二章 惨劇の始まり 6
ゴーレム族が皿を回収するためにまたやって来ると、作業は自然と再開された。約三十分程度の休憩だったが、アーチャにとってはそれで十分だった。この空腹を紛らわすためには、とにかく体を動かすしかないのだ。
それから一時間も経った頃、レンガに液体を塗るというだけの単純な作業に飽きてきたアーチャは、周囲をちらちらと見回して、作業の流れや兵士たちの目配りなどを観察していた。兵士たちはムチと剣をベルトに備え、ドレイたちを何とかして痛めつけてやりたいと言わんばかりに、目をぎらつかせながら徘徊している。一発のくしゃみさえも許されない、そんな張り詰めた空気が辺りを満たしていた。
「あ……」
アーチャは思わず立ち上がった。十メートル以上もある一本の巨大な石柱がバランスを崩し、山積みのレンガに向かってゆっくりと倒れていく……。
鼓膜を麻痺させるような凄まじい轟音と振動がアクアマリン全体に広まった。砂埃が天井高くまで舞い上がり、そのせいで神殿の金色がくすんだ。次にアーチャが見たのは、あるイクシム族の一人が兵士たちから暴行を受けている姿だった。取り囲む兵士たちの中に、あの双子も混じっている。イクシム族は地面にひれ伏し、頭を手で抑えてムチの連打に堪えていた。
「てめえ、よくも……もう少しで押し潰されるところだったぞ!」
叫びながらムチを振り下ろしているのはジングだった。空気を切り裂くビュンビュンという音と、岩のようなイクシム族の肌にムチの末端がぶち当たるビシビシという音が重なった。むごたらしい悲惨な光景だ……。
確かに、過失はイクシム族にあるのかもしれないが、それを兵士たちが寄って集って暴行を加えるなど言語道断だ。だが、アーチャが頭にきた理由はそれだけではない。それは同じ血の通う仲間たちの反応だ。全員が見て見ぬふりを決め込み、作業を再開させている。俺たちには一切関係ないという態度だ。
どんな状況においても自分の身だけを守り、兵士に逆らわない手段が最も賢明な選択だということを、彼らはよく知っているのだ。アクアマリンに閉じ込められている以上、そんな考えを抱いてしまうのは当然と言えば当然である。しかし、こんな地獄のような所で心が腐ればもう終わりだ……すべてが駄目になってしまう。
だが少なくとも、あいつの心はまだ腐っていなかった。
「もう、許してやってくれないか?」
イクシム族の103番……根性悪のあの男が、兵士の群れに向かって声を張り上げた。兵士の一人が振り向いた……ジングだ。
「何だぁ、おい……今、何て言った?」
男はひるまなかった。
「許してやってくれって言ったんだ。ゲスチン」
ジングの表情に怒りがみなぎり、腫れた左頬の赤みが顔中に広がった。ジングはゆっくりと歩み寄り、大きく右足を振り上げて男を蹴り上げた。男の巨体は宙を舞い、ズシンと地面を打ち鳴らして叩きつけられた。
「よく見たら、てめえ、昨日のイクシム族じゃねえか。あの牢屋から運良く生きて出られたって噂は本当だったらしいな」
そう言って、ジングは渾身の力を込め、男に向かって何度もムチを振り落とした。殺気立った小さな瞳が、男を殺そうと奇怪な輝きを放っている。
「死ね! 死ね! 死ね! 死……」
ムチが突然、その動きを止めた。ジングが馬鹿力を加えても、ピクリとも動かない。ムチの先端を誰かががっちりと握りしめているから当然だ……アーチャがそこに立っていた。
「へへん! 助けに来てやったぜ!」
ズキズキと痛む右手でしっかりとムチを握り直しながら、アーチャは陽気に言った。男は首を横に振り、声にならない声でこう言った。「逃げろ」と。
ジングの顔に戦慄が走った。
「やっぱり生きていやがったか、812番」
武器を手に持ったたくさんの兵士たちに取り囲まれながらも、アーチャはいつもの自分を見失わなかった。
これでいいんだ……これが人として正解なんだ。アーチャたちの心は、まだ腐っちゃいないのだから。
「812番……今度こそ、今ここで、てめえをなぶり殺しにしてやる」
絶体絶命の状況で、アーチャは笑っていた。挑発するような、不敵な笑みだ。
「俺が812番? そりゃ違うな。俺の名前はアーチャだ」
ジングの表情が怒りに歪み、顔中から汗を滴らせた。
「数字で呼び続けてドレイたちを支配しようなんて考え、俺には通用しないからね。だから、俺は絶対に本当の自分を見失ったりはしない」
ジングの一撃を皮切りに、兵士たちのアーチャに対する暴行が始まった。ムチを入れられ、蹴りを喰らい、唾を吐きかけられ、それでもアーチャはじっと耐え続けた。段々と気が遠くなり、痛みさえも感じなくなり始めた時、またあの声がした。騒ぎを止めようと、声を枯らして叫んでいる。薄れていく意識の中でアーチャが最後に見たのは、真っ赤な軍服を着たあの男だった……。
アーチャは全身にほとばしる激痛のせいで目を覚ました。頭の上のたんこぶが、体中の至る所に分裂してしまったかのようだった。足の指一本でさえ動かすことができない。
突然、アーチャは自分が今、ふわりと優しい温もりに包まれたベッドの上で横たわっていることに気がついた。地上に出られたのかもしれないと心を躍らせたが、右側にそびえる岩の壁や、土でできた天井を見る限りでは、どうやらそうではないらしい。アーチャはため息して、何故自分がここにいるのかを思い出そうとした。だが、脳味噌を働かすだけで頭が割れそうなくらい痛むので、なかなかうまくいかない。
確か、イクシム族のあの男をかばって、そして自分がボコボコにされて、それから……。
「目が覚めたようだな」
ゼルの声がした。だが、姿が見えない。アーチャはゆっくり上半身を起こし、部屋全体を見回した。小ぢんまりとした部屋に(一瞬、アーチャはここがジャーニスの部屋かと錯覚した)、ゼルが一人で立っていた。
「どうして俺はここに?」
アーチャは小さな声で尋ねた。今は、ただ声を出すのでさえ辛い。
「お前を含めて三人が暴行を受けたが、幸い、他の二人は軽傷で済んだので部屋へ送り届けた。だがお前の場合、重傷の上に騒ぎばかり起こす常習犯だ。このまま帰すわけにはいかない」
「さっきのは俺じゃなくて……」
「どんな理由であれ、ここの兵士たちに歯向かうことは決して許されることではない。さあ、これを飲むんだ」
ゼルは水の入ったグラスと共に怪しげな白い錠剤を押し付けながら言った。アーチャは渋々とそれらを受け取った。
「鎮痛剤……痛み止めだ。それを飲んで、もう一度よく寝ろ。今晩中には部屋へ送ってやろう」
そう言ってサッとマントをひるがえし、ゼルは部屋を出て行ってしまった。アーチャは手に持ったままのグラスと錠剤をしげしげと眺めた。ゼルとこの薬品をどこまで信用できるかは分からないが、とにかく今は、全身が内側から殴られているかのように痛い。早く楽になりたい……その一心で、アーチャは胃袋の中へ錠剤を一気に流し込んだ。たちまち、強烈な睡魔がアーチャを襲った。アーチャは空のグラスを握りしめたまま布団の中に潜り込み、そのまま深い眠りについた。
深夜。アーチャはゼルに連れられて部屋へと戻って行った。痛み止めのおかげでゆっくりと歩けるまでに回復していたが、まだ体中の節々がズキズキと痛む。そんなアーチャにとって、ゼルの部屋を出た直後に待ち受けていた急な坂道は、かなり酷だった。
ノッツ族の睡眠集団をまたぎ、アーチャは、部屋の奥まで歩いて行った。イクシム族のあの男が、アーチャの帰りを待っていた。
「よう、帰って来たぜ……えーと……103番」
男は首を横に振った。真剣な眼差しでアーチャを見つめ返している。
「103番という名で呼ばれ続けていた俺は、本当の自分と、イクシム族の誇りを忘れてしまっていたんだ。……アーチャ、お前のおかげでそのことに気付くことができた。これからは俺も、自分の名で生きていく。103番ではない、アンジという俺自身の名で」
二人は互いを本当の名で呼び合い、その日を境に親友となった。種族という名の血の壁を越えた『友情』が、アーチャとアンジを強く結びつけるきっかけとなったのだ。惨劇は、地下にも降り注ぐであろう、淡い月明かりと共に消え去った。