黒百合の記憶―家族の団欒―
確かに、会える時間は減っていた。
でもそれは、紗織のアナウンサーとしての仕事が忙しいからだと思っていた。そう信じて、疑っていなかった。
事実、TVワカツキが放映するテレビ番組には、連日のように紗織の顔があった。初々しく、時に色っぽく。市内の様々な場所へ取材に行ったり、地元の人と触れあって笑顔を見せたり、スタジオと思しき場所で真面目にニュースを読んでいたり。
嫉妬、しなかったと言えば嘘になる。
けれどそれも仕方のないことだと、不思議と割り切りの早い自分がいた。
彼女はやはり、テレビ映えする。そのために生まれてきたと言っても過言ではないだろう。実際に自信家でもあった紗織は、自分自身のプロデュース方法をよく知っていた。それも、きっと人気の秘密だ。
入社してさほど年月は経っていなかったが、紗織はその当時、既に『TVワカツキの華』と呼ばれていた。
だんだん、彼女が遠い存在になっていく気がした。
恋人である自分が、紗織を一番知っている……そんなささやかな矜持さえ、打ち砕かれていくようで。
彼女の傍にいるのが、自分でいいのか。そんな自問自答を繰り返した。
そんな時、たまたま浩介と再会した。
静流よりいくつか年上で、十八歳を迎え先に施設を出て行って以来音沙汰のなかった彼は、風の噂通り中学教師として働いていた。結婚し、今では小学生になる娘もいるという。
幼い頃、実の親から虐待を受けていたのだと、そんな話を耳にしたことがある。しかし浩介はそんな心の闇などおくびにも出さず、むしろ以前より快活な性格になったようだった。
「立派になったなぁ、シズル。俺のこと覚えてるか」
にこにこと人の良い笑みを浮かべながら、親しげに肩を抱かれ、静流は思わず躊躇してしまった。しかし相手が幼い頃施設で仲良くしていたあの浩介だと確信すると、
「浩介兄ちゃん、だよね。久しぶり」
昔のように、無邪気な幼い笑みを見せた。
浩介はぶっきらぼうだった施設時代と変わらず、優しかった。自覚はなかったがやつれていたらしい静流に、
「何か悩み事でもあるのか?」
そう、早い段階で聞いてくれて。
「これから少し時間があるなら、うちに来いよ」
俺ね、佐川って苗字貰ったんだ。
嬉しそうに、どこか誇らしげにそう言って。静流はその日のうちに、浩介が妻子と暮らしているという自宅に招待された。
「いらっしゃい。佐川の妻で、律子と申します」
奥さんの律子は、急な来客でも嫌な顔一つせずに手厚く迎えてくれた。ちょうど夕食の準備をしていたらしく、「じゃあ一人分増やすわね」とおっとりとした調子で台所へ消えていく。
一人娘の帆波は、人見知りを発揮していたのか最初はおどおどしたように静流を見ていたが、静流が幼子の扱いに慣れていたおかげなのか、打ち解けてくれるのにさほど時間はかからなかった。
調理の音と、律子の鼻歌が、キッチンから漏れ聞こえてくる。
リビングで帆波の遊び相手をする静流を、浩介は静かに眺めている……そのまなざしが、穏やかな笑みが、全身で『自分は今、最高に幸せだ』と物語っていて。
そう胸を張って言えるほどの、素晴らしい家庭を築くことができた佐川が、静流は心底うらやましかった。同時に、自分にも将来きっとそんな未来が待っていると……そう信じたいと、強く思った。
「支度ができましたよ。あなた、帆波ちゃん。シズルさんも……さぁ、皆さん早く座って」
律子の穏やかな声掛けに、帆波は無邪気な笑顔で駆け寄った。「今日はオムライスよ」と頭を撫でる母親に、目をきらきらと輝かせて。
「帆波、早く座りなさい」
「はぁい」
父親の穏やかな視線を受けて、ぴょこぴょことテーブルに着く。その食卓に静流も、促されるがままに混ざった。
ふわふわと柔らかい卵、ケチャップの僅かな酸味も懐かしい。佐川家が日常とする家庭の味は、静流自身や香澄が作るものとはやはり少し違ったけど、どこかホッとさせるものがあった。
泣きそうになるのをぐっと堪え、静流はオムライスを口に運ぶ。
久しぶりに会ったので話題が尽きないのか、食事中も浩介が静流に色々と近況について尋ねてくる。静流が答え、時折律子が相槌を打ちつつ話を広げ、帆波は話を聞いているのかいないのか、目の前の食事に夢中になっている。
「彼女はできたのか?」
「うん、まぁ……一応」
「結婚しないのか? もういい年だろう」
「それがさぁ……なかなか、タイミングが掴めないんだよね。うちには香澄がいるし、互いに仕事もあるから」
「カスミさんって、どなた?」
「一応、娘なんですけど」
「お若いのに、もう娘さんがいらっしゃるの?」
「実の娘ではないんですが……施設で一緒だった子で」
「あぁ、あの子か。施設にいた頃から、お前によく懐いていたもんな。結局、引き取ったんだ」
「うん。最初はなかなか大変だったけど、家に帰ると誰かがいてくれるって、いいもんだね」
「もう、高校生くらいか」
「そうそう。女の子ってしっかりしてるよ。中学上がったくらいから手伝いをしてくれるようになって、かなり助かってる」
「あら、なんだか奥さんみたいねぇ」
「たまに思います」
昔は香澄もこれくらいの年だったんだよなぁ、と言いながら、口をもぐもぐさせてじぃっと見上げてくる帆波の頭を撫でてやる。そんな静流を、向かいで浩介と律子が微笑ましげに見守っていた。
よかったら泊まって行けば、と言われたのだが、香澄が今頃家で待っているはずなので断った。香澄も高校生とはいえ、あまり遅い時間に一人にするのは……親心でもあったのだろうか、やはり心配だったのだ。
帰り際、律子に「今度は、恋人の方も……それから、カスミちゃんでしたっけ。彼女も、是非連れていらっしゃいね」と、温かい笑顔で言われて。
あぁ、家族ってこういうものなんだと、胸の中が幸せでいっぱいになって……自然と、笑みがこぼれた。
いつもより帰宅が遅くなった静流を、香澄は少し不機嫌そうな顔で出迎えた。しかし、よほど締まりのない顔をしていたのだろうか。
「おいちゃん、機嫌いいね。飲んでる?」
怪訝そうに眉根を寄せた香澄を、静流は思わず抱きしめていた。
「え、ちょっと……おいちゃん?」
慌てたような、驚いたような声が耳元でするけれど、それでも香澄に拒む素振りはない。それどころか、どことなく嬉しそうでさえあった。
「浩介兄ちゃんに、会ったんだ」
「え?」
「ほら、施設にいた年上のお兄ちゃん。覚えてる?」
「あぁ、うん……何となく、だけど」
「……家族って、いいよなぁ」
揺らいでいた決意をようやく固め、香澄をぎゅっと抱きしめる。
紗織に会おう。
次の休日、静流は早速行動を起こした。香澄にもきちんと話をして、車を飛ばして宝石店に向かうと、彼女に贈るための指輪を買った。
あとは、紗織本人に都合のいい日を聞いて、面と向かって話すだけだ。
用意した、台詞を添えて。この指輪を渡すんだ。
そう、男らしく決めて。
そして、ほどなく。
『裏切り』を、知ってしまった。




