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チョコレイト・リリィの誘惑  作者:
5.追憶
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うたかたの夢

「そう、これ……五年前、この記事を見た時には、本当に驚きました」

 古びた新聞記事を指でなぞり、女は呟く。

「今思えば、あの子たちは二卵性双生児だったのね。長男には、顔立ちが全く似ていないんです。片割れのはずなのに、おかしな話」

 けれど、と小さく間を置く。今は家にいない、そして何の事情も知らない、次男(・・)のことを思った。

「けどすぐに、私の子だと分かりましたわ。一応施設にも連絡を入れてみましたけれど、やはり間違いはありませんでした。だって今改めて見ても、この顔立ちはあの子に……末子の亮太に、よく似ているのだもの。本当に、怖いくらい、瓜二つ(・・・)


    ◆◆◆


 ふ、と肌寒さで目が覚めた。

 何だかとてつもなく長い夢を、見ていたように思う。

 ぱちぱちとまばたきをし、ぼうっとする頭に喝を入れるように首を振りながら、これまで自分はどうしていたのだろうかと亮太はしばし考えた。

 ――そうだ。八神さんの事務所で。

 確か道を歩いている途中で、八神に会って……暖かい部屋で珈琲とクッキーを振る舞われ、八神の柔らかい声が、彼いわく『飼っている』という黒兎の自慢を嬉しそうに紡ぐのをただ心穏やかに聞いていた。それから……。

 それから?

 今こうやって目覚めるまでの、記憶が一切ない。

 とりあえずここはどこだろうと、辺りを見渡す。濡れた、古い木の匂いが鼻をついた。

 薄暗い、小屋のようなところに亮太はいた。八神と一緒にいた時の、まさに着の身着のままとなっている身体は、パステルカラーの毛布で包み込まれている。微かな温かみに、頬をすり寄せれば、どこか懐かしい香りがした。

 ガラガラと、立てつけの悪い戸が開いた音がした。外は夜が明けているのだろう、差しこんできた光が無遠慮に亮太の両目へ突き刺さる。

 思わず身を捩り、ぎゅっと目を閉じる。クスクスと、柔らかな笑い声がした。

「お目覚めかしら」

 その声に、もちろん聞き覚えはある。

 けれども何故か、この場にそぐわないほど心がほぐれていくのを感じた。彼女の虚勢に、いっそ微笑ましささえ感じる。

 俺の前(・・・)なんだから(・・・・・)、そんなに芝居みたく気取らなくたって、いいのに。

「……香澄」

 そう呼ぶのは初めてのはずなのに、唇に乗せたその名は、ひどく懐かしく愛おしいもののように思えて。

 彼女をよく知る『誰か』の感情と、リンクしているような。

 ――ひゅっ、と息を呑む深刻な音がした。

 光に慣れるため、ぱちぱちと幾度か瞬きをした亮太は、もぞりと毛布から顔を出した。どういうわけか、思わず笑みがこぼれてしまう。

 小屋に差し込む朝日を背に呆然と立っていたのは、泣きそうな顔をした、黒いコートの女。

「おいちゃん」

 縋るような、湿った声が答えた。


    ◆◆◆


 事故の後、香澄は病院に搬送された。

 幸い身体に目立った傷はなかったが、頭を強く打っていたようだったため、彼女も非常に危険な状態ではあった。

 それでも若く体力があったためか、何時間にも及ぶ緊急手術に耐えた香澄は、見事に一命を取り留めた――けれどそのことが、かえって彼女の心の傷を深くしてしまった。

 だって、静流は死んだのだ。

 運転席にいた彼はまともに衝突を受けたためほぼ即死状態で、搬送された時点で既に手遅れだったのだから。

 施設出身で身寄りのない静流は、彼の育った養護施設で手厚く葬られたという。後日、実の母親だと名乗る女性が焼香に訪れたらしいが……施設内でしめやかに営まれた葬儀に、香澄は参列しなかった。

 静流の死を受け入れられず錯乱していた香澄を、必死で説得したのも瞬だった。静流と同じ道を辿ってはいけない、君は生きなければいけないのだと、時に力強く、時に優しく。何度も根気強く繰り返しては、香澄の昂ぶった感情を少しずつ鎮めていった。

 瞬以外の誰にも打ち明けなかったが、香澄は事故の真相を、そしてその前に起きた静流の絶望を、全て覚えていた。

 事故の翌日、容疑者として捕まったのは、あの日運転席に座っていた明るい髪の真面目そうな男だった。助手席で、身を乗り出してまでその運転の邪魔をしていた、あの性質の悪い男ではなく。

 どうせあの彼に、全てを押し付けて逃げたのだろう。いかにも責任逃れが上手そうな、口八丁手八丁で何事も乗り切ってきたかのような、見るからに馬鹿そうな男であった。

 あんなクズの塊のような人間に、いいように扱われて。

『……瞬さんは、悔しくないの』

 静かに、問いかける声。

 当時間近に迫っていた司法試験の勉強に追われ、やつれた顔をしていた瞬の表情は、ますます翳った。

『悔しいさ』

 実の親にネグレクトを受け、幼くして施設に預けられることになった瞬。一人きりで心細かった彼の心をかつて解してくれたのが、同い年であり、ほぼ同じ境遇にあった静流だった。

 ずっと、恩返しがしたかった。支え合いたかった。

 だから自分が里親に引き取られた後も、その縁を切ろうとは決してしなかったし、静流が十八歳を迎えて香澄と一緒に施設を出てからも、出来うる限り協力しようとした。

 彼は瞬にとって、唯一無二の親友だったのだ。

 それなのに、何の罪もないはずの彼はその無垢な心をずたずたに引き裂かれた上、理不尽に命を奪われてしまった。

 ――悔しくない、訳がない。けど。

『けど、君が静流を追いかけたところで……そんなの、奴ら(・・)の思うつぼだと思う』

 向こうが当然のように闇に葬りたがっているであろう、事故の真相。それを知っているのは、実際にその目で見ているのは、彼女だけだ。

 生き証人であるからこそ、君はこれからも生きなければいけない、と瞬は言った。

 それが、後に復讐の引き金を引くことになるとも知らず。


 彼女が幼い頃から肌身離さず首に下げていた、お守りに書かれていた離島の名。実際に探りを入れてみたところ、そこに香澄の母親がかつて世話になっていた家があることが分かった。

 退院後、香澄は彼女の関係者とみなされたその家へ――新藤家へ、引き取られることになった。そしてまだ高校に通っていたため、その離島に唯一存在していた小さな高校へ転入した。

 香澄が高校を卒業した頃、瞬は司法試験に合格し、弁護士となった。

 そんな彼に香澄は、あの事故の容疑者とされている(・・・・・)男――仁科類を、どうか助けてほしいと頼んだ。本当は彼が犯人なんかじゃないと、知っているから。

 新人弁護士・八神瞬を始めとした弁護団の尽力もあり、仁科の刑はさほど重くならずに済んだ。当時秘書として仕えていた副島の元に戻ったと知り、香澄も安堵した(・・・・)ものだ。

 香澄は本州へ戻り、新藤家の援助を受けながら、教師になるべく大学へ通っているところだった。もちろん将来は、若槻市へ戻るつもりで。

 その頃から既に、彼女の周りは徹底的に黒いもので染められていた。

 『呪い』や『復讐』などの花言葉を持つ不吉な花――黒百合(チョコレイト・リリィ)の、事実上の『化身』となったのだ。


 ――おいちゃんの敵は、絶対に取るからね。


 幼い頃から純粋であった彼女の、無垢で一途な心は……純粋でありすぎたがゆえ、もうとっくに壊れてしまっていた。

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