四章 また死…… 4
アーチャとアンジは、労働開始時刻までジャーニスの部屋で待つこととなった。聖地を見張っていた兵士に見つかりでもすれば、面倒なことになりかねないからだ。ジャーニスが言うには、労働開始間近になるとあらゆる所からドレイたちが集まって来るので、その流れに乗って自然に聖地へ出れば、兵士たちの目をあざむくことはたやすいことらしい。
「それにしても、こんな居心地の良い部屋でお仕事なんて、さぞ楽しかろうねえ」
部屋の隅々まで見回しながら、アンジが皮肉を込めて言った。ジャーニスは机の上に山積みにされた資料の山を片付けている最中だった。
「んー……確かに、君たちの肉体労働よりはマシかな」
円や棒状のグラフが書き込まれた用紙をビリビリと引き裂きながら、ジャーニスは苦笑して言った。
「だけど、生きていく上で運動しないほど愚かな事はないさ。一日中座り仕事をしていると、やがて血流が悪くなり、脳味噌が正常に働かなくなってくる。そうなると、任された仕事はもう手におえない。それに、体力は衰える一方だしね」
そう言って、ジャーニスは時計を取り出して時刻を確認した。
「あと五分で開始時刻だ」
「ゴーレム族が来なかったのにどうして分かるの?」
アーチャも時計を引っ張り出した。今は六時二十分。二十五分前、アーチャたちは確かにここにいたが、ゴーレム族は部屋を訪れなかった。ジャーニスは別の廃棄資料に手を伸ばしたところだった。
「ドレイにも階級というものがあるみたいでね。僕たちはこういった仕事柄、アーチャくんたちよりは立場が上で、待遇も良いんだよ。次の日の労働開始時刻はその前日に教えてもらえるし、食事もわずかだが質が良い。ちょっとした頼みなら兵士たちも受け入れてくれるしね」
紙の引き裂かれる音を部屋いっぱいに響かせながら、ジャーニスは揚々と答えた。
「それって、ちょっとずるいよなあ?」
アーチャはふてくされた表情でアンジに聞いた。
「なあアンジ。昨日の飯、覚えてるか?」
「フンコロガシが転がしたようなブサイクな草団子がニつ……ああ、しっかりと覚えてるぞ」
三人は部屋を出て、聖地へ向かった。そこには既にドレイたちが集まっており、泥だらけの汚いドレイ服が悪臭を放って動き回っていた。ここには洗濯機も風呂もないため、汗臭い体臭が日に日に濃くなっていくのは当然だった。だが中には、兵士たちの目を盗んで湖の水を頭からかぶる者もいた。アーチャやアンジもその一人で、中でもこの二人は知る人ぞ知る常連だった。
労働が終わると、二人は一目散に作業場を抜け出し、それから十秒以内に湖の中に頭を突っ込み、合わせて十秒以内に顔を洗い、加えて五秒以内に喉を潤し、とどめに頭から滴る水をよく切ってから平然とした表情で部屋に戻る。地面に水滴の跡が残っており、それがアーチャたちの部屋まで続いているのが兵士たちに見つかると、また厄介なことになりかねない。
だがそんな仕事終わりの楽しみも、昨日で最後だろう。ジェッキンゲンが戻ってきてしまったせいで、兵士たちは前にも増して目をぎらつかせている。二十四時間態勢で見張りに徹するつもりだ。本当に脱走なんてできるのだろうか?
「……ジクス?」
通路を抜けた矢先、ジャーニスが消え入るような声でその名を口にした。アーチャたちのすぐ右手にもう一つの穴が開いていて、そこに一人の男が壁にもたれて立っていた。両ひざはガクガクと震え、拳で岩壁にすがって体重のほとんどを支えているようだった。体重と言っても、アーチャの半分ほどしかないように思えた。服からはみ出る手足はほとんどが骨と皮だ。縮れたひげはジャーニスより長く、うっすらと灰色に染まっている。異常に長い前髪に覆い隠された瞳の輝きは風前の灯で、青白い顔から乾いた吐息が漏れ出ていた。
「ジクス……ジクスじゃないか! こんな所で何を……部屋に戻るんだジクス。今すぐに! さあ!」
ジャーニスはとっさに手を差し出したが、ジクスは見向きもせずに、ドレイたちでごった返す聖地に向かって歩き始めた。黒目がひっくり返りそうなほど上を向き、口から流れる唾液が糸を引いてあごから垂れ下がっている。それに、かすれた小声で何かをしゃべっているようだった。
「ジクス、お願いだ。このままでは死んでしまうぞ」
アーチャとアンジは面食らい、その場に棒立ちしているしかなかった。そのうち、周囲にいたノッツ族の群れがガヤガヤ、キーキーと騒ぎ始めた。事態に気付き始めたらしい。
「……これ……を……ファ……コッフ……どこ……」
握りしめた拳を前に突き出しながら、ジクスは頼りない足取りで前進を続けた。だが、ジャーニスの精一杯の制止を振り切った直後、ほとんど音も立てず、ジクスはゆっくりとその場に倒れ込んだ。すべての余力を尽くしたその男は……事切れていた。
「ジクス!」
ジャーニスは駆け寄り、すぐさまジクスを仰向けにすると、半開きの口に耳を寄せ、そのままの姿勢で胸の辺りをしっかりと観察した。
「どうなんだ?」
ノッツ族が騒ぎ立てる真っ只中で、アンジは大声でジャーニスに尋ねた。
「もう手遅れだ……死んでる」
アーチャはジャーニスの言葉をはっきりと聞き取ることができなかったが、その悲哀な表情や涙声から、ジクスが今どういう状態なのかは明確だった。事態を察知した数名の兵士が足早にジクスを取り囲み、金切り声で叫びまくるノッツ族を静めようと奮闘した。
「諸君、これは一体何事ですか?」
聞き覚えのある、あの気取った声がどこからか聞こえてきた。ジェッキンゲン・トーバノアのお出ましだ。
「今しがた、ルーティーの血族と思しき男が一人、ここで死亡しました。こちらです」
兵士の一人がジクスの亡骸を指差し、大きく敬礼して後退した。ジェッキンゲンはアーチャとアンジの肩をつかんでその場から引き離した。すすり泣くジャーニスの足下に転がるジクスの死体は、微動だにしなかった。
「これは……ふむ……どうやら栄養失調ではないようですね」
鼻がツンとするような香水の香りを辺りに振り撒きながら、ジェッキンゲンは装飾用のビロードのマントをひるがえした。
「どれ、ちょっと失礼」
ジェッキンゲンはおもむろにジクスの前髪をかき上げると、その手でまぶたをこじ開け、ぐいと覗き見た。アーチャはギョッとしたままその光景を見つめた。
「なるほど……なるほど……ほう」
ジェッキンゲンはぶつぶつ呟き、たまに手を叩いたり、大きくうなずいたりしながらジクスの亡骸を観察し続けた。そして、いよいよ結果が出た。
「これは呪いですね……程度は低いですが、かなり複雑に組み込まれている」
ジェッキンゲンはスッと立ち上がり(強烈な香水の香りがまたアーチャの鼻腔を刺激した)、周囲にたたずむドレイたちの注目を集めようと、右手を掲げて叫んだ。
「たった今、ここで人が死にました。その直前に、この男に触れた者はいますか?」
すぐに一つの手が上がった。ジャーニスだった。
「ちょっと待ってくれよ!」
アーチャはすかさずジェッキンゲンの前に飛び出した。目の前にそそり立つその姿は、鉄壁の砦のような風格があった。
「彼は違う! このジクスって人を助けようとしただけだ。それに、ジクスは病気だったんだ」
ジェッキンゲンはアーチャを高い鼻の上から見下ろし、クスッと笑った。あのさげすむような笑い方だ。
「確かに、彼からはまるで魔の力を感じない。君もそう言いたいのだろう、ハラペコくん」
ジェッキンゲンはアーチャの額を小突くと、ハエでもあしらうかのように手で追い払った。アーチャはそれ以上盾突かず、じっとしたままジクスを見つめた。手に何かを握りしめている……。
「とりあえず、この死体は私が預かることにしましょう。誰かの恐ろしい陰謀の臭いがプンプン漂っていますからね!」
ジェッキンゲンは一人、この状況を心から楽しんでいるように思えた。兵士たちに死体を運ぶように指示した時も、満悦そうな笑顔だった。
「差し出がましいようですが……」
袖で涙を拭き取りながらジャーニスが言った。
「温かい太陽の陽射しが当たる場所に、彼の墓を作ってやって下さい。お願いします」
ジェッキンゲンはジャーニスに向かって曖昧に手を振り、死体の後を追ってその場を立ち去った。兵士たちが労働開始のかけ声を張り上げたのは、その直後のことだった。