ここにいる理由
最初、私は月曜日までここにいていいって彼に言った。
今日でこの生活は終わりを告げる。
レイジはまだ、ここにいる。手を伸ばせば届くところに。
手が触れたり、頭撫でられたり。
……抱きしめられたり。
彼は確かにここにいて、けれど、どこかふわふわしていて。
彼が何者なのかわからないからだろうか。
どこか現実離れした存在。昔見た、蜃気楼のようにおぼろげで不確かなもの。
掃除できて、ご飯作れてしかもそれがおいしくて。
さりげなく気を回してくれる。なのに、どこか違う世界の人のよう。
「ねえ、レイジ君」
「はい」
鍵を握りしめているレイジに、私は問いかける。
「なんで、あんなところにいたの?」
すると、彼は目を泳がせた。
両膝を抱えて、ぽつりと、彼は言った。
「家出……してきました」
「なんで?」
彼は私のほうを見て、すぐに顔を伏せた。その瞳に、怯えの色を見た気がした。
レイジは、静かに言った。
「……ストーカーです」
「ストーカー?」
ニュースの中でしか聞いたことのない言葉に、私はきょとんとする。
レイジは、深刻そうな表情で、こくりと頷いた。
「ひとりではないみたいで。
ふたり以上はいるようなんですが、正確なところは」
「ストーカーって何あったの?」
「……手紙がほとんどですね。
休みの日とか、放課後とかの僕の行動について細かに書かれてて。
その内容がなんていうか……怖くて。
『貴方は私のもの』とか、『私に笑って見せてくれた』とか。そんな感じの内容とか。
性的なこととかも……妄想っていうんですか? そんなこと書かれているんです」
詳しい話を聞いたわけじゃないのに、たったそれだけの話で気持ち悪くて仕方ない。
居るんだね、そう言う人。どこか遠い世界の話だと思ってたけど。
レイジは膝を抱えて、じっと、座卓を見つめてる。
「誰かはわからないんです。姿を見せたことは多分なくて。
うち、人の出入りが激しいので、いったい誰がそうなのかと思ったら、家にもいられなくて。
外歩いても、誰が僕を見張っているのかと思ったら……近所歩くのも怖くて。
幼なじみのことも書かれて、あの人は僕の何なのかとか怒ったような内容の手紙もありました。
このままじゃ、あの人に危険が及ぶんじゃないかと思ったら、どこにも行けなくなってしまって。
だから、僕、家出したんです」
ずっと見張っているんじゃないのだろうけど、でも自分の行動がいろいろ書かれた手紙を何度も貰ったら、疑心暗鬼にもなるよね。
想像してみて、ぞわっとする。
「警察は?」
「相談には伺っていますが、なんていうか……やはり、僕、男なので。
それに、姿を現したことはないから、危険がすぐそこにあるって感じではないですし」
そう言って、彼は苦笑する。
男だし、手紙だけじゃ緊急性があるとは思われないか。
でも、正直そんな手紙しょっちゅうもらってたら気持ち悪いよね。
しかも複数って、気が休まらない……
「父はある程度権力のある人なので、父に頼めばいいのでしょうけど……
それは死ぬほどいやですし、父の仕事にも差支えが出かねないので。
逃げる以外、考えられませんでした」
それもまた極端な気がするけど。
彼はギュッと、両手を握りしめている。
そんなに強くビーズ握りしめたら、手にあとついちゃうんじゃないかな。
「以前家出した時は、捜索願い出されちゃって。結構な騒ぎになってしまったんですよね。
今回はその、幼なじみが手を回してくれて……大丈夫みたいなんですが、でも、ホテルとか証拠が残るようなところには行きたくなかったんです」
っていうか、よくそのストーカーにあとつけられなかったね。
見つからないくらい朝早く出たのか?
まあ、それくらいしか考えられないけど。でも、あの日金曜日だったし。
彼が金曜日に学校さぼるとは思えない。
学校だってばれているだろうし。
「この間は試験の最終日でしたので……たぶんなんですけど、見つからなくて済んだんじゃないかって思います。まあ、いくつも電車乗り継いだり、いろいろ遠回りもしましたけど」
私が抱いた疑問がわかったのか、レイジはそう言った。
「もう、何回家出したかな。
僕が姿消して、諦めてくれたらいいと何度も思ったんですけど。……身体売って、穢れたことも知れば諦めてくれるかなとも思ったりしたんですけどね」
売春してた本当の理由ってそこ?
寝るための場所を確保するってだけじゃなくて?
私は、レイジに掛ける言葉が何も思いつかなかった。
何を言っても、それは慰めにも励ましにもならない気がして。
……鍵かけたいものって、それ? ストーカーの話?
ぐるぐると、私の思考は回っていく。
けれど答えなんて出るわけない。
私は黙って、彼の話に耳を傾けた。
「でも、諦めてくれないんですよね。だからと言って、姿を見せることもないし。
いつか私に気が付いてとか書かれてるんですけど……そんなの、あるわけないじゃないですか。
……ほんとうに存在しているのかもわからないですけど。だけど、手紙だけは何度も来て」
話をしながら、彼は身体を震わせていた。
「なんで僕がって、思うんですよね。ただ、僕は普通に生活しているだけなんですけど」
怯えの混じった小さな震えた声で、彼は語る。
その見た目のせい……だよね。うん。いや、そう思っても言えないけど。
見た目がいいっていうのも大変だね。それで殺されちゃう人、たまにニュースで見かけるもんね。
でも、本人としてはたまったものじゃないだろうな。
好きでこうなったわけじゃないのだし。
「夢の中でも、誰かに追いかけられたり。どこにいても気が休まらなくて」
そう言って、レイジは腕の中に顔をうずめる。
夜うなされていたのはそのせいか。寝ている間も気が休まらないなんて、なんだろう……可哀そうすぎる。
やっぱり高校生、だよね。この子。この時期に試験っていうことは。
なのにそんな状況に置かれて、悪夢に苛まれて。怖いなんて当たり前だよね。
怯えて身体を震わせる彼に、ゆっくりと手を伸ばしその頭に触れた。
さらさらした黒い髪をそっと撫でる。不安が、触れた手から伝わってくる。
彼が顔を上げた。
そして、ごく自然に、レイジは私の手を掴み、その手を頬にあてた。
彼の手と、彼の頬に私の手が挟まれている。
すべすべして、暖かい。
……って、どうしよう。
レイジは目を閉じて、じっと、動かない。
私の鼓動がどんどん早くなっていく。
すぐそこに心臓があるんじゃないかってくらいに、耳のそばで大きな音を立てている。
彼の目が開くまでずっと、私はそのまま固まっていた。




