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チョコレイト・リリィの誘惑  作者:
4.愛憎
49/66

違和感

 停めた車の運転席で、忍海は愛用のカメラを手入れしていた。もちろん、外の様子に気を配りながら。

 何か他のことをしていても、たとえ目を離していても、常に何が起こってもいいようにアンテナを張っておく。雑誌記者として働くようになってから、すっかり身に付いた癖だ。それは無論いつ何時も、どんな些細なスクープでも絶対に逃さないためなのだが、それ以外にも周りから怪しまれないように、何気ない風を装うためという意図もある。

 それは仕事の日はもちろん、オフの日も同じで、何の変哲もない場所を歩いていても無意識に何か異変を探してしまう――それは、忍海にとって一種の職業病のようなものだった。

 少し開けた窓の隙間から、少し肌寒くなった風と共に、コツリとハイヒールの音が聞こえた。カメラから目を離すことはなく、ただ耳を澄まし、じっとターゲットが近づいてくるのを待つ。

 顔を上げると、ちょうど忍海が車を停めているパーキングエリアに、ゆらりと黒い影のようなものが現れたところだった。ハイヒールの音と比例して、こちらにどんどん近づいてくる。勘付かれてはいけないと、忍海はもう一度そこから目を逸らした。

 コツリ、コツリ、

 この近くに車を停めているのだろうかと思ったが、彼女(・・)が車を持っているという情報は確認できていない。だとしたら、迎えに来た人間がいるのだろうか――……。

 息を呑みつつ待っていると、コツリ、と音が止まった。ちょうど、忍海が乗っている車のすぐ傍で。

 思わず、ハッと顔を上げる。

 窓の向こうから、忍海に向かって親しげに手を振る、女。

 こちらが一方的に存在を知っているだけで、実質的には初対面(・・・)のはず(・・・)の、黒いワンピースの女がいた。


    ◆◆◆


 亮太は休みを取り、瑠璃を連れて故郷へ戻った。瑠璃は以前よりまた少し痩せたようだが、電話口で感じた通り最近機嫌がいいらしく、不気味なほどにこにこと笑っている。法事の場だから慎むように言い聞かせ、亮太は実家に足を踏み入れた。

 当時から決して広いとは言い難かった家は、兄とその妻子たちが一緒に住むようになってから改築されており、亮太が学生の頃と比べるとかなり真新しく綺麗になっている。

 現在は兄が主な稼ぎ頭になり、兄嫁と母がパートに出て足りない分を補っている。亮太も時折仕送りをしては、家計を支えていた。

 帰ってきて早々、母は亮太と瑠璃を見て、いつものようにこう言った。

「お二人、そろそろ結婚を考える時期じゃなくて?」

「嫌だわ、おばさまったら」

 うふふ、と照れたように笑う瑠璃に対し、亮太はあからさまに困った顔をしていた。

「母さん……まだ早いって言ってるじゃん」

「あら。亮太はまだいいかもしれないけど、瑠璃さんは今一番、結婚を意識するお年頃なのではないかしら。ねぇ?」

「年齢的に、そろそろかなぁって思ってるんですけどねぇ」

「ほら、瑠璃さんもこう言ってるんだし。だって……」

 ふと、母は寂しそうな顔になる。亮太より三つ年上である瑠璃の年齢に言及した時、自然と思い出されることがあるのだろう。

「……瑠璃さんは、今年いくつになられるのでしたっけ」

「二十九です」

「そう。……あの子も、生きていたら……」

 写真の中であどけない笑みを浮かべる、娘に視線をやる。

 早生まれだった佳月は、高校二年生だったけれど、他の同級生たちと同じように十七の年を迎えることはなかった。

「母さん、やめなよ」

 仕事から帰ってきた兄が、話を聞いていたのか呆れたように言いながら入ってきた。もう過ぎたことだ、と半ば諦めたような顔をしている。

 母や亮太と同じように、妹である佳月の死に十分すぎる衝撃と悲しみを受けただろうに、もともと落ち着いた性格の兄は感情をさほど表に出すことはしない。家庭を持ち、三十を過ぎてからは特にそれが顕著になっているようだった。

「そうだよ、母さん」

 亮太も兄に同調する。

 当時はなんて冷酷な兄だろうと思ったものだが、今思うとそれでよかったのだろうという気がしていた。もしあの時、兄までもがうろたえてパニックになっていたとしたら、今こうして佳月を弔うことなど絶対にできなかっただろう。最悪、一家三人揃って佳月を追って心中でもしていたかもしれない。

「変にしけた顔してたら、佳月が悲しむよ」

「……そうね」

 涙を軽く拭い、母親は立ち上がる。そろそろ孫たちが遊びから戻ってくる時間だろうからと、食事の用意をするため台所へ向かった。手伝おうと続いて立ち上がった兄嫁には、

「身重なのだから、無理しないで」

 柔らかく笑って、まだあまり膨らみの目立たないお腹を優しく撫でる。

 一部始終を見ていた瑠璃は、ひどくうっとりと、心の底から羨ましそうに微笑みを浮かべていた。


 翌日、予定通り佳月の十三回忌が行われた。

 主な出席者は亮太たち血縁者とその家族、そして亮太の恋人であり佳月の同級生でもあった瑠璃だけ。内容も家に来てもらった僧侶にお経をあげてもらい、その後弁当を頂くだけというシンプルなものだ。

 佳月の命日自体はまだ少し先だが、その日が休みということもあり、佳月と生前仲の良かった友人たちがちらほらと線香を上げに来てくれた。

 成人しすっかり雰囲気の変わった佳月の友人たちを見て、母親はいちいち亡き娘のことを思い出してしまうようだ。その度に涙ぐんでは、兄嫁や子供たちに慰められていた。

 そんな中、ふと亮太が隣を見ると、先ほどまでそこにいた瑠璃の姿がない。トイレにでも行っているのかと最初はさほど気にしなかったのだが、無事に法要が終わって帰る時間になっても一向に戻ってこないので、さすがに不審に思った。

「兄貴、瑠璃知らない?」

「え? 見てないけど……お前と一緒にいたんじゃないのか」

「そのはずなんだけど、さっきから姿が見えなくて」

 明日仕事だからそろそろ帰らないといけないんだけど、と付け加えれば、兄はさほど表情を変えることなく、けれど少しだけ案じるような目で「見かけたら知らせるから」とうなずいた。

 それから十分もしないうちに、兄が再びこちらへやって来た。

「瑠璃ちゃん、いたぞ」

「え、どこに?」

「佳月の仏壇の前。どこ探してたんだよお前」

 嘘だろ、と半ば半信半疑に思いながら、そういえば確かめていなかったことに気付く。

 佳月の仏壇がある部屋は、以前より奥の方に追いやられていた。改築したのが家を出て独り暮らしを始めてからのことなので、せいぜい盆と正月にしか帰らない亮太は、まだ新しい間取りに慣れていないのだ。

 教えられたとおりに行ってみると、果たして瑠璃はそこにいた。

 部屋には父親と佳月の遺影が仲良く並べられた仏壇、そして小さな木目のテーブルがある。その上に置かれた客人用のカップには、いつ用意されたのか、すっかり冷めきったハーブティーのようなものが少し残っていた。

 声を掛けようと後ろから近付いた亮太は、すぐに彼女の様子がおかしいことに気付く。彼女は長い髪を無造作に垂らし、うつむき気味に背中を丸めていた。よく聞いてみると、ぶつぶつと何やら低い声で独り言のようなものを漏らしている。

 異様な空気にためらいを覚えていると、ひっ、と小さな叫び声が上がった。気配に気づいたのだろうか、おずおずとこちらを振り返る。

「瑠璃?」

「か、づき」

 虚ろな目を向けた瑠璃は、ふらふらと立ち上がった。こちらへ近づいてくる様は今までの彼女とまるで別人で、さながらホラーゲームに出てくるゾンビのような様相だ。

 身体を竦ませ何をすることもできずにいる亮太に、瑠璃は半ば突進する勢いで抱き着いた。カップに残った液体と同じ、すっきりとした甘い香りが伝わってくる。

 寒くもないのに冷や汗をかき、以前より骨の形がはっきり分かるようになった細い身体をガタガタと震わせる。亮太はすっかり怯えてしまい、その身体を抱きとめることもできない。

 ぶつぶつと呟く声が、密着してようやく聞き取れた。

「渡さない、渡さない……渡さ、ない」

 呪いだ、と亮太は錯覚する。

 自分を逃れさせないための、呪いをかけているのだ、と。

 母親が入ってきて「お邪魔だったわね」と呑気に告げるその時まで、亮太は瑠璃に抱き着かれるがまま、その場を一歩も動くことができなかった。

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