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チョコレイト・リリィの誘惑  作者:
4.愛憎
46/66

心に棲むひと

 宮代亮太には、『日課』がある。

 毎日朝起きて、仕事へ行く前に。仕事を終え、家に帰ってきた時に。そして、寝る前に。

 日に三度、彼には欠かさず行っていることがあった。


「ただいま、佳月(かづき)

 一人暮らしの部屋に、ポンと置き去られるように響いた声。もちろん、返事はない。それでも亮太は、語る。

「今日は厄介な顧客のとこでさぁ……頭ごなしに怒鳴られたよ。どんだけ説明しても、初めっから自分の考えが正しいって思いこんでて、一向に聞く耳持ってくれない。俺らは仮にも専門家なんだから、こっちの言い分の方が正しいに決まってんのにさ。ホント理不尽だよな。どう思う?」

 何も置かれていないカラーボックスの一番上に、一つの古い写真立てが置いてある。亮太はその前に陣取るようにしゃがむと、きちんと正座をした。

 傍に、色とりどりのドロップが入った小さな缶が置かれている。おもむろにそれを手に取り蓋を開けた亮太は、中から一つ、ピンク色の丸型ドロップを取り出した。

 ころり、口の中で転がせば、ふわりと甘いイチゴの風味。『彼女』が好んでつけていた、甘い香りのリップクリームを思い出す。

 フルーツを好んで食べていた、『彼女』の懐かしい香り。

「……そっか、仕方ないよな。佳月なら、そう言うんだろうと思った」

 亮太の耳には、声が届いたのだろうか。

 落胆のような響きを伴った言葉は、けれどどこか安心したような、ホッと吐息交じりの声で紡がれる。

「そういえば八神さんが、最近ペットを飼い始めたらしいよ。可愛らしい、黒の子兎だって」

 楽しそうに、亮太は笑う。

「今度会わせてくださいよって言ったらさ。本当に可愛いから、骨抜きにならないように気を付けてくださいね~なんて言われて。親馬鹿だなぁ。あの人のあんな表情、初めて見たかも」

 まるで、そこにもう一人誰かがいるみたいに。誰かが、亮太の話に嬉しそうに耳を傾けているかのように。

「ご飯、もう食べてきたんだ。明日も仕事だし、早く寝ないと。……家にいても一人だし、ほとんどレトルトとかカップラーメンとかだけどさ。たまには自炊しないと、怒られちゃうかもな。なぁ、佳月」

 語りかけることを忘れず、それでも身体は生活のために、亮太なりのルーティーンを伴って動く。亮太は名残惜しげに、ゆっくりと立ち上がった。

「お風呂入ってくる。また後でね」

 写真立てに向けて、小さく手を振った。

 写真立ての中には、色あせた一枚の写真が入っている。

 そこには今となっては答える声もなくした、それ以上二度と歳を取ることのない、初々しげな少女の笑顔があった。


    ◆◆◆


 いつも通りに日課を済ませ、外へ出る。あいにくの曇り空だったが、もう少し向こうの方へ行くと、切れ間から太陽の光が細く漏れているのが見えた。

「ごめん、待った?」

「ううん」

 この日は休日で、いつもの通り若槻駅で瑠璃と待ち合わせた。

 久しぶりのデートになる。付き合い始めてからほぼ週に一度は――亮太の税理士試験に差し支えない程度に――会っていたのだが、瑠璃はどうやら家庭の方で色々あったらしい。ニュースでなんとなく情報は得ていたものの、実際に聞くとその重みは格段に違った。

「やっと、少し落ち着いたの」

 そう言って力なく笑う瑠璃は、以前よりやつれたように見えた。

「大丈夫? 帰って休んだ方が……」

「いい」

 気を遣って言っているつもりなのだが、瑠璃はとたんに語気を強めた。怯えた顔で、幾度も首を横に振る。

「でも、瑠璃が身体を壊したら」

「大丈夫よ……大丈夫。だから」

 だから、そんな寂しいこと言わないで。

 懇願に揺れる瞳に、亮太は何も言えない。

 デートの中止とか、頻度をもう少し減らそうとか、そういったことを促すだけで、瑠璃のもともと悪い顔色が更に悪くなる。だったら彼女の希望通り、素直に会ってあげる方が賢明なのだろう。そうしないと、むしろ彼女は弱っていってしまうのかもしれない。

 それは、ある意味恋人としての義務のようなものだ。

「……じゃあ、行こうか」

「うん」

 駅から出て、特に当てがあったわけでもないけれど、ショッピング街の方向へ出る。富広町最大の商店街では、休日のため買い物に来ているらしい家族連れや、同性同士の友達連れ、また亮太たちのようなカップルとも多くすれ違った。

 何となく歩きながら、隣の一回り小さくなった恋人に目を向ける。瑠璃は何かに怯えているらしく、亮太の腕に強く両腕を絡め、しがみつくようにして歩いていた。

 一瞬でも黒いものを見かけると、びくりと身体を強張らせる。何故か、ホテル街で香澄と偶然鉢合わせた日のことを思い出した。

 ――あの女には、もうこれ以上近づかないで。

 そう瑠璃に告げられて以来、香澄とは会って話していない。気にしていたわけではないし、断じてそういう関係であるわけでもないけれど、香澄に関して後ろめたい気持ちがあったことは――幾度か彼女に、欲情したことがあるのは――確かだ。

 心の浮気、なんて言われても仕方がない。

 黒いワンピースを着た、明るく無邪気で、それでいて妖しく謎めいた、壮絶な美しさを持つ女性。


 最近一度だけ、その姿を見かけた。顧問先の上層部に付き合わされ、酒を入れた帰りのことだった。

 夜だったので、あまりはっきり見えたわけではなかったのだが、おそらくそう(・・)なのだろうと思った。確信めいた予感が、あった。

 若槻駅に停められた、広めのワゴン車の中だ。助手席に座った女の服装は暗がりに溶けていて、白い肌だけがぼうっと浮かび上がっていた。

 もとよりシートベルトを外していたらしい彼女の、なよやかな白い手が、小さく震えながら運転席に乗っていたスーツ姿の男性へと伸びる。するりとネクタイを外し、カッターシャツのボタンをぽつぽつと外した。

 やがて、自身も肌をあらわにした華奢な身体は、急いで運転席へ覆い被さるようにして重なり、闇に溶けて――……その後は、よくわからない。

 白い背中はゆさゆさと、上下に揺れていた気もする。

 カーセックスのような格好だと、直感で思ってしまったら、亮太はどうにもたまらなくなってしまった。酒のせいも、あったのかもしれない。

 すぐ駅のトイレの個室へ慌てて駆けこんだのは、言うまでもないだろう。


 そんなことを思い出しただけで、むらっと湧き上がるものを感じた。さりげなく人気のない方向へ誘うように、瑠璃の痩せた腰を、そっと抱き寄せる。案の定、彼女とは違う匂いがした。

「どうしたの、亮ちゃん」

 大人しく着いてくる瑠璃の無理をしたような笑みが、こちらへ向けられる。このまま抱いたら、壊れてしまいそうな気がした。

「……別に」

 一瞬だけ唇を重ね、同時に尻の近くを撫でる。ぴくりと身を捩らせた瑠璃は、どうやらうまくその気になってくれたようだった。


 幾度か顔を合わせ、話をし、繰り返し女の香りを感じるうちに……いや、初めて会った時から、無意識にそんな感情があったのかもしれない。

 本当はずっと、香澄に惹かれていたのかもしれない。

 されど恋人である瑠璃の手前で、そんなこと言えるわけもなかった。


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