二十章 アーチャの選択 2
「俺、グランモニカの所へ行く」
アーチャは拳を握った。
「魔族相手にどこまでできるか分からないけど……でも、カエマは絶対に連れ戻す! ついでに、グランモニカもぎゃふんと言わせてやる!」
アーチャはユイツの姿を探したが、どこにも見当たらなかった。ムーンホールの力を借りようと思ったのだが、どうやらユイツを探している暇もなさそうだった。
「シャヌ、もう一度飛べるかい?」
アーチャは期待に目を輝かせて聞いた。シャヌは力強くうなずいた。
「アンジはみんなのことを頼む。俺はシャヌと一緒にグランモニカに会ってくる」
「おう、任せとけ」
アンジの頼もしい返事がアーチャを安心させた。マニカとトナから激励の言葉を送られながら、アーチャはシャヌの手を握り、呼吸を落ち着かせた。今アーチャの心の中を満たすのは、未来を案じる不安感でも、グランモニカに対する恐怖心でもなかった。今自分にできることは何なのか? 自分にしか救えないものとは何なのか? そして……。
『悔いを残さない生き方とは、何なのか?』
シャヌと共に空へと舞い上がりながら、アーチャは自らに問い掛けた。それは、心のどこかで、世界に待ち受ける最悪の運命を受け入れてしまったからなのかもしれない。もう人類に未来はないのだと、諦めてしまったからなのかもしれない。
神殿がすぐそこまで迫ってきていた。その周囲には、光を弾き返した結界が青白くぼんやりと輝き、黄金の神殿が放つ壮麗な輝きをくすんだ暗緑色に染め変えている。稲妻が頭上を駆け抜け、耳をつんざくような雷鳴がそれに続いた。強風が絶え間なく二人を襲い、シャヌはその度に大きくバランスを崩した。
「あの結界、すごく厄介だと思わない?」
体勢を立て直しつつ、シャヌは非難めいた声を出した。
「グランモニカめ……ちょっとは気を利かせてくれてもいいのに」
突風に運ばれ、アーチャの声がグランモニカの耳に届いたのだろうか? 神殿を丸く取り囲む青白い光彩が段々と薄れ、やがて完全にその姿を消した。二人が顔を見合わせて目を瞬かせていると、グランモニカの声がどこからか聞こえてきた。それは、心の中で響き渡るような感覚だった。
「恐れることはありません。あなた方を丁重に歓迎します」
騒音で満たされる耳の中で響かないせいか、グランモニカの澄んだ声はよりはっきりと聞こえた。アーチャとシャヌはもう一度互いの目を見て、言葉にならない小さなコンタクトを交わした。二人の意思は複製のごとく瓜二つだった。
シャヌの翼は一際大きく羽ばたき、二人は荒れ狂う強風をものにして神殿の頂きに滑空していった。玉座にどっしりと構えるグランモニカと、そのそばで足を三角に畳んでうずくまるカエマの姿が視界に入った。稲光が神殿の輪郭を浮かび上がらせ、アーチャたちをおどろおどろしく出迎えた。
「アーチャ! シャヌ!」
カエマは顔を上げて金切り声を上げるなり、駆け寄ってアーチャの膝に抱きついた。
「来てくれてありがとう……あたし……あたし……」
「怖かったんだよね。寂しかったんだよね。もう大丈夫だから」
シャヌはその場に膝を折り、優しく声を掛けた。カエマはシャヌの肩に顔をうずめ、小さく嗚咽した。
「シャヌ、カエマを……」
アーチャはそれだけを言い残し、グランモニカの待つ中央の玉座まで歩いていった。グランモニカは両目を閉じ、深く眠るような面持ちで腰を掛けている。
「世界は、心の闇によって閉ざされ、その役目を終えました」
アーチャの耳はグランモニカのゆるりとした語調を捉えていた。目がぎょろりと上を向き、あごの牙が神殿の輝きに照り返ってキラリと一閃した。
「ヒト族の姿に戻れたようですね、アーチャ・ルーイェン」
「そんなことはどうでもいい」
アーチャは冷静に対処した。そして、その落ち着きを失うまいと自意識を高めた。
「カエマを解放しろ。妄想ごっこなら一人で十分だろ」
「私が生み出すのは夢ではなく、現実です」
グランモニカは静かに否定した。
「それに、もう後戻りはできません。黒雲は世界の空を覆い尽くし、命ある者の恐怖心が新世界を呼び寄せ始めた。この世界が完全に飲み込まれるのも、もはや時間の問題です」
アーチャは、アンジからも聞いていたその『新世界』という言葉に、自分でも驚くほど敏感になった。
「その新世界って、一体何なんだ? まさか、天と地を引っくり返そうってんじゃないだろうな?」
グランモニカは小さく、短く笑った。
「この世界とは別の、私が作り出したまったく新しい世界です。そこには、戦争による荒廃も、腐敗した人々の心も存在しない。カエマ・アグシールは、私の意志を継ぐヒト族の後継人として、この世界から新世界へと足を踏み入れる。私と共に、新世界を築き上げていくのです」
今度はアーチャが笑う番だった。だがそれは、絶望の淵から沸き上がるような狂った笑い声だった。
「つまり、この世界にも、俺たちにも、明るい未来なんてないってわけだ」
アーチャは自分なりの結論を述べた。すぐ足元には黄金の神殿が燦然と輝いているというのに、アーチャの目には、すぐ上空でねじれるような渦を巻く黒雲の闇しか映っていなかった。
「そんなの横暴よ!」
話を聞いていたシャヌが憤然と立ち上がりながら叫んだ。カエマはその足元で、目線を下に落としたままドレスの裾を握っている。
「人々が手を取り合えば、この傷だらけの世界だってまだ立ち直らせることができる。勝手な思想と独断だけで世界を滅ぼそうなんて、そんなの絶対間違ってる!」
シャヌは、こんな追い詰められた状況だというのに、アーチャよりもよほどしっかりしているようだった。心が闇に染まりつつあるアーチャに対し、シャヌの心にはわずかだが、まだ希望が残されていた。未来への、明るい希望だ。