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チョコレイト・リリィの誘惑  作者:
5.追憶
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黒百合の記憶―女の出生―

クロユリの花言葉…『恋』『呪い』『復讐』

 おいちゃん――……。

 誰かが、耳元で呼びかける声がする。

 それは耳慣れない、明らかに自分に対する呼称ではないはずなのに、何故か不思議と自分が呼ばれているような気分になった。

 ふわふわと、行きつかない意識。

 これからどこへ行くのだろう。ここは、いったいどこなのだろう。

 次々と不安に思う中で不意に届いた、柔らかくて甘い、花の香りに安らぎと落ち着きを覚えた。


    ◆◆◆


 冬の、寒い日だった。

 若槻市内のある養護施設に、ふわふわと舞い積もる雪に溶けこんでしまいそうなほどの、真っ白な肌を持つ一人の女性がふらりと現れた。栄養失調なのだろうか、病的なほど細く折れそうな腕に、二歳か三歳ほどの、まだ幼い子供を抱えている。

 女性は、日本語を話せないようだった。

 早口の……おそらく中国語で、女は応対に出てきた新人の施設スタッフに何やらまくしたてた。訳も分からないうちに、抱えていた幼子を渡される。

 半ば成り行きで子供を抱き、ぽかんとする施設スタッフを残して、女は雪の吹きすさぶ中を、定まらない足取りで出ていった。服装も白を基調としていたので、その姿はすぐに真っ白な景色に溶けて消えてしまう。

 何が何やらわからなかったが、ここは養護施設。様々な事情で親元にいられなくなった子供を、引き取る場所だ。

 とにかくと、施設でその女児を育てることにした。


 最初のうち、引き取られた少女は舌足らずの、覚えたてと思しきたどたどしい中国語を話した。

 首に下げていたお守りの中には、どこか遠い離島の名前が印刷された、古びた期限切れのチケット。そして『香澄(シャンチォン)』という人の名前らしい文言が書かれた、一枚のメモが入っていた。おそらく、彼女に付けられた名前だったのだろう。

 中国系の血が混じっているのか――……出自はともかくとして、少女を引き取った施設スタッフは、彼女に『香澄(かすみ)』と名付け、日本人として育てることにした。


 香澄は十歳ほど年上である入居者の少年・静流(しずる)にことさらよく懐き、一番長い時間を共に過ごした。

 静流の方も、幼い香澄を特別に可愛がっていたようだ。二人の関係はまさに本当の兄と妹で、施設スタッフたちは微笑ましく見ていたものだった。

 言葉を話せる年齢ではあったものの、まだ日本語を十分に聞き慣れていない香澄は、静流を『おいちゃん』と呼んだ。舌が回らず『お兄ちゃん』と上手く呼べなかったからだろう。

 しかしいつしかその呼び方が癖になってしまったらしく、ある程度成長してきちんと日本語を操れるようになってからも、彼女は静流のことを変わらずそう呼んだ。


 成長していくうちに香澄は、静流にとって施設内での友人だった、二人の少年と遊ぶことも多くなった。

 一人は静流と同い年で、瞬といった。正義感が強く、けれど温和な少年で、彼の優しい雰囲気とすっきりした匂い、男にしては柔らかく華奢な膝の上が気に入っていた。香澄を置いていなくなった、顔も今はほとんど覚えていない、実の母親と重なる部分は一切なかったように思う。それでも香澄は瞬のことを、理想の母親と――男なのに、おかしな話だが――慕っていた。

 もう一人は静流と瞬より年上で、浩介といった。彼は利己的で、あまり他者との関わりを持たない人間だった。最初は少し苦手だったけど、ぶっきらぼうなようで時折垣間見える気遣いに、香澄も少しずつほだされた。

 けれど二人との時間は、さほど長く続かなかった。

 浩介は一足先に十八歳を迎えたため施設を卒業し、瞬は中学校を卒業する少し前に、八神家へ里子として引き取られることになったのだ。

 瞬はそれからも時折施設に遊びに来てくれたけれど、浩介からはその後ぱったり連絡がなくなった。聞いた話では、申請した奨学金で『佐川浩介』として大学へ進学したという。その後教師になり、結婚もしたらしいが……。

 まぁ、それはさておき。

 それからさらに何年か後、施設内で静流はそのまま十八歳を迎えた。若槻市内の銀行への就職が決まり、これから彼もいよいよ施設を出て独り立ちするのだ。

 一方、香澄は小学校に入学して間もない年齢だった。里親が決まっていない以上、まだ施設に残っていなければならない。

 けれども香澄は、当然のごとく静流と離れることを嫌がった。静流に抱き着き、普段の落ち着いた様子からは想像もできないほどの、子供じみた大声で泣き叫んだ。

 そんな彼女に手を焼き、どうしたらいいかと思案に暮れる施設スタッフたちに、静流は言った。

「僕が、この子を引き取ります」

 未成年とはいえ、もう自分でお金を稼げる立場になるのだ。子供一人、頑張れば養うことくらい問題ない。

 それが、彼の主張だった。

 ――今思えば、世間知らずの子供の戯言だっただろう。

 けれど、香澄にはその方が幸せなのだろうか。親に捨てられ、頼る親戚もないままこの場所に預けられた香澄にとっては、長年兄代わりであった少年と無理に引き離すことの方が、むしろ残酷なことだったのかもしれない。

 静流の決意を汲んだ施設スタッフは、彼に養子縁組の手続きと、児童扶養手当の申請法を教えた。もし何か困ったことがあったら、いつでも連絡するようにということづけも忘れずに。

 これから生きていくために必要だということで、施設長は二人に『東條(とうじょう)』という名字と、もともと管轄していたアパートの一室を与えた。

 そうして養護施設を出た少年と少女は、たった二人きりで手を取り合って生きていくことになった。

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