十七章 闇の中の答え 5
「不思議だ……こんな状況だというのに、快楽が体を満たし始めている」
その声はアーチャのものだった。だが、鋭い爪も、背中から生える黒い翼も、紫色の皮膚も……そして、その人格さえも、アーチャのものではなかった。もう一人のアーチャが、その体のすべてを支配していた。
「悪いね、アーチャ」
アーチャは自分の心に向かって呟いた。そして、かつての記憶と感覚を思い出すかのように、その大きな黒い翼をその場で羽ばたかせ、まだ眠ったままの邪悪な力をみなぎらせた。
「待ってろ、アンジ。すぐそっちへ行く」
アーチャは大きなつむじ風を巻き起こすほど強く翼を羽ばたかせ、その勢いを利用して格子に突っ込んでいった。鉄格子はマッチ棒でできているかのようにベキベキとへし折れ、素直に道を譲った。アーチャはバランスを失いつつもできるだけ早く翼を動かし、突風が路地を吹き抜けるかのように牢屋から飛び出すと、一気に聖地の天井付近まで舞い上がった。そこから湖の張る地面を見回しても、やはり誰もいなかった。しかし、アーチャのその耳はかすかにだが、どこかから発せられる騒々しい物音をちゃんと聞き取っていた。
「あの作業場からか」
アーチャはくるりと向きを変え、過去に自分たちが神殿造りに励んでいた作業場へと通じる穴を見定め、凄まじいスピードで滑空していった。穴に飛び込む寸前に翼を折りたたみ、地表スレスレを飛んで行くその姿は、その手の学者から言わせればまさに未知の生き物で、百科事典に載せようと意気奮闘してカメラを構えたに違いない。
穴を抜けた先は、まさに戦場の真っ只中だった。
イクシム族を始め、ゴーレム族、ギービー族、ノッツ族、それにマープル族までもが、兵士たち相手に勇猛果敢に立ち向かっている。イクシム族は兵士たちを軽々と持ち上げては投げ飛ばし、ゴーレム族は機械的な動きで兵士たちを追い回し、ギービー族とノッツ族は手を組んで兵士たちにイタズラを仕掛けていた。中でも目を引く戦いぶりはマープル族で、その得意の魔法を駆使し、憎き兵士たちに謝罪の隙も与えないほどこてんぱんにこらしめていた。
大混戦の中、その中央でどっしりと構え、黄金の輝きでその存在感をこれでもかとアピールしているのは、あの神殿だった。黄金の神殿は、アーチャとアンジがいた時よりも遥かに壮麗で、巨大な柱が幾本もそそり立つその風貌は、一日中眺めていても飽きないと思われるほど立派なものだった。
「……グランモニカ」
アーチャは、黄金の神殿の頂において、玉座にゆったりと腰を掛け、ドレイたちの戦いぶりを高見から拝見している巨大な人魚を見つけた。それは紛れもなく、グランモニカだった。両手に輝く巨大な真珠玉が彼女であることを明確にしている。アーチャはすぐさま神殿目がけて急降下し、グランモニカの前に降り立つと、堂々たる表情で近づいた。
「久しぶりですね、アーチャ」
アーチャは足を止め、グランモニカをじっと見つめた。
「よく俺がアーチャだと分かりましたね」
すっかり変わり果ててしまった自分自身を哀れに思いながら、アーチャはそう言った。グランモニカは奇妙な笑顔でアーチャを見た。
「足音で人を判別するなど、私にとっては造作もないこと。例えあなたが、ジャーグ族の姿となって私の前に現れたとしてもね。……きっと彼にだって分かっているはずです」
アーチャは後ろを振り返り、すぐ背後にたたずむ一人のイクシム族を見た。アンジだった。
「お前、アーチャなのか?」
階段を駆け上がってきた矢先、アンジは肩で息をしながらおずおずと聞いた。その声はわずかに上ずっている。アーチャは青々と輝くその瞳でアンジを見つめ返した。
「ああ……なぜ俺だと分かった?」
アーチャはやはり聞いた。アンジは目を逸らしたが、やがてまたアーチャを見た。
「俺、ずっと知ってたんだ……お前がジャーグ族だってこと」
アーチャは言葉を失った。
「ジャーニスに毒矢を撃たれてやられたフリをしてた時、ジャーニスが、アーチャはジャーグ族だと言ったのを聞いたんだ」
「なぜ今まで黙ってやがったんだ?」
アーチャは怒りをあらわにしてじりじりとアンジに詰め寄った。だがアンジは、威嚇的な眼差しで歩み寄ってくるアーチャに動じることもしなかった。
「そんなこと、言えるわけないだろ。自分の正体に気づいてなかったお前に、『お前はジャーグ族だ』なんて……俺だって、ずっと苦しかったんだ」
「ならば質問を変えよう……なぜ逃げなかった?」
アーチャは足を止め、静かに聞いた。
「逃げるって、何から?」
アンジの苛立たしげな声がぶっきらぼうに聞き返した。
「ジャーニスの話を全部聞いたんだろ? ジャーグ族の恐ろしさを知って、どうして俺から逃げなかったんだ? こんな化け物の俺から……」
「お前だったからに決まってるだろ!」
アンジは怒鳴った。
「ジャーグ族が自分たちの力と姿に怯えていたのは知ってる。けどな、それはイクシム族の俺たちだって同じことだ。みんな自分が怖かった。他人がこんな醜い自分を見てどう思うのか、どんな冷たい目で見るのか、とても怖かったんだ。だが……お前は違った」
アンジの声は段々と小さくなっていったが、アーチャにはすべて聞こえていた。
「お前だけだった……こんな俺に話しかけてくれたのは。仲間を失い、絶望の中で生きていた俺は、あの時お前に心配されて……本当は、すごく嬉しかったんだ。異なる種族同士での争い、考え方の行き違い……そんなのはみんな些細なことなんだって、関係ないんだって、気付かせてくれた。そんなお前を、俺は心の底からすごいと思った。だから、お前がジャーグ族だろうが何だろうが、そんなことはどうでもよかったんだ。俺はお前を……アーチャ・ルーイェンを、まじで尊敬してるんだぜ」
アーチャはまっすぐにアンジを見ていられなかった。アンジに対する後ろめたい思いが、アーチャをそうさせていた。
「お前にそう言われて、あいつも喜んでるだろうよ……」
「え……何?」
アンジは聞き返したが、アーチャは応じなかった。
「悪いけどな、アンジ。俺はもうお前の知ってるアーチャじゃねえんだ。ジャーグ族として目覚めたもう一人のアーチャとして、俺は今ここにいる……これからもずっとな」
アンジは視線を下に向けてしばらく黙り込んだが、やがて顔を上げた。
「分かった。分かったから、これ以上複雑なのはなしだ。とにかく、お前はアーチャなんだろ? だったらそれでいいじゃねえか」
アンジの開き直りも同然の態度に、アーチャは思わず拍子抜けしたが、これからやるべきことを完全に忘れはしなかった。