湖面に映る自分の顔が日に日に痩せ衰えていることに、アーチャ自信が一番よく気づいていた。頬は削げ落ち、あばら骨が浮き立ち、健康的だった小麦色の肌は全体が土気色に染まり始めている。体力には自信があったのに……ヒトという動物は、こんなにももろい生き物だったのか。
「精神的な疲れさ。……アンジこそ、見てみろ、すごい肌荒れじゃないか」
「これは生まれつきだ」
ドレイ服でゴボウの土を払い落とし、同時に毛を引っこ抜きながらアンジは言った。
「この岩のように強固な体を侮辱するな。先祖代々受けつかがれて来たイクシム族の血が……」
アンジは話をやめてゴボウにかじりついた。兵士が一人、三人のそばを通り過ぎたのだ。無駄な私語を禁止されているわけではないが、笑顔で漫談できる状況に置かされていないことくらい、ドレイ全員がしっかりと承知していた。
「つべこべ言ったって、あいつらは例外だ」
アンジが大岩の転がっているあたりをしっかりとあごで差した。縦じまのドレイ服に身を包んだジングとニールの双子がそこにいた。二人仲良く並んで、ムシャムシャとゴボウにかじりついている。ジェッキンゲンに正体を見破られて以来、ドレイとして労働に励んでいた双子は、恐ろしいくらい従順だった。まるで、何らかのチャンスを待ち望んでいるかのように……。
「あいつらはイクシム族の恥さらしだ」
声をより低くしてアンジは続けた。
「俺たちはこの特有の力をヒト族の連中に幾度も利用されてきた。だが、決して自尊心を失うことはなかった。ましてや、ヒト族になりすまして同じ仲間を殺すだなんて……」
アンジはまた話を中断させたが、兵士はそばにいなかった。アーチャはふと、アンジと初めて出会った時の光景を、亡骸を見つめるアンジの悲しげな横顔を、鮮明に思い出した。
「ヒト族だって同じさ」
アンジを慰めるように、そして自分に言い聞かせるように、アーチャは切り出した。
「地上では、ヒト族だってあいつらと大差ないんだ。領土や名誉、存在価値を求めて、ヒトとヒトとが無意味に争ってる。世界のすべてを手に入れようと、ばかげた思想を描いた将軍様がたくさんの血族を殺してる……今、この瞬間も」
しばらくの間、兵士たちが歩く地面のこすれる音と、じいさんがゴボウをおいしそうに噛み砕く愉快げな音しか聞こえてこなかった。
やがて、アーチャが再び口を開いた。
「もしアクアマリンから出られたとしても、地上で俺たちを待ってるのはここよりも残酷な“現実”だ……それだけは確かだ」
アンジは首を横に振った。
「ここに連れて来られてからの約一年、俺はそのことばかり考えていた。数多くの戦争で荒廃した地上にいるより、地下でひっそりと暮らしていた方がまだ気楽でいい……そういう結論を導き出したんだ。その答えが正解なんだと、ずっと自分に言い聞かせてきた。……だが、アーチャと出会ってすべてが変わった。生きるってことの、本当の意味を思い出した」
アーチャは思わず顔を上げた。嬉しくて、恥ずかしくて、ゴボウの毛の先端をただ見つめているしかなかった。
「だから俺も、ここを出る。ここを出て、自分なりの生き方を見つけ出す」