一章 アクアマリン 1
闇の中から誰かの話し声が聞こえてくる。そのぼんやりと反響する声は、何を言っているのか聞き取ることができない。まるで、それぞれがトンネルの入り口と出口に立って、遠くの話し相手に向かって声を投げかけているようだった。
やがてその話し声は、何百と重なり合う足音のようなものに変わり、親指でガッチリ耳栓をしたいほどの騒音にまで発展した。それも、だんだんと大きく、はっきりと聞こえてくるようになった。耳の穴を通って直に脳味噌を刺激されているようだ……そのせいか、頭がひどく痛む。
しばらくすると、ひんやりと冷たい感触が右頬を伝って全身に流れていくのを感じた。それと同時に、不快な騒音は少しずつ小さくなっていったが、頭部は金槌で殴られたように激しく痛み始めていた。
『もうやめてくれ! もうこりごりだ!』
うめき声と共に目をしばたかせながら、青年ははっきりと目を覚まし、石のように重たい上半身をゆっくりと起こした。
そこは、狭くて薄暗い洞窟のような空間だった。今にも消えてしまいそうなランプのかすかな光が、剥き出しにされた岩壁を天井からほのかに照らし出しており、小石や砂の混じった冷たい土の床が辺り一面を覆い尽くしている。雑草でさえ顔を突き出すのに尻込みしそうな、質の悪い土のようだった。
青年の周囲には確かに、数名の人と思しき存在があった。どれも壁にもたれて座っているが、何人かはおぼつかなげな歩き方で青年の周囲をうろうろし、部屋の奥へと消えていった。何しろほの暗い部屋なので判断の難しい部分も多いが、奥の方には小声で話し込む人の姿が二つほどあるようだ。
青年がここにいるべき存在かどうかということに関しては、誰一人、疑う気配はないようだった。
「どこだよ、ここ……?」
青年の声は枯れていた。歯を噛み合わせるたび、砂を噛み砕くタチの悪い感覚が口の中に広がる。肌寒い空気が部屋を満たしていたが、青年は全速力で走った後のように喉がカラカラだった。頭部の痛みさえ一向に引かなかったので、子猫を可愛がるような手つきでボサボサの黒髪を優しく撫でていると、後頭部に小山のようなたんこぶができあがっているのに気付いた。状況が全く呑み込めず、青年の中にイライラが募っていった。
そもそも、こんな怪しげな所にはまるで身に覚えが無い。この世に生を受けてから十七年間、ろくな人生を歩んではこなかったが、ここまで陰気で、うさんくさい場所を見るのは青年にとって初めてだった。しかも、着ている服をよくよくしっかり見てみると、バスローブのような、小汚くてダサい、しま柄の服に着替えさせられているではないか。確かに、昨日まで着ていた一張羅の服はこれよりも汚くてボロだったが、青年に言わせれば、こんなドレイ服よりよっぽどマシだ。
そして、青年は足下を見た。靴がない。両方ともなくなっている。手の届く範囲をくまなく探ってみたが、部屋が暗いせいで見当もつかない。手に触れるのは、硬い石ころと冷たい土ばかりだ。
それから間もなくして、ここで目覚めてから聞いてきたどの足音よりも元気で、軽い足取りの何者かが、部屋の奥の通路からやって来るのが分かった。足音の持ち主が部屋に入ってくると、青年の前でピタリと止まった。砂埃の舞い上がる息苦しい中、青年は何者かを見上げた。ランプの明かりに弱々しく照らし出されていたのは、眼鏡をかけた中年の男だった。顔の下半分は無精ひげで覆われていて、青年と同じくらい痩せ細って見える。
「おはよう、新人くん」
狐につままれたような表情の青年に向かって、男は小声でそう呼びかけた。青年の不安をよそに、やけに楽しげな笑顔だ。
「新人? 俺はアーチャだ……アーチャ・ルーイェン」
目いっぱいの疑念を抱きつつ男を眺めながら、青年は自己を紹介し、手を差し出した。二人は互いの手を精一杯強く握り、握手した。
「僕はジャーニス。ルーティー族の血が流れているけど、元々はヒト族だよ」
この世界には数え切れないくらいたくさんの種族が点在するが、この男の場合、科学技術を用いた最先端医療を駆使して、自らを混血にしたようだった。ルーティー族は学習能力や記憶力、判断力に優れ、戦場での状況に合わせた完璧な戦略法を即座に編み出すスペシャリストだ。ずる賢いヒト族が生み出したこの手の種族にしてはなかなか出来の良い代物で、世界一の軍隊を率いる将軍、ザイナ・ドロもこれにはさぞ御満悦だっただろう。自然の摂理を破壊してきたヒト族にとって、新たな種族を創り出す理由や、混血者を増やす目的なんてものは、完全に不要となっていたのだ。
「何でルーティー族が俺の目の前に?」
土の床よりひんやりとした岩壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がりながら、アーチャはしゃがれ声で聞いた。だがジャーニスは、もう片方の手に持っていた交換用のランプを掲げ、切れかけの微弱な光を放つ天井のランプと交換している最中だった。アーチャは大人しくその様子を眺めていたが、突然まばゆい光が発せられたので、目がくらんで顔を背けた。
しばらく待つと視界は正常に戻り、ランプが交換されたおかげで、部屋の様子が先ほどより鮮明になった。そこは廊下のような、うねうねと長細い部屋だった。ヒト族の大人が一人、ギリギリ横になれるくらいの幅しかなかったが、その分、奥行きは二十メートル以上あり、天井は小柄なアーチャが手を伸ばせば届いてしまうほど低かった。左側には部屋の出入り口となる穴がぽっかり開いていて、左右に広がる通路がうっすら確認できた。
どうやら、ここは人工的に作られたものではない……自然によって生み出された地下洞窟だ。