ドロップ缶の秘密
「おー宮代。明けましておめでとう」
「おめでとうございます」
年明け初となる出勤で顔を合わせた保阪は、相変わらず平和そうなオーラを纏っていた。あまりに呑気な態度には腹立たしさを覚えるような、どことなくホッとするような、不思議な感覚がある。
「年末年始は、実家に帰ったのか?」
「帰りましたよ。……言っても、あまり休めた気しませんけどね。ほとんど兄貴んとこの、子供たちの相手させられてました」
「まぁたまにはいいじゃないか。お前も子供欲しくなったろ」
「そうですねぇ、大変そうですけど」
「いやいや、子供はいいぞ。お前も早く結婚しろ。彼女いるんだろ」
「いますけど……まぁ、そのうちですね」
「そのうちなんて言ってると、あっという間に婚期逃すぞ。まぁ、今は仕事も資格勉強もあるから大変だと思うが……そういや試験どうだった」
「保阪さんのアドバイス通りやったら、消費は受かりました」
「お、やったじゃん」
「ありがとうございます。でも法人が駄目でした。何年もやってますけど、やっぱり難しいですね……」
「まぁ、法人はボリュームあるし、仕事しながらはなかなか厳しいよな。だからって所得も似たようなもんだし、今更新しくってのもきついか」
「そうですね。実務でなんとなくやってますけど、所得はほぼノータッチだったんで……今まで通り、法人勉強した方がとっつきやすいのかなとは思ってます」
「うん。のんびりやればいいよ。どのみち法人か所得は受けないといけないんだから、最悪、法人を一番後まで置いといてもいい。お前の場合は大学でもう簿財受かってるんだから、まだ気が楽なんじゃないか」
「そうですね。先に必須科目取っといてよかったなと思います」
「消費受かったってことは、法人入れてあと二科目だろ? 五科目目どうすんの」
「仕事のこと考えると、相続か国税徴収あたりかなぁと……」
「もう、五科目取れればいいんだから、酒税とかでよくないか? その方が正直簡単だぞ」
「でも、これから仕事する上では、何年かかってでもいろいろ勉強しとかないといけないですし……あんまり簡単な方に逃げたくないんで」
「相変わらず真面目だな、宮代は」
亮太の受け答えに、保阪はやれやれといったように首を振る。さすが既に五科目合格している現役税理士なだけあって、その立ち居振る舞いには憎たらしいほどの余裕が感じられた。
「……あぁ、そういえば話変わるんだけど」
「唐突ですね。何ですか?」
自分のデスクで荷物を整理していた亮太に、世間話の延長で、保阪は無神経に傷を抉る発言をする。
「年末、若槻駅で事故あったらしいけど……お前確か、帰省の時に南若槻線使うよな?」
大丈夫だったか、と問われ、亮太は動揺を隠しきれず曖昧な苦笑いを浮かべるしかなかった。
「思いっきり巻き込まれましたよ。あの影響で、しばらく帰れなくて」
迷惑極まりないですよ、と努めて何事もなかったように振る舞ってみせようとする。あんな惨状を間近で目撃したなんて、保阪にさえ打ち明けられるはずもなかった。
保阪は仕事ができ、人を見る目もあるのだが、いかんせんそういった心の機微には鈍感な方だ。そのせいで奥さんからはよく『女心が分かってない』と怒られるらしく、よく女性職員相手に首を傾げているのを見かける。今回に限っては、そんな保阪の気質に助けられた。
「そうかぁ、大変だったなぁ」
「まったくですよ」
良くも悪くものほほんとした雰囲気は、入社当時から変わらない。このような社内の気質は、ひとえに所長である保阪がいるおかげであろう。
いつもの日常が、今の亮太には救いでさえあった。
◆◆◆
実家からアパートに戻ってきて、いつも通りの毎日が始まって十日ほど経った、ある日のこと。
ちらちらと雪が舞う街の中を帰宅した亮太は、アパート備え付けのポストをいつものように確認し、そこで身に覚えのない不在票が入っていることに気付いた。今日は税法のセミナーが入っていたので少し遅くなったのだが、その間に何やら荷物が届いていたらしい。
詳細を見てみると、送り主は実家の兄だった。何か忘れ物でもしただろうかと思いつつ、まぁ受け取ってみればわかるか……と悠長に考える。すぐに携帯電話でサービスセンターに問い合わせ、不在票に書かれている伝票番号と都合のいい日時を入力し、再配達受付を完了させた。
そうして数日後、例の荷物は無事に亮太の手へと渡った。
さほど大きくない段ボールは少し平べったく、しかし妙にずっしりと重い。例えるなら……そう、ちょうど通販サイトで雑誌を取り寄せた時にされている包装のような。
それで亮太は、おそらくこの中身は本もしくはそれに近い類のものなのだろうと悟った。が、やはり心当たりはさっぱりない。
勉強のため実家へ持って帰った税理士試験の問題集や参考書などは、きちんと忘れることなく手元にある。それにもとより読書家でない彼だから、小説や漫画を持ちこむこともなければ、実家に置いておくこともなかった。
だがこれは間違いなく兄からで、宛名も自分のものになっている。記された住所も、電話番号も合っている。間違って送ったとは考えられない。
だとしたら、一体……?
不思議に思いつつ、箱の包装をカッターナイフで切断し、中身を開いてみることにする。がぱりと音を立てて開封された箱の中からは、ふわりと甘い水飴の匂いがした。
中から出てきたのは、一冊のフォトアルバム。ちょうど学校で配られる卒業アルバムのような、でも見覚えのないデザインで、その上使い込まれた形跡がほとんどなく真新しい。
手に取ってみると、案の定結構な重量がある。
「何故今更、家族のアルバムなんか」
送ってくるんだ、と呟きながら、分厚い表紙を開く。
『佳月の日記』
一ページ目には、兄の几帳面な字でそう書かれていた。
「日記……?」
姉が、日記をつけていた?
それも大学ノートや市販の日記帳にじゃなくて、こんなどう見てもアルバムでしかないフォトブックに?
ふざけているのだろうかと眉をしかめ、亮太は次のページに手を掛けた。
分厚いページは、べたついていて開きにくい。苛立ちつつ、それでも破らないよう慎重な手つきで開くと、箱を開けた時と同じ甘い水飴の――ドロップの匂いが、強く亮太の鼻腔を満たした。
フォトの代わりに貼られているのは、くすんだ色とりどりのメモ帳。ドロップのエキスがついたせいなのか、ところどころに染みや跡ができている。少し読みづらいが、折り目のついたメモ帳には佳月がよく集めていたカラフルな色ペンで文字が書かれていた。
『一九××年○月△日 今日から日記を書くよ。でもね、だれにもヒミツなの。家族にも見つからないように、ドロップ缶に折りたたんで入れておくんだ♪』
懐かしさに、目頭が熱くなった。
『一九××年〇月×日 お友だちと卒業旅行も兼ねておでかけ。中学生だからあんまり遠出は許してもらえなかったけど、初めてのお泊まり! 楽しかった♪』
『一九××年△月×日 お兄ちゃんと亮ちゃんが、ちょっと早いけど誕生日プレゼントをくれた。なんか、ドロップをキーホルダーにしてくれるお店があるらしいんだ。玲くんが教えてくれたんだって。わたしがドロップよく食べてるからかなぁ? でもかわいい。男の子が選んだにしては、センスあるデザインじゃない? なんちゃって。大切にするね♪』
知っている。これは、佳月の筆跡。クセのある丸っこい、けれどとびっきり優しい字だ。
自然と、佳月のあの明るい笑顔と柔らかい声で日記の内容が再生される。
じわりと込み上げてくるものを押さえながら、亮太は相変わらず開きにくいページをもどかしげに開いた。
『一九××年四月○日 高校の入学式。中学校からのお友達もいるけど、それ以上に知らない子が周りにいっぱいでどきどき。初日だから誰かとお話はできなかったけど、これから楽しみだなぁ』
そう記された日付は、十三年前。佳月が死ぬ、一年前だ。
時々飛んでいる日付があるが、それは単純にサボって書かなかったのだろう。少し大雑把なところがあった彼女だから、それも納得できる。
クスリ、小さく笑って、亮太はなおも日記を――彼女の記憶を、ゆっくりと読み進めていく。
『一九××年四月十×日 お隣の席の、二階堂瑠璃ちゃんが話しかけてくれた。ふわふわした髪の毛。かわいいこ。仲良くなれるかなぁ?』
瑠璃の名前が、ここで初めて出た。仲が良かったという、あの発言は本当だったのだ。瑠璃を疑っていたわけではないが、完全に信じられなかったのは事実で……けれど、これでようやく信憑性が出たような気がした。
『一九××年五月十△日 委員会決めで、瑠璃ちゃんと同じ図書委員会になった。がんばろうね♪』
『一九××年六月○日 合唱コンクール。雨すごかったけど、ハーモニーホールではそんなの吹っ飛ばしちゃうくらいすごくキレイな歌声が響いてた。みんなにも聴いてほしかったなぁ』
『一九××年六月二十×日 もう一ヶ月もしたら夏休み? 早くない? っていうか文化祭の準備、もうするんだね。さすが高校にもなると違うや』
『一九××年七月×日 夏休みに、瑠璃ちゃんとおでかけするんだ。若槻市街まで出て、ショッピング。瑠璃ちゃん趣味いいもんね。楽しみだなぁ』
しばらく――二、三ヶ月ほどは、そんな他愛もない日記が続いている。彼女が悩んでいた素振りはどこにもない。亮太自身も油断し、安心しながら微笑ましく読んでいた。
しかし、ある日を境にそれは一変した。




