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最終章  翼  2

 アーチャは杖を突き、半ば駆け足で食堂の中を突っ切っていった。『歩く』以外の移動手段を実行したのは久しぶりだ。


「なぜここに?」


 ユイツの隣の席に腰を落ち着けるなり、アーチャはやぶから棒に質問した。情けないことに、たかだか十メートル走っただけで息が上がり、椅子がなければまともに話してもいられない。


「さすがに六十年も経ったら、忘れてしまいますかね」


 窓から見える庭園を望みながら、ユイツは静かに言った。


「僕は人の記憶の中に生きる存在です。だから、あなたが僕のことを忘れない限り、僕の存在は確かなものとなる」


 ユイツののんびりとした態度を見ていると、アーチャは、慌てふためいていた数秒前の自分が恥ずかしく思えてきた。


「お前、言ってることが相変わらず訳分からんのう」


 アーチャは負けじとのんびり感想を述べた。しかし、もっと緊急に聞いておきたいことが他にもあることを思い出し、性急にまくしたてた。


「それより、これはどういうことだ? なぜわしがここにいる? 知り得ないはずの六十年分の記憶が、なぜわしの中にある? あの後、世界はどうなったんだ? わしは“死んだ”はずでは……」


 アーチャはとっさに口をつぐんだ。ユイツが不可思議な魅力を放つその瞳で、アーチャをまっすぐに見つめたからだ。


「あなたには大切な仲間がいた。数々の困難を共に乗り越えてきた、かげかえのない仲間が」


「仲間……?」


 アーチャは繰り返し、かすかな記憶を辿った。ユイツが小さくうなずいた。


「あなたは、崩壊寸前の時間の流れから無理に抜け出してしまったため、仲間と、この六十年分の時間を失った。記憶だけが残され、何も意識しないでこの食堂まで来れたのはそのためです。六十年前にあなたの元へやって来たおじいさんが記憶を失っていたのも、理屈は同じです。彼の場合はかなり重症でしたけど……」


「ここは……この世界は何なんだ? あの時とは全く別の世界だというのか?」


 アーチャは杖の頭を固く握り締めながら訪ねた。そうでもしないと、杖が汗ばんだ手から逃げ出してしまいそうだった。


「時間の流れが違うだけで、あなたがいた世界と何ら変わりはありません。ただ、ちょっと中身が違うだけです……ほら」


 その時、二人の背後が人の話し声でガヤガヤと騒がしくなった。アーチャは肩越しに通路の辺りを見つめた。そして、暗がりから現れた複数のイクシム族に目を奪われた。みんなアーチャと同じ柄のポロシャツを着込み、まばらに生え揃う針金のような太い頭髪を振って会話に興じている。まるで、山道を転がり落ちる複数の大岩を見ているようだった。


「ばっちゃん! ココア持ってきて、ココア!」


 席に座った一人が荒々しく急き立てた。その声に反応して厨房から顔を覗かせたのは、なんとピゲ族だ。小さな体の上に小さな頭を乗せ、よく見る三角帽子ではなく、コックの白い帽子をかぶって何かキーキー叫んでいる。だが、イクシム族の太い声にかき消されて何も聞こえない。

 アーチャは、今度は窓の向こうに広がる庭園に注目していた。植えられた色とりどりの花や緑の木々に水を撒き、シャレた麦わら帽子をちょこんと頭に乗せているのは、ゴーレム族だ。いつもの虚ろな瞳に、爛々とした輝きを灯しているのがはっきりと分かる。


「もうお分かりでしょう?」


 様々な光景に見惚れたままのアーチャに向かって、ユイツが声をかけた。ヒト族の老人が三人、イクシム族の輪の中に溶け込んでいくのを見ながら、アーチャはうなずいた。


「異なった種族同士が共存してる……他の種族を好まないイクシム族とピゲ族が、ヒト族と一緒になって笑ってる。すごい……まさか、こんなことが……」


 目の前の現実を素直に受け入れられず、アーチャはただ驚嘆するばかりだった。


「あなたの追い求めていた夢が、こうして実現したんです。もっと喜んでもいいんじゃないですか?」


「ああ……そうかもしれないな」


 目線を落とし、杖の上で指先をもじもじさせながら、アーチャはゆっくり答えた。


「ユイツ、なぜわしの前に現れた? このことを伝えるためか?」


 たっぷり沈黙した後、アーチャはずっと気になっていたことを聞いた。


「あなたに最後の挨拶をしておこうかなって、そう思ったんです」


 ユイツの表情が一瞬だけ紳士的なものに見えたのは、アーチャが六十もの歳を重ねて、人の見方が変わったからなのかもしれない。もしくは、アーチャの中で、ユイツが少しだけ大人に近づいたからなのかもしれない。だが、そのどちらにしても、アーチャには都合が悪かった。


「ユイツが行ってしまったら、わしはまた一人ぼっちになってしまうな」


 孤独の寂しさを、アーチャは誰よりも一番分かっているつもりだった。ユイツの話を聞かされるまでは……。


「僕も、かつては一人でした」


 アーチャは顔を上げてユイツを見た。ユイツの過去の話を聞くのは、初めてのことだった。


「両親は? 兄弟もおらんのか?」


 アーチャが聞いた。ユイツはまた庭園に目線を戻し、ノッツ族が二人がかりで苗木の植え替え作業をする様子をしばらく観察していた。


「僕は、マイラ族の母と、ジャーグ族の父の間に生まれました」


 ユイツがやにわに言った。あまりに突然のことだったので、アーチャは口にしようと準備していた言葉をうっかり全部忘れてしまった。


「あなたも知ってのとおり、かつて、彼らは浮遊島で共存していましたが、マイラ族はジャーグ族の力を恐れ、浮遊島から彼らを追放しました。そして、その渦中に生まれたのが僕でした。父は僕が生まれてすぐに地上へ降り立ち、僕は母の元で生きていくことになりました。背部の翼がマイラ族のものだったからです。母は、僕にジャーグ族の血が流れていることを周囲の者に内密にし、ひっそりと生きてきた」


 ユイツは、触れたくない辛酸な過去に足を踏み入れるように、その手前でゆっくりと呼吸を整えた。


「しかし、僕が二歳を迎えた時、僕の瞳にジャーグ族特有の青い輝きが見られるようになった。当然、周りの者は疑いの目を向けた。族長が母を問い詰め、母は秘密を打ち明けた。夫がジャーグ族であること、僕にもその血が流れていること……。僕は翼を取られ、見せしめとして海に捨てられた」


「ばかな……」


 アーチャは吐き捨てたが、一際うるさくなったイクシム族たちのだみ声のせいで、ほとんどユイツの耳には届かなかった。


「だけど、命あるものにとって、死が最悪の不幸とはいえません」


 もう一度アーチャを振り返りながら、ユイツが続けた。


「僕は死の孤独の中で時という存在を見つけだし、この世が時間に支配されていることを知った。その時間を超越するためにはどうしたらいいのか……僕は長い時間をかけて考えた。そうして、僕は人々の記憶となって世に留まる術を見出した。記憶として存在することが、僕がこの世を生きた証につながるから」


「生きた証……か。昔、誰かが同じことを言っておった……いや、気にせんどくれ。老いぼれじいさんの独り言だ」


 アーチャはカラカラと笑った。ユイツもつられて笑った。


「しかし、世界が平和になったというのに、何か物足りないのう……」


 アーチャが独り言を繰り返す傍ら、ユイツが席から立ち上がり、アーチャの薄い頭髪に向かって軽く一礼した。


「さて、僕はもう行きます。アーチャさん、今まで……」


「ん? ん? 何だ今更、かしこまりおって。アーチャでいいわい」


 それを聞いて、ユイツはにっこり微笑んでうなずいた。アーチャは杖に体重を乗せてゆっくり立ち上がり、ユイツと長い握手を交わした。


「アーチャ、今までありがとう。君たちとの出会いは、僕にとって最高の記憶となった。だからもう、僕はアーチャの中で生きていく理由がなくなった……新たな時間を求めて、僕はまた旅に出るよ」


「それは……わしが、ユイツのことを忘れてしまうということか?」


 ユイツは大きくうなずいたが、そこにあるのは決して悲哀な表情ではなかった。アーチャを心から安心させるような、そんな暖かな笑顔だった。


「大丈夫。失ったものは、案外まだ自分の近くにあったりするものなんです。だから、アーチャの仲間も、きっとどこか近くにいるはずです。見つけ出してください、必ず」


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