最終章 翼 4
「まったく、だらしないのう!」
アーチャが呆れると、男は「先に行ってください」と言うように手で合図した。アーチャは“慈悲”のかけらさえ見せることもせず、男を置き去りにして坂道を登り続けた。すると、やや前方に、車椅子を押す女性の後ろ姿が見えた。腰がアーチャと同じくの字に折れ曲がっている。
「手伝いましょうか?」
フーフー言いながら車椅子を押していた女性の隣に並びながら、アーチャは笑みを広げて“慈悲”を示した。ハスの花のロウ細工があしらわれた愛らしい帽子をかぶる女性は、アーチャが予想した通りの『仲間』だった。
「あら。悪いね、お若いの」
アーチャの顔をじっくり覗き込みながら、女は皮肉を言った。
「後ろの小僧にはかなわないがね」
アーチャが言うと、女はちらと振り返り、小さく嘲笑した。
「フン。ありゃ女ったらしの漁師さね。情けないねえ、まったく」
「え……彼をご存知で?」
坂道の頂上付近に差しかかって気が緩んだせいか、アーチャの口調は車椅子の車輪のようにぎこちない調子だった。
「彼、私の息子なのよ」
車椅子に座っていた女性がか細い声でそう言った。アーチャは驚いた拍子に力が抜け落ち、危うく車椅子と一緒に坂道を転げ落ちるところだった。
「たまげた! 彼の言う家族ってのはあんたのことだったか!」
頂上に到着した矢先、アーチャは溜まっていた思いを全て吐き出すようにそう言った。
「あたしゃ、あいつの姉だけどね」
「うひゃあ」
アーチャは折れ曲がっていた腰がピンとまっすぐ伸びるほど肝を潰した。その時、庭師の男がやっと三人に追いついた。疲労しきったその顔は、数分前のものより十歳は老け込んで見える。
「待たせてしまって、どうもすいま……」
男はさも驚いた様子で女の顔を見つけ、息が詰まったように口をつぐんだ。
「姉さん!」
次には、バツの悪そうな表情が男の顔に広がっていた。女はとっさに顔をしかめた。
「やだねえ。そんな化け物を見るような目つきであたしを見るんじゃないよ」
「もしや、見てたか?」
男はそわそわしがら聞いた。
「はて、なんのことやら」
白々しくとぼける女の顔に、意地の悪い笑みが広がった。
「ええ、ええ。誰も知りません。たまたま通った屋敷の前で、血のつながった弟が若い女にしいたげられてる様子なんて、誰も見てませんし、聞いてません」
「口の悪さと根性の曲がり具合は相変わらずだな、姉さん」
男はそう言って、車椅子に腰掛ける母親に向かって微笑んだ。
「母さん……うん、元気そうで何よりだ。体の具合はどう?」
「この頃はね、もうすっかりいいんだよ。この街は親切な人ばかりで、とても過ごしやすいから、きっと体の調子もいいんだねえ。それに……助けてくれてありがとうね、お若い紳士さん」
母親はアーチャを振り返り、心を込めてそう言った。
「私たちこれから船に乗って、隣国までお芝居を見に行くんです」
男の声はウキウキしていた。
「仕事を早退したかったのもそのためでして。姉とは前から連絡を取っていて、港で落ち合おうってことになってたんです」
それからしばらく、アーチャは家族と漫談していたが、その心の中はずっと不思議な気持ちにかられていた。この一家三人とは今日初めて会ったはずなのに、どうしてもそんな気がしなかったのだ。その楽しい会話を聞いていると、懐かしいいつかの記憶が込み上げてくる。それは、いつだったかも思い出せないほど昔の記憶だ。
やがて家族と別れ、アーチャが辿り着いた先は、大きな二つの通りに挟まれた間にある、街の中央公園だった。五つの区画に分かれたとても大きな公園で、春にはたくさんの花々が咲き、夏には噴水の周りに人々が集い、秋には紅葉の絨毯が道に敷かれ、冬には職人が手掛けた雪の像が立ち並ぶ。
ふとアーチャの脳裏に甦ったのは、何十年も前の街の姿だった。あの頃の街は、今と比べればひどく殺風景かもしれない。だがそこには、確かにたくさんの笑顔があった。夢を追いかける人々の、大きな希望に満ちていた。
しかし、今それに代わって存在しているのは、コンクリートで固められた道路と、その上を無頓着な表情で走り抜けていく自動車たち、何かに向かって忙しなく歩み続ける人々の姿。そして、機械化した世界。
「いいんだ。どんなに世知辛い世の中でも、わしらが今生きているということに変わりはないのだから」
アーチャは誰にも聞こえないほどの小さな声でそう呟いた。
アーチャが公園へと続く横断歩道を渡っていた時、それは不意に起こった。
「歌だ……」
女性の歌声が、この広い街のどこからか聞こえてくる。謎の歌声は、街中の喧騒を物ともせずにかいくぐり、耳ではなく、心の奥で響き渡った。アーチャは思わず足を止め、視線をあちこちに向けて声の主を探した。そこから見えるのは、よどみなく流れ続ける人と自動車、そして、美麗な風貌の建物ばかりだった。だが、アーチャが目を凝らしていたのは空だった。
雑踏で埋め尽くされる都会の上空、抜けるような青空の下に、一機の飛行船が浮遊していた。それを目にした瞬間、アーチャの脳裏を過ぎったのは記憶という名の戦慄だった。どこか見覚えのあるこの光景を見ていると、アーチャは脳味噌の裏側をじりじりと焼かれる思いに苛まれた。この直後に起こる惨劇と恐怖が、アーチャの感情を一気に高ぶらせた。
「よう、待たせちまったか?」
男の太いしわがれ声がそう言った。アーチャはとっさに振り返り、自分の背後に立つ一人のイクシム族を見た。
歌が……途絶えた。