最終章 翼 1
暖かな陽射しが雲を縫って地上へ降り注いだ。街の小路を吹き抜けるそよ風が開け放たれた窓から優しく部屋に流れ込み、ベッドの上で眠り続ける男の前髪にいたずらすると、そのまま扉の下を通って去っていった。
男は一度大きく寝返りを打ったが、やがてハッと目を覚まし、ベッドから飛び起きた。そして、何度も狂ったように周囲を見回した。緑色のカーテン、角の欠けたタンス、きしむ床板、漆喰の壁、剥き出しにされた細長い蛍光灯、窓の向こうに広がる見慣れた街並み。すべてがいつもどおりのはずなのに、普段と何一つ変わらないはずなのに、男にとっては、そのことがとても不思議でならなかった。
まだ夢を見ているんじゃないか、これはデジャ・ヴなのではないか……そんなことばかり考えてしまう。
男は考えに耽った挙句、部屋の隅においてある鏡台に駆け寄って自分の顔を覗き込んだ。そこに映っていたのは、しわくちゃの顔、骨ばった輪郭、節くれ立った手、薄い頭髪。木造の小部屋に困惑な表情が二つ……アーチャ・ルーイェンがそこにいた。
「俺だ……わあ!」
アーチャは自分のしわがれた声に驚いて、鏡の中の自分から二メートルも飛び退いた。それはちょうど、部屋に一つしかない白ペンキの扉が向こう側から静かにノックされたのと同時だった。
「ど、どうぞ……」
アーチャは扉に向かっておずおずと呼びかけた。タンスの側面に立て掛けてある杖に手を伸ばしている自分がそこにいた。心が錯乱しているせいか、扉をノックしたのは凶暴な野獣だと思い込んで疑わなかったのだ。
だが、扉を押し開けて入ってきたのは、朗らかな笑みを浮かべたふくよかな女性だった。
「おはよう、ルーイェンさん。着替え、お持ちしましたよ」
エプロン姿の女はそう言って、大またでズンズンと部屋を横切っていった。アーチャは目をパチクリさせ、ベッドから半分落ちかけの布団を綺麗に畳み直す女の後ろ姿をまじまじと見つめた。
「朝食は下に用意してありますから、温かいうちに召し上がってくださいね。今日はほっかほかのココアがおまけですよ」
着替えらしき物をベッドの上に置くと、女はアーチャを振り返ってそう言った。
「あ……ああ……ありがとう」
アーチャが礼を言うと、女の顔から笑顔が吹っ飛んだ。
「ルーイェンさんが、ルーイェンさんが私に“ありがとう”ですって!」
女はあんまり驚いたので、顔面が内側に引っ込んであごが二重になり、目玉が飛び出した。
「いつも命令口調で私たちをこき使ってきたルーイェンさんが……どうしたの? 熱でもあるの? ……あらやだ! 窓を開けっ放しで寝たのね。きっと風邪だわ。すぐに薬をお持ちしますから……」
「ちょっ……待っとくれ! わしは風邪なんかひいてないぞ! この七十七年間、一度もひいたことがないのだ!」
アーチャは自分の発した言葉で驚愕した。今、無意識の内に『七十七年間、風邪をひいたことがない』と、確かにそう口にしたのだ……。
「一体どういうことだ?」
女が怪訝そうな表情で部屋を去った後、アーチャは服の袖にきゃしゃな腕を通しながら、しわがれた声でそう呟いた。
「目が覚める前まで、わしは十七歳だったはず……世界が滅亡の危機にさらされていて……それで……」
深く考えながら、アーチャは部屋の扉を開け、廊下を左へ歩き、突き当たりを右に曲がり、途中に現れた階段をノロノロと進んでいった。というのも、腰がくの字に曲がり、膝の関節がやたらと痛むので、思ったように前へ進めないのだ。何となく手にしていた杖と壁伝いの手すりがなければ、もうとっくに階段を転げ落ちていたことだろう。
やっとの思いで下の階へ辿り着くと、すぐ目の前はもう食堂だった。木造の長テーブルが五台、横一列にきちんと並べられ、クッションの乗った質素な作りの肘掛け椅子がその周りに置かれている。既にポツポツと人が座っており、その中には……。
「ユイツ!」
アーチャは声を押し殺してその名を叫んだ。ユイツは確かに食堂の一番端の席に座っていて、どこか遠くを見つめるような眼差しで窓の向こうを眺めている。まるで、あの時から一秒も時が進んでいないかのように、ユイツの顔にはしわの一本も見られず、六十年前の若々しさを保ち続けていた。