四章 また死…… 1
次の日の早朝、アーチャとアンジは、静寂に包まれた薄暗い通路を聖地に向かって歩いていた。ジャーニスの手紙に書いてあったとおり、五時頃までにはジャーニスの元へ辿り着けるようにと、部屋の出入り口付近を陣取ってまで早起きしたのだ。そうでもしないと、もし間違ってノッツ族の足を踏みつけようものなら、またあの時のようなどんちゃん騒ぎになりかねない。それだけは絶対に避けなければ。
「まずいな」
通路から聖地全体をこっそりと覗きながら、アーチャが声を潜めて言った。
「見張りがいる……ほら、あそこ。前はいなかったのに」
アーチャに覆い重なるようにしながら、アンジも聖地を見回した。アーチャの言うとおり、兵士が一人、6時側の壁にもたれて立っている。
「でもあいつ、居眠りしてないか?」
アンジは目を凝らしながら言った。確かに、見張っているにしては不自然な体勢だった。体全体を壁にもたせかけ、腕はダラリとぶら下がり、首は左肩にかしげて口は半開きだ。
「よし、忍び足で駆け抜けよう」
抜き足、差し足、忍び足なら、盗賊であるアーチャの得意分野だ。針が床に落ちる音よりも小さな足音で、盗みに入った屋敷の中をよく機敏に動き回ったものだった……ルースター・コールズのみんなは、今ごろどうしているだろうか?
アーチャは過去の思い出を今だけ忘れることにした。アンジはアーチャの意見に何か言おうと口を開いたが、アーチャは聞く耳持たずにさっさと聖地へ飛び出した。仕方なく、アンジもすかさず後を追った。だがなんと、サイが平野を駆け抜けるような大きな足音が聖地に反響したではないか。とっさに、アーチャはジャーニスの部屋へ通じる穴へと脱兎のごとく駆け抜け、闇に向かって飛び込んだ。その直後、アンジが地面をドカドカと踏み鳴らしながらそれに続いた。
「おい、アンジ! わざとやってんのか!」
肩で息をし、アンジを睨みつけながら、アーチャは声を殺して怒鳴った。見張りの兵士は寝ぼけ眼で周囲を見回していたが、やがてあくびと伸びをし、何事もなかったように見張りを再開させた。
「俺は手先も足先も不器用なんだ」
反省の色さえ見せず、アンジは堂々と言った。
「アンジ、お前って絶対に盗賊には不向きだよ」
服から土埃を払い落とし、気を取り直してからアーチャが忠告した。アンジは鼻で笑った。
「俺はコソコソと盗みなんか働かねえ。欲しい物は力ずくで奪う」
二人はランプの灯った薄暗い通路を歩き出した。ジャーニスの部屋への扉は、すぐに二人の前に現れた。
「ここだ」
言ってから、アーチャは扉をノックした。胸の鼓動が高ぶるのを感じた。中から地を踏む足音が聞こえると、やがて扉が半分ほど開いた。ジャーニスの朗らかな笑顔がそこにあった。忘れもしない、あの笑顔が。
「いらっしゃい。さあ、入って」
ジャーニスは、部屋を訪れたのがアーチャとアンジだということを確認すると、二人を部屋の中に招き入れた。ジャーニスの部屋は、以前アーチャが訪れた時とほとんど変わっていなかった。緑の絨毯、分厚い書物が並ぶ本棚、雑然とした机の上。『キャッチランプ補給』と書かれた箱も、今や木造の机と一体化してすっかり馴染んでいる。アーチャが丸椅子に座り、アンジが奥の壁に寄りかかると、ジャーニスは二人の間に立って切り出した。
「二人ともよく来てくれた。僕と同じ、アーチャくんにも仲間が出来たみたいだね。アクアマリンの中では、仲間という存在はとても心強い。えーと……お名前は?」
部屋を訪れてからというもの、アンジはずっとうさんくさそうな表情と目つきでジャーニスを見ていた。そのせいか、ジャーニスはたじたじになってアンジに名前を尋ねた。
「アンジだ。あんたのことはアーチャからよく聞いてる。何やら危険な計画をお考えのようで?」
アーチャは言葉を謹めとたしなめるように、アンジをするどく睨みつけた。だがジャーニスは、その表情から片時も笑顔を切り離すようなことはしなかった。
「計画のことまで知っているなら話は早い。アンジくん、もちろん君も僕たちの脱走計画に参加してくれるよね?」
アーチャはアンジを見つめた。アンジもアーチャを見つめ返した。
「断わる」
一瞬の静寂の後、アンジは答えを出した。
「アンジ!」
アーチャは立ち上がり、アンジにぐいぐいと詰め寄った。アンジは壁にもたれたまま、身じろぎもしない。
「言ったはずだぜ。俺は関わりたくないって。確かに、賢いルーティー族の考えた計画なら成功する可能性は高いかもしれない。だが、最終的に俺たちがどうなるかなんて分からないだろ? 俺たちは今、そういう立場に置かされているんだ」
「何を恐れてるんだい?」
激しい剣幕で睨み合うアーチャとアンジを引き離しながら、ジャーニスは言った。挑発するような口ぶりだ。
「何も恐れてなんかいないさ。俺はただ、あんたらを信用できないだけだ」
「それは僕がヒト族とルーティー族の混血だから?」
ジャーニスの表情は、アーチャがこれまでに見たことがないほど威圧的だった。アンジの大きな体を見上げるジャーニスは、山よりも大きく見えた。
「忘れないでほしい、僕も君たちと同じ立場にいるということを。そうだろう? 僕だってアーチャくんのすべてを知っているわけではない。無論、それは君も同じだ。だけど僕たちは、このアクアマリンという名の牢獄で巡り合い、互いの素性も分からぬまま結束した。僕はアーチャくんと、アーチャくんは君と。地下を抜け出し、輝く太陽の下で生きたいという共通の思いを抱いていたからこそ、僕たちは悪夢のような状況下でも互いを信じ合うことができたんだ」
ジャーニスはアンジに向かって手を差し出した。アンジのことを信じるジャーニスの切な思いを、その右手から感じ取ることができた。
「だから今度は、僕と君とが結束する番だ。アンジくん、僕を信じてくれ。共に地上へ脱出するために」
アンジはジャーニスの差し出した右手をじっと見つめていた。何か深く考え込んでいるのだと、アーチャには分かった。やがて、アンジとジャーニスの会話が始まった。
「その右手、どこまで信用できる?」
「君次第さ」
「成功する自信は?」
「結果なんて誰にも分からない……だけど、僕は全力を尽くすよ」
「もし、手の平を返すような兆しが少しでも現れたら、俺はあんたと計画のことを兵士に告知する。それでもいいな?」
「言ってくれるじゃないか。君が計画の途中で怖気づいたりしないなら、僕は最後まで君たちを守る。約束だ」
「その言葉、眼鏡のレンズにでも書きとめておいてくれ」
「よし、決まりだ」
二人はしっかりと握手した。ジャーニスの熱い思いが、やっとアンジに届いたのだ。あの強情なアンジをこうも簡単に丸め込むなんて、やはりルーティー族の力は凄いものだと、アーチャは再び感心させられた。