電車の窓から
黄色い線の内側から出ないでください
いたずらっ子のような笑顔で、君は僕のお腹を叩いた。
黄ばんだ白の電車が朝日を反射させながらホームへ飛び込んでくる。ほのかにいい香りが、僕の右に立つ君から風に乗って通り過ぎる。僕は1人で黄色い線をまたぐ。扉が閉まる風圧を背中に感じるが、僕は振り返らなかった。
さて、僕は今から何処へ行こうか。
最初に出会った時もこのホームだった。君は制服を着ていた。高校生なのだろう。毎日平日は同じ時間に電車を待っていて嫌でも顔を合わせた。あちらもたぶん、僕のことは認識していたと思う。これは何も僕が自分の顔に自信があるからとか、派手な服装をしているからとかそのような理由ではない。僕は黒髪短髪にスーツ、地元の会社に通勤するサラリーマンである。ただ、その駅が少々田舎で毎朝その時間に電車を待つのが僕と彼女くらいなのである。2人っきりのときもたまにあるからきっと顔くらいは覚えているだろう、ということだ。
彼女のことは何も知らない。制服を着ているから高校生なのだろう、ということくらいは分かるがその程度だ。逆に彼女もきっと僕のことは何も知らないだろう。サラリーマン。それ以外の情報を彼女に与えているとは思わない。
ホームは同じだが、僕は彼女と同じ電車に乗ることはない。行き先が違うのだろう。だから僕はいつも彼女が学校近くの駅に降り、友達を見つけて学校に向かう姿どころか、電車に揺られる姿すら見たことがない。僕は彼女をホームへ残し、会社へ向かう。
僕は彼女のことを何も知らない。しかし、彼女は少なくとも真面目な性格であるようだ。僕が乗る電車の次の電車は10分後に来るが、彼女は僕よりも先にホームにいる。僕は電車が来る10分前にホームに行くから、彼女は最低でも20分から30分はホームにいることになる。その間、彼女は大抵本を読んでいる。僕はそれを見てなんとなく新聞を読むようになった。
僕と彼女の話は以上でおしまいだ。毎日とはいえ、1日のうちのほんの数十分間の出来事に過ぎない。何気なくて、当たり前の日常だ。
しかしこれは、後に僕たちがハンカチ事件と名付ける出来事が起こるまでの話だ。彼女の顔を覚えてから半年ほど経った頃だろうか。季節は冬である。寒くなってから僕は新聞を読むのを止めた。素手をだすのが嫌だったからだ。ぼんやりと線路を眺めていると、何か白く小さいヒラヒラとしたものが目の前を通り過ぎた。ハンカチであると気づくのにさほど時間はかからなかった。ハンカチが線路に横たわるのを見届けた後、彼女の方を見ると、ちょうど目があった。彼女の口は丁度あっ、という形をしていた。僕はとくに何も考えることもなく、鞄を側に置いた後線路へ降りた。後ろでえっ、あの、といった戸惑いの声が漏れ聞こえてくる。僕はそれが遠慮の声だと思っていたが、ハンカチを拾って顔を上げてみるとそれは勘違いだと気がついた。遠くから高音の摩擦音と共に電車が近づいてくるのが見えた。これには流石に驚き少々焦った。
「あの…危ないです!電車が!」
僕はこのとき彼女の声を初めて聞いた。へえ、君、そんな声なんだ。知らなかった。僕は予想外の発見に出くわしたことで冷静さを取り戻した。僕はハンカチと共に向かいの線路へ移動し、回り込んでもう一度改札を通った。ハンカチを渡すと、彼女は何度も頭を下げた。ごめんなさい、ありがとうございます、ありがとうございます、といった割合で頭を下げた。僕は苦笑いを浮かべて手のひらを向けた。それでも彼女は気が済まない様子だった。
「でも電車、乗り過ごしましたよね?お仕事、遅刻になるんじゃないですか?」
僕はこの言葉を聞いて、会社のことよりも彼女がこの電車に僕が乗ることを知っていたのか、ということを考えていた。考えれば当たり前のことなのだが、僕はなぜかこのときなんとなく嬉しく感じていた。アドレナリンが湧いていたからだろうか。アドレナリンに関して、会社に行った頃には全く分泌されていなかったので、上司にこっぴどく絞られたときは言い訳をする気すらおきず最悪の気分になったことは言うまでもない。
彼女とその日はそれっきりだったが、次の日から僕と彼女は会うと挨拶を交わす間柄となった。それからまたいくらか日がたって、僕たちは電車を待つ間軽く話をするようになった。僕がハンカチ事件の日、上司にひどく怒られた話をすると、彼女は腹を抱えて笑った。
彼女はよく笑った。いつも本を読んでいたから大人しい子だと思っていたが、そうでもないようだった。僕のつまらない話にも笑ってくれるし、彼女の話す物語にはどれも笑いがあった。彼女との年齢差は5つくらいだろうか。あまり離れすぎていないからかは分からないが、彼女とは話がよくあった。見ていたテレビは若干違ったが、そういった世代間の違いをネタにした話も大いに盛り上がった。
彼女は釣りが好きだった。予定があう日は、よく父と釣りに行くそうだ。釣り上げたブラックバスはこんなに大きかったと、彼女は両手を広げてみせた。
彼女はモンブランが大好きだ。友達とたまに行くケーキ屋さんでは必ずモンブランを注文し、食後にモンブラン大好きと叫ぶことから友人からはモンブラン大好きを略してモンキーと呼ばれることもあるそうだ。僕がおはようモンキーとからかうと、彼女は手に持ったセカンドバッグを僕のお尻にぶつけた。
「そんなこと言う人は、モンブラン食べないで下さい。そして私に持ってきてください。責任を持って食べさせて頂きますから。」
彼女はそう言って舌をだした。
彼女は書道部に所属していると言った。中学生まではバレー部だったが、高校生では文化系の部活をしたいと思い未経験者だったが書道部に入部したという。言われてみれば本を読む姿勢も立って話すときもなんとなく背筋がきれいにそっているような気がした。
彼女は視力が悪かった。ここ数年であっという間に落ちたという。書道のとき眼鏡は落ちてしまうから、コンタクトレンズをつけているという。
彼女は星が好きだった。空の見上げっぱなしで首をつったことがあるらしい。
彼女は卵焼きにはマヨネーズをかけると言った。
彼女は生まれ変わったらクラゲになりたいと言った。
彼女の母は短気だと知った。
彼女はモヤシが苦手だと言った。
彼女が好きな曲を聞いた。
彼女は小説家になりたいと言った。
僕は彼女のことを少しずつ知っていった。僕はいつの間にか、朝起きると何を話そうか考えるようになった。彼女と今朝は何を話そうか、上司がオフィスで思いっきり転んだ話はどうだろうか。彼女はまた、笑ってくれるだろうか。
僕はいつもより2分、家を早く出た。外はすっかり暖かくなっていて、耳をすませばホトトギスのさえずりが聞こえてくる。
いつもの改札を通り、いつもの階段を上った。黄色い点字ブロックを目線でなぞりながらそのまま青いベンチへ向けた。
彼女はいつも通りそこに座って本を読んでいた。いつも通りの彼女がいた。いつも通りの彼女を見て、僕は息を飲んだ。彼女があまりに美しかったからだ。僕は歩くことを忘れ、立ち尽くした。僕はこれほど美しい風景を見たことがあるだろうか。僕はふと、子供の頃に見た夕焼けを思い出した。あのときも僕は動くことができず、立ち尽くした。美しい。この言葉を肌で感じたのは思えばあのときが初めてかもしれない。
「おはようございます」
彼女が言った。
「どうしたんですか?ぼうっとして。眠たいんですか?」
彼女はニヤニヤして言った。
僕ははっとしてかぶりを振った。
その時ホトトギスがまた鳴いて彼女は口笛を吹いて真似をした。
彼女は高校三年生になった。僕と出会ったときは高校二年生だったということである。僕の6つ下ということだ。彼女の部活動は夏までで、それからは受験生になるという。僕は特に会社を辞める気もなかったので、あと1年はこの日常が続くだろう。1年という年月について僕は少し考えた。あと春と夏と秋と冬が1回ずつやってくるということ。あと300回くらいの朝がやってくるということ。1年は短いのか、長いのか。そんなくだらないことを考えては、僕はまたホームへ向かった。彼女が夏服に衣替えをしてきたころ、セミが鳴き始めて、彼女はまたセミの鳴き真似をした。
世間は夏休みが始まっているであろう8月頭、僕たちはホームにいた。僕の会社の休みはお盆の1週間で、彼女は部活や勉強があって学校に行かないのはお盆だけだということが理由だった。電車を待っている間、彼女は服を仰いだ。
ツクツクボウシが鳴き始めた。だんだんと辺りは過ごしやすい気候に変わってきていて、彼女の口数も増えた気がした。ツクツクボウシの鳴き真似をしたことは言うまでもない。
ツクツクボウシが聞こえなくなったころのある朝、ホームに彼女はいなかった。僕が先にホームにつくことはしばしばあることだが、結局この日僕が彼女を見ることは無かった。
次の日も彼女はいなかった。風邪をひいたのだろうか。それとも、2日連続で寝坊しているのだろうか。
することがない僕は、セミの死骸が足元に転がっていることにふと気がついた。
彼女を見なくなって1週間が過ぎた。
電車を待つ時間は、彼女の身に起こっている事故事件を予想する不吉な時間となった。
彼女のことだから、病気やいじめで1週間も学校を休むなんてことはないだろう。
親戚が亡くなって実家に帰っているのか、それとも彼女自身が事故に遭って目を覚ましていないのか、出先の事件に巻き込まれて家から出たくなくなってしまったのか…
どれにしても、僕には彼女に連絡をとる手段がないし、手段があったとしてもそれを用いるかといわれれば曖昧な返事になってしまうだろう。僕はもともとそういう臆病な人間なのだ。きっと彼女はまたこんな僕を意気地なしですね、と笑うだろう。私なら置き手紙を置きますよ?とか、念力を飛ばしますと軽口をたたくに違いない。そしてそれを僕は…
ああ。
しまった。
僕はまた、彼女のことを考えている。どうしようもなく彼女との会話を思い出している。
ここ最近ずっとだ。
もしかして僕は彼女に、恋しているのだろうか。
彼女と毎朝話をしている内に、好きになって、いつも彼女のことばかり考えて、彼女を抱きしめたいと考えているのだろうか。
僕は彼女を見失って9日、僕を見失った。
彼女を見なくなって20日、僕は考えることをやめることにした。どんな予想も憶測もしない。ただいつも通り、10分間電車をまつ。僕は1年前の日常を思い出した。1年前も特に何も考えることなく、遠くでぼんやり聞こえる電車の音を秋風の中に感じていた。
彼女が消えてから35日、残暑は跡形もなく消えてなくなり、辺りはどっぷりと秋に浸された。僕は早々に上着を羽織っているが、彼女はまだ中間服だろうか。僕は特にすることもなく、立つのも疲れたので青いベンチに腰掛けた。なんとなく階段の方を見る。彼女から見える景色はどんなものだっただろうか。彼女はここからどんな僕を見ていたのだろうか。彼女はどんな本を読んでいたのだろうか。彼女は僕のことをどう思っていたのだろうか。彼女はどうして消えてしまったのだろうか。彼女はどうして僕に何も言わずに…
「黄色い線の内側から出ないでください」
冷たい女性のアナウンスが聞こえる。
その直後ホームに電車が飛び込んできた。パンパンの膨らんだ風船から漏れるような音と共に扉が開き、僕はいつも通り長方形の入り口に吸い込まれる。誰もいないホームを残し、扉は閉まった。
僕が彼女の何を知っているのだろうか。
僕が彼女について語れることがあるのだろうか。
僕は彼女について何も知らない。
知る機会ならあったかもしれない。
僕はそれを放棄した。
僕は彼女について何も知らない。
僕は彼女について何も知らない。
僕は空っぽだ。
僕は涙を流した。
呻き声を抑えて泣いた。
僕は空っぽだ。
僕は空っぽだ。
いつも通りの駅には、僕はおりなかった。
僕は体に力が入らず、ぐったりとイスにもたれかかっていた。
駅員に肩を叩かれた。終点だそうだ。
僕は再び電車に乗った。窓の外に広がっていたのは僕の街だった。僕が知っている、いつも通りの街だった。僕はそれを見て、また泣いた。
あの駅が近づいてきた。いつもなら日が落ちてから見る景色だから、違う駅に思えた。スピードが落ちて、重心が前へ動く。僕は虚ろな目でまた窓の外を見た。さっきいたホームだ。いつも通りのホームだ。僕が階段を下りるといつも青いベンチで。
僕は目を疑った。思わず立ち上がった僕は、最後の停車で尻もちをついた。青いベンチには、彼女がいた。
いつも青いベンチに座る、彼女がそこにいた。
僕は扉が開くと同時に電車から飛び出し、夢中で階段を上った。
彼女がそこにいる。
でも、僕は彼女のことを何も知らない。
なんて声をかければいい?
どうして僕はここにいるのか聞かれたら?
励ましてあげる?
なにを?
いつも通りにあいさつ?
あいさつ?
いつも通りってなに?
僕はいつもそうだ。
いつもいつもいつも通り。
じゃあどうすればいいんだ?
彼女は、いつも通りの彼女のはずなのに?
気づくと僕は彼女の前にいた。息を切らす僕に、彼女は気づいた。彼女は少し驚いて、下を向いた。彼女はしばらくして、何かを言わんと僕に顔をあげた。
「僕は君のことをなにも知らない。」
僕はそう言って彼女の言葉をさえぎった。
何かを言おうとしていた彼女はまた驚いて、そして笑った。
「なに言ってるんですか?」
彼女は笑った。
彼女は笑って、僕に言った。
彼女は僕の名前を知っていると言った。
僕が昔サッカー部だったと言った。
僕は視力がいいと言った。
彼女も僕も同じで星が好きだと言った。
僕は卵焼きにはケチャップをかけると言った。
僕は生まれ変わったら鳥になりたいと言った。
僕に父はいないと言った。
僕はレバーが苦手だと言った。
僕はいつか、オーロラを見たいと言った。
ほら、こんなに知ってますよ。
彼女は言った。
僕たちは笑った。
彼女が笑っている。僕はこれを、もういつも通りなどとは思わなかった。
「僕は君のことをもっと知りたい。」
僕は彼女の目を見て言った。
「そうですね、てるさんには知ってもらわなくちゃいけないこと、たくさんあります。この1ヶ月のことは特に。でも、少し長くなると思うので、近くのケーキ屋さんで話しませんか?そこにすごく美味しいモンブランがあるんですよ!」
彼女と長話をする日が来るなど、いつの僕が想像できただろうか。ここから先はたぶん、全ての出来事が予想外になるに違いない。僕は遠ざかるホームを一瞥して、そう思った。