十九章 黒雲 7
「よく聞け、ユイツ……」
尚も前進を続けながら、ゼルはしゃがれた声を発した。
「この核がある限り、お前の策略は失敗に終わる……だから、私が……破壊するまで……」
「哀れな奴め」
ジェッキンゲンは吐き捨てるように言い放った。
「優柔不断なお前は、私の部下になった時からずっとそうだった。大して役にも立たない甲斐性なしめが……上官への楯突きと悪巧みばかりが板につく、何とも無意味な存在よ」
球体から先端の尖ったヤリのようなものが突き出し、ジェッキンゲンはそれを手に取ると、ゼルに向かって構えた。その瞬間、アーチャは我を忘れて駆け出していた。足を踏み出すたびに前方の光景が変わり、対象に近づくにつれてアーチャの中から希望が薄れていった。そして、炎のくすぶる戦闘機の残骸を飛び越え、ゼルが高々と剣を振り上げた時、ジェッキンゲンの手から一本のヤリが放たれた。
「ゼル!」
アーチャはもう一度その名を呼んだ。仰向けに倒れこむゼルの体に深々と突き刺さっていた硬質なヤリは、役目を終えたとばかりにどろりと溶け、地を伝って球体に飛びつくと、そのまま吸収されて跡形もなくなった。
「お前の始末は後だ、アーチャ」
そう言うと、ジェッキンゲンはくるりと背を向け、ハーフパイプ状の溝に沿ってユイツに接近して行った。
「しっかりして……大丈夫、傷は浅いから」
それは、思いつく限りの慈悲の言葉だった。ゼルの腹部からはおびただしい量の血が流れ、緑色の軍服を絶望の色で染め上げていった。
「まだ……まだだ……」
ゼルはアーチャの手を押し退け、声にならない声でそう言った。立ち上がろうとして肘をつき、震える両腕で上半身を押し上げた。傷口から血がどっと溢れ出し、裾を伝って滴り落ちた。
「立っちゃダメだ! 死んじまう!」
アーチャは必死に叫んだが、ゼルの顔を覗き込んで絶句した。なんと、笑っている。
「立てるさ……誰かのためになら、立てる」
その言葉どおり、ゼルは渾身の力を振り絞って立ち上がり、グラグラとおぼつかなげな両足で全身を支えた。ゼルは驚倒するアーチャをないがしろに、足元に転がっていた剣を拾い上げると、余力をフルに使ってそれを放り投げた。剣は五、六メートル前方に落下し、地面で跳ねて溝の中に落ちた。
「行け、アーチャ」
力のすべてを使い果たしたゼルは横様に倒れ込み、アーチャの顔を見上げて言った。ゼルの目は完全に据わっていた。その瞳はもはや何を見るでもなく、死という闇に向かって、今にも機能を停止させんばかりだった。
「私のことはいい……さあ、行くんだ」
ゼルの言葉を受け止めた時、アーチャはそこにジャーニスの姿を見た。ジャーニスがアーチャに残した最期の言葉が、頭の中で止めどなく復唱される……。
『行け、地上へ』
何か目に見えない不思議な力で引っ張られるように、アーチャの足は自然と動き出していた。恐ろしい力を備えた究極の殺戮機械目指して闇の中を疾走するには、それなりの勇気と覚悟を要した。それでもアーチャは、その先にある明るい希望を信じて……ジャーニスの思い描いた地上という名の希望を信じて、走り続けた。
ジェッキンゲンに追いついた時、アーチャは見た。街を南北に両断する光の傷跡の中から、剣を持って威勢良く飛び出す一人の男の姿を。
「……ファージニアス!」
ジェッキンゲンの恐怖におののく声が霹靂の轟音と共に鳴り響いた。ファージニアスは両手で不器用にゼルの剣を持ち、斧で薪を割るようにして頭上へ大きく振り上げると、核に照準を合わせて切っ先を振り下ろした。その動作とほぼ同時に、核がまばゆいほどの強い光を発した。剣の先端が核に触れ、高らかな金属音を響かせた瞬間、ファージニアスは核から放たれた光線に包まれ、一瞬にしてその場から姿を消した。ファージニアスの命は、光によって照らされ、深い闇の中へと葬られたのだ。
アーチャには、ファージニアスの死を悲しむ余裕は与えられなかった。球体から核が滑り落ち、音を立てて地面に落下すると、アーチャの足元まで転がった。
「アーチャ! シャヌだ!」
ユイツが叫んだ。ジェッキンゲンが核を取り戻そうと躍起になって接近してくる。アーチャは空気のようにふわりと軽い核を拾い上げ、すべきことを承知していたかのように、シャヌの頭上目掛けて放り投げた。
何度も練習を重ねたかのように、二人の息はピッタリだった。シャヌの右手が頭の高さまで上がり、手の平が宙を舞う核へ向けられると、五本の指は力強く空を握った。
「やめろおおおぉぉ!」
耳をつんざくようなジェッキンゲンの絶叫と共に、核は太陽のような強烈な光と熱を発し、ガラスの破片さえ残らないほどの凄まじい威力で爆発した。それは、世界一壮麗で豪快な、忌まわしき花火だった。光の粒が空を埋め尽くす流星群のようになって地上へ降り注ぎ、見る者の心を魅了した。多くの尊い命を奪ったその美しき姿は、光となって解き放たれた死者たちの魂でもあったのだ。
だが、核の中で生成された光はまだ宙に生きていた。それは今まで以上にギラギラと強く発光し、アーチャたちの心を容赦なくわななかせた。ジェッキンゲンの奸悪な高笑いが雷鳴と競い合うようにして辺りにこだました。
「光の命が生きていた……私の意志は、まだ未来の中にあったのだ! 光が私を照らし続ける限り、私の存在は滅びぬ! 私は、私の意志と共に、人々の記憶の中で永久に生き続ける!」
それは、ジェッキンゲンの高揚した精神がもたらす、心からの叫び声だったに違いない。未来と過去を生きてきた彼は、本当の恐怖とは何かを悟り、辛苦な現実を否定するため、何にも勝るその体を手に入れた。廃れた人類のしがない産物であり、この世の象徴とも言うべき、その醜い体を。そして、その『正当な行為』が自身の破滅へとつながったことに、ジェッキンゲンはまだ気付いていなかった。
「……さあ、ユイツ。もうこれまでだ」
ジェッキンゲンは静かに言い、核の残していった光の命に向かって手をかざした。発光体は時間の経過と共に大きさを増し、ジェッキンゲンの思い描くままに変化していった。目が痛むほどの強烈な輝きを放つ頃には、そばにたたずむ廃屋をまるまる一戸飲み込んでしまうほどの大きさにまで膨れ上がっていた。
光の命はノロノロと宙を移動し、天にかざすジェッキンゲンの腕の前で音もなく動きを止めると、周囲を太陽のごとく明るく照らし出した。
「僕は、僕自身の扱い方をよく心得ている。よって、僕は負けない」
光彩に照らされるユイツの表情は、それ自体が『自信』で構築されているかのように、揺るぎなく、確実なものであった。
「俺たち、今度こそ絶体絶命だ」
アーチャの元に駆け寄ってきたアンジが、出し抜けに弱音を吐いた。シャヌはそんなアンジの背後から不安顔を覗かせ、ただじっと向こう側の様子を見つめるばかりだ。アーチャはいたたまれない思いにかられながら横たわるゼルの方に目をやった。突風でマントがひるがえる他は、指先一本さえ微動だにしない。ファージニアスに至っては、もう……。
「ファージニアスが殺された……」
アーチャは、吹き荒れる強風の音にかき消されそうなほどの微かな声で切り出した。
「俺には、誰が正しくて、何が間違いなのか、もう分からなくなっちまった。ジャーニスがそうだったように、ジェッキンゲンのやってることだって、それは自分にしてみれば正当な行為なんだ。間違ってなんかないんだ」
二人の黙り込んだ顔をじっと見つめながら、アーチャは更に続けた。
「みんなだって、誰にも否定されたくない考えや思いの一つや二つ、心の中に持ってるだろう? だから、それらを否定されることは、自分の存在を否定されることと一緒なんだ。それが例え、明確な過ちだったにしても……俺たちは、もっと他人の意志を尊重すべきなんだ」
「でも、ジェッキンゲンのやってきたことは決して許されることじゃない」
シャヌがそう言うと、アーチャはジェッキンゲンへと視線を戻し、アンジは眉根を寄せて顔をしかめた。
「窮屈な世の中だぜ」
そのとおりだと、アーチャは肩をすくめた。
今や、光の命はその主であるジェッキンゲンの球体をも飲み込まんばかりに巨大化していた。その中央部は燦々たる太陽よりも明るく、輪郭はおぼろ月のように淡く輝いている。それにも関わらず、ユイツは相変わらず不敵な笑みを浮かべたまま、何も行動しようとはしない。どんな素晴らしい作戦を思いついたにしても、光の中で薄笑うジェッキンゲンの不気味な表情からも見て取れるように、タイムリミットが迫っているのは明らかだった。
「お前は幸せ者だ、ユイツ。光の中で絶命し、死の恐怖と向き合う暇もなく、刹那にしてそのすべてが滅びるのだからな」
ジェッキンゲンは高ぶる興奮を抑えようともせずにそう言った。両腕が左右に大きく広がり、光の命がその場で大きく震え始めた。
「私は光を糧とし、希望と絶望の狭間でこれからを生きていく……人類の記憶の中にジェッキンゲン・トーバノアの名を刻み込み、我が名を語り継ぐ者の恐怖の根源において、私の存在は確立される……世界の支配者は、この私であるべきために!」
それはすべて、ほんの一瞬の出来事のように思えた。
ジェッキンゲンがその長い両腕を前に突き出すのと同時に、ユイツの表情から笑みが消え失せ、胸の上で組んでいた腕をほどいた。ジェッキンゲンと同じく両手の平を体の前へ押し出すと、そこに、ルースター・コールズのアジトに覆い被さらんばかりの巨大なムーンホールが出現し、海中を思わせるような空間が見上げる者の視界を波打たせた。ジェッキンゲンによって放たれた光の命は、空間に引き寄せられるようにして吸い込まれ、その麗しげな威容は一時的に姿を消した。
アーチャが、ジェッキンゲンの遥か上空、空飛ぶ神殿のすぐそばにムーンホールの出口が開かれていると気づくのに、そう時間はかからなかった。黒雲で敷き詰まる空をアーチャが率先して見上げ、シャヌとアンジ、ユイツがそれに続いた時、ジェッキンゲンはようやくすべてを悟った。
「いやだ……」
天を仰いだ、ジェッキンゲンの最期の言葉だった。
ねじれた空間をくぐり抜け、ムーンホールから姿を現した光の命は、自らがあるべき元へ……ジェッキンゲンという、支配者の元へ、まっすぐに帰っていった。その儚い存在を、全人類の大過の象徴として見せしめるために。