心に棲むひと
宮代亮太には、『日課』がある。
毎日朝起きて、仕事へ行く前に。仕事を終え、家に帰ってきた時に。そして、寝る前に。
日に三度、彼には欠かさず行っていることがあった。
「ただいま、佳月」
一人暮らしの部屋に、ポンと置き去られるように響いた声。もちろん、返事はない。それでも亮太は、語る。
「今日は厄介な顧客のとこでさぁ……頭ごなしに怒鳴られたよ。どんだけ説明しても、初めっから自分の考えが正しいって思いこんでて、一向に聞く耳持ってくれない。俺らは仮にも専門家なんだから、こっちの言い分の方が正しいに決まってんのにさ。ホント理不尽だよな。どう思う?」
何も置かれていないカラーボックスの一番上に、一つの古い写真立てが置いてある。亮太はその前に陣取るようにしゃがむと、きちんと正座をした。
傍に、色とりどりのドロップが入った小さな缶が置かれている。おもむろにそれを手に取り蓋を開けた亮太は、中から一つ、ピンク色の丸型ドロップを取り出した。
ころり、口の中で転がせば、ふわりと甘いイチゴの風味。『彼女』が好んでつけていた、甘い香りのリップクリームを思い出す。
フルーツを好んで食べていた、『彼女』の懐かしい香り。
「……そっか、仕方ないよな。佳月なら、そう言うんだろうと思った」
亮太の耳には、声が届いたのだろうか。
落胆のような響きを伴った言葉は、けれどどこか安心したような、ホッと吐息交じりの声で紡がれる。
「そういえば八神さんが、最近ペットを飼い始めたらしいよ。可愛らしい、黒の子兎だって」
楽しそうに、亮太は笑う。
「今度会わせてくださいよって言ったらさ。本当に可愛いから、骨抜きにならないように気を付けてくださいね~なんて言われて。親馬鹿だなぁ。あの人のあんな表情、初めて見たかも」
まるで、そこにもう一人誰かがいるみたいに。誰かが、亮太の話に嬉しそうに耳を傾けているかのように。
「ご飯、もう食べてきたんだ。明日も仕事だし、早く寝ないと。……家にいても一人だし、ほとんどレトルトとかカップラーメンとかだけどさ。たまには自炊しないと、怒られちゃうかもな。なぁ、佳月」
語りかけることを忘れず、それでも身体は生活のために、亮太なりのルーティーンを伴って動く。亮太は名残惜しげに、ゆっくりと立ち上がった。
「お風呂入ってくる。また後でね」
写真立てに向けて、小さく手を振った。
写真立ての中には、色あせた一枚の写真が入っている。
そこには今となっては答える声もなくした、それ以上二度と歳を取ることのない、初々しげな少女の笑顔があった。
◆◆◆
いつも通りに日課を済ませ、外へ出る。あいにくの曇り空だったが、もう少し向こうの方へ行くと、切れ間から太陽の光が細く漏れているのが見えた。
「ごめん、待った?」
「ううん」
この日は休日で、いつもの通り若槻駅で瑠璃と待ち合わせた。
久しぶりのデートになる。付き合い始めてからほぼ週に一度は――亮太の税理士試験に差し支えない程度に――会っていたのだが、瑠璃はどうやら家庭の方で色々あったらしい。ニュースでなんとなく情報は得ていたものの、実際に聞くとその重みは格段に違った。
「やっと、少し落ち着いたの」
そう言って力なく笑う瑠璃は、以前よりやつれたように見えた。
「大丈夫? 帰って休んだ方が……」
「いい」
気を遣って言っているつもりなのだが、瑠璃はとたんに語気を強めた。怯えた顔で、幾度も首を横に振る。
「でも、瑠璃が身体を壊したら」
「大丈夫よ……大丈夫。だから」
だから、そんな寂しいこと言わないで。
懇願に揺れる瞳に、亮太は何も言えない。
デートの中止とか、頻度をもう少し減らそうとか、そういったことを促すだけで、瑠璃のもともと悪い顔色が更に悪くなる。だったら彼女の希望通り、素直に会ってあげる方が賢明なのだろう。そうしないと、むしろ彼女は弱っていってしまうのかもしれない。
それは、ある意味恋人としての義務のようなものだ。
「……じゃあ、行こうか」
「うん」
駅から出て、特に当てがあったわけでもないけれど、ショッピング街の方向へ出る。富広町最大の商店街では、休日のため買い物に来ているらしい家族連れや、同性同士の友達連れ、また亮太たちのようなカップルとも多くすれ違った。
何となく歩きながら、隣の一回り小さくなった恋人に目を向ける。瑠璃は何かに怯えているらしく、亮太の腕に強く両腕を絡め、しがみつくようにして歩いていた。
一瞬でも黒いものを見かけると、びくりと身体を強張らせる。何故か、ホテル街で香澄と偶然鉢合わせた日のことを思い出した。
――あの女には、もうこれ以上近づかないで。
そう瑠璃に告げられて以来、香澄とは会って話していない。気にしていたわけではないし、断じてそういう関係であるわけでもないけれど、香澄に関して後ろめたい気持ちがあったことは――幾度か彼女に、欲情したことがあるのは――確かだ。
心の浮気、なんて言われても仕方がない。
黒いワンピースを着た、明るく無邪気で、それでいて妖しく謎めいた、壮絶な美しさを持つ女性。
最近一度だけ、その姿を見かけた。顧問先の上層部に付き合わされ、酒を入れた帰りのことだった。
夜だったので、あまりはっきり見えたわけではなかったのだが、おそらくそうなのだろうと思った。確信めいた予感が、あった。
若槻駅に停められた、広めのワゴン車の中だ。助手席に座った女の服装は暗がりに溶けていて、白い肌だけがぼうっと浮かび上がっていた。
もとよりシートベルトを外していたらしい彼女の、なよやかな白い手が、小さく震えながら運転席に乗っていたスーツ姿の男性へと伸びる。するりとネクタイを外し、カッターシャツのボタンをぽつぽつと外した。
やがて、自身も肌をあらわにした華奢な身体は、急いで運転席へ覆い被さるようにして重なり、闇に溶けて――……その後は、よくわからない。
白い背中はゆさゆさと、上下に揺れていた気もする。
カーセックスのような格好だと、直感で思ってしまったら、亮太はどうにもたまらなくなってしまった。酒のせいも、あったのかもしれない。
すぐ駅のトイレの個室へ慌てて駆けこんだのは、言うまでもないだろう。
そんなことを思い出しただけで、むらっと湧き上がるものを感じた。さりげなく人気のない方向へ誘うように、瑠璃の痩せた腰を、そっと抱き寄せる。案の定、彼女とは違う匂いがした。
「どうしたの、亮ちゃん」
大人しく着いてくる瑠璃の無理をしたような笑みが、こちらへ向けられる。このまま抱いたら、壊れてしまいそうな気がした。
「……別に」
一瞬だけ唇を重ね、同時に尻の近くを撫でる。ぴくりと身を捩らせた瑠璃は、どうやらうまくその気になってくれたようだった。
幾度か顔を合わせ、話をし、繰り返し女の香りを感じるうちに……いや、初めて会った時から、無意識にそんな感情があったのかもしれない。
本当はずっと、香澄に惹かれていたのかもしれない。
されど恋人である瑠璃の手前で、そんなこと言えるわけもなかった。




