年上の恋人
久しぶりに、実家の兄から連絡があった。
時期的にそろそろ来る頃だろうと思っていたので、亮太にさほど驚きはない。内容も、まったくもって予想通りだった。
『佳月の十三回忌、日程決まったから。今月末の日曜日。分かってるとは思うけど、ちゃんと予定空けとけよ』
分かったよ、と短く返すと、電話口の兄は予想通りの反応とばかりに切り返してきた。
『瑠璃ちゃんにも連絡しとけよ。毎回命日に来てくれるし、生前佳月と仲良くしてくれてたんだから』
「……あぁ」
苦い気持ちで、了承の意を示した。
あとはいつものように互いに近況報告をし、電話を切る。既に家庭を持ち、一家揃って母親と同居している兄は、最近奥さんが三人目の子供を授かったという。いつまでも仲睦まじいのはいいことだと、皮肉は一切なくただ素直に思った。
瑠璃に連絡を入れようとして、ふと思いとどまる。何だか、今の状態の彼女に接触するのが怖かった。
このところ、瑠璃の様子は目に見えておかしい。
家庭でのごたごたのせいかよく眠れていないようで、会うたびに顔色の悪さや、病的に細くなった身体つきが目立つようになった。目つきはぎょろりとして、常に周りを気にしているような様子を見せ、怯えたように亮太の腕に縋りついて離れようとしない。
亮太はそんな瑠璃を気遣って、出来うる限りデートを――特に夜の営みを控えようとするのだが、当人は亮太の提案に頑として首を縦に振らず、どこか必死でそれをさせまいとしているようにも思える。
それほどまでに彼女を追いつめているのが何かは、分からない……ような気もするし、なんとなく分かるような気もした。まさかとは思うが、関連を否定しきれないでいる心当たりが一つあるのだ。
脳裏にちらつく黒いワンピースの裾。覗く、蠱惑的な白い脚。艶めいた真っ赤な唇。それから……。
ハッと、そこで亮太は我に返る。
無意識に握りしめていた携帯電話が振動し、今まさに連絡をためらっていた人物からの着信を知らせていた。
恐る恐る、画面をスライドさせる。
「……もしもし」
『あぁもしもし、亮ちゃん? あたし、瑠璃だけどぉ』
耳に当てた途端、聞こえてきたのは案の定瑠璃の声。ただ予想外だったのは、いつもと違って不自然なほどテンションが高かったことだ。
『えへへっ、次に会える日まで待ちきれなくてさぁ。どうしても我慢できなくて、電話しちゃったぁ。ねぇねぇ、今から行ってもいい?』
「あ、あのさ。瑠璃」
『なぁに?』
「佳月の十三回忌なんだけど」
『……』
多少強引とは思いつつ、彼女の言葉を最後まで待たず話を切り出す。ひゅっと、息を呑むような音がした。
数秒の沈黙。耐えられそうもなく、切り出したのはもともとこっちなのだからと、亮太はからからに渇いた口をどうにか開いて言葉を続けた。
「今月末の、日曜だって。あの……兄貴がさ、瑠璃も一緒に来てほしいみたいなこと言ってたから」
『……亮ちゃんも、行くの?』
「行くよ、当然だろ」
『じゃあ、行くぅ』
とたんにテンションが戻り、普段以上にとろとろと嬉しそうに笑い声を漏らす瑠璃。変だとは思いつつも、とりあえず了承は取れたと、亮太は「じゃあ、今週末の日曜。よろしくな」と手短に告げて電話を切ろうとした。
携帯電話を耳から話そうとした、その瞬間。
のっぺりとした低い声が、亮太の耳を不気味に打つ。
『絶対に渡さないわ』
せっかく、手に入れたんですもの。
ぞくり、と背中が泡立った。
そこに込められた意味など、知る由もない。何に対してなのか、誰に対してなのかさえも、読み取ることはできない。ただ、そこはかとない闇を感じた。
通話が切れた後、ツーツーツー……と単調に鳴る通話終了の音声を聴きながら、亮太はしばし固まっていた。
◆◆◆
宮代佳月は、亮太の三つ年上の姉だ。
宮代家の父は早くに亡くなっていて、母が三人の兄弟を女手一つで育ててくれた。
家庭的で気が利く佳月は、忙しい母に代わって末っ子である亮太の面倒をかいがいしく見てくれた。学校でもおとなしめでさほど目立たない存在ではあったものの、友人だってそれなりにいたし、真面目に見えて意外と天真爛漫な性格だったので、同級生だけでなく先輩や後輩からも密かな人気を集めていたと聞いている。
好かれこそすれ、疎まれるような性格では決してない……そう、亮太も弟として思っていた。
どこにでもいるような、ごく普通の女の子。
もうすぐ冬になろうかという、ある日のことだった。
いつも亮太より早く起きてくるはずの佳月が、その日に限っていつまで経っても部屋を出てこない。珍しいことに寝坊でもしているのだろうかと、亮太は自室の隣にある佳月の部屋を訪ねた。
ドアをガチャリと開けて、声を掛けつつ部屋の中へと足を踏み入れて。亮太はそこで見つけた予想外の光景に、絶句することになる。
前日の夜にはもう、そうだったのだろうか。その部屋の主であったはずの佳月は、クローゼットの中で息絶えていた。ハンガー掛けの棒にマフラーと制服のネクタイをくくりつけて、首を吊っていたのだ。
部屋に入った途端に、変な臭いがするとは感じていた。けど、まさか姉がこんなに変わり果てた姿になっているなんて思わなかった。糞尿に塗れたクローゼットの中で、座り込んだまま動かなくなっているなんて、そんな。
苦悶の醜い表情をしていなかったことにだけは、唯一安心した。姉は最期まで美しかった。
首吊りは地獄のように苦しいというし、もし失敗したら後遺症が残るとも聞いたことがある。座った状態だったためにじわじわと窒息し、眠るように意識を失いそのまま亡くなったのだろう――とは、しばし呆然としたあと我に返った亮太が慌てて呼んだ警察の弁だ。
仕事の支度をしていた母も、講義が昼からだったのでまだ寝ていた当時大学生の兄も、亮太の悲鳴に似た呼びかけで慌てて佳月の部屋に集まってきた。母親は取り乱したように泣き叫び、兄がそれを宥めていた。
その後警察によって、いわゆる司法解剖へと回された姉の身体には、首を絞めたことによる圧迫痕の他に、無数の傷や痣が確認されたという。学校に確認を取ったが、表立った原因――いじめなどの事実は一切出てこなかった。
もし誰かから暴力を受けていて、それを苦にしたのだとしたらおそらく自殺だろうが、明確に遺書と呼べるものは見つからなかった。勉強机に一言『ごめんね』とだけ書かれたメモ用紙が貼ってあった以外には、何も。
それが十二年前。亮太は中学二年生で、佳月は高校二年生だった。
二階堂瑠璃と知り合ったのは、佳月の七回忌の時だった。
佳月と同じクラスで仲が良かったというその女性は、亮太の姿を見つけて声を掛けてくれた。葬式にも顔を出してくれていたと言うが、何せ佳月が亡くなってからしばらくの間呆然としていたため、亮太は彼女のことをほとんど覚えていなかった。
『佳月ちゃんに似てきたね』
亮太を気遣うように、瑠璃はそう言ってふわりと笑った。
六年経過したところで、姉を失った悲しみが癒えていたわけではもちろんないが、その頃の亮太は多少ではあるが自分や周りのことをきちんと冷静に見極められるまでになっていた。自身のプライベートについて、鑑みることができるほどの余裕も。
そんな亮太に、瑠璃は佳月との想い出を話してくれた。三歳離れているために中学以降ほとんど知ることのできなかった、学校での姉のことをよく知っていた瑠璃に、亮太はあっさりと心を開いた。
それ以来、瑠璃と定期的に会って話すようになり……いつしか亮太は、姉と似た性格の瑠璃に、少しずつ好意を寄せるようになっていた。
告白をしてきたのは瑠璃だった。
最初は面食らって思わず断ってしまったけれど、それでも瑠璃は待つと言ってくれた。自分なら――佳月との想い出を唯一共有できる自分なら、彼女を失った悲しみをきっと癒してあげられるから、と。
やがて大学を卒業し、就職が決まった亮太は、改めて――今度は自分から、瑠璃に交際を申し込んだ。
いつも子供っぽく無邪気な瑠璃の顔が、花開くようにふわりと美しく、嬉しそうに綻んだ瞬間を、亮太は忘れることができない。
そうして亮太と瑠璃の、恋人同士としての生活は始まった。




