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チョコレイト・リリィの誘惑  作者:
3.失望
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純粋だったころ

 今日も、香澄が佐川家に来るという。もはや休日になれば、その段取りは決定事項のようになっていた。

 佐川家三人と香澄で昼食を囲み、その後いつもなら父は何やら都合をこしらえ出掛けて行くのだが、その日は違った。香澄の提案で、四人で出掛けることになったのだ。

 何でも、近くにテーマパークができたという。

 帆波のクラスで自殺者が出たことによって、ここ最近学校はてんやわんやだ。普段のけ者にされている佐川も、一応学校に在籍する教師として、その対応をさせられることが少しずつ増えてきた。帆波もクラス委員長として、また遺書にその存在が出た唯一の人間として、学校を通じてマスコミの取材に答えることが何度かあった。

 そういえばそのマスコミの中に、忍海もいた。公共の場なので、あくまで一記者と学校関係者という関係にとどまったものの、こちらに寄越してきた目配せは確かに何らかの意味を含んでいたような気がする。

 忍海はもとより佐川家に目をつけていた。どういう理由でかは知らないが、おそらく今回のことも、佐川家が何か関係していると睨んでいるはずだ。

 それでも相変わらず律子だけはおめでたい頭をしていて、「これも我らに与えられた試練なのよ」と穏やかに微笑みを浮かべていた。

「哀れな仔羊に救いの手を。どうぞ、安らかに天国の地へと参られますよう」

 そんな、訳の分からない文句とともに捧げられる祈りが、自殺した少女に――市村緋夏に、少しでも届いているのか。否、そもそも最初から届ける気があるのかさえ疑問だ。どうせ律子の自己満足にすぎないだろう。

 そんな律子へ僅かに同意するようなうなずきをした香澄は、佐川家の三人へ――特に、浮かない顔をしている佐川へ――噛んで含むように続ける。

「亡くなった市村さんのことは見逃せないし、彼女の苦しみに気が付けなかったのは口惜しく、可哀想なことですけど……だからといってあまり根詰めてもいけないと思いますの。佐川先生一人で抱え込むようなことでもなければ、委員長である帆波さんが責任を感じることでもない。今日はちょうどお休みなんですし、ちょっとした気分転換にいかが?」

 香澄を無条件に信頼している律子がその提案に反対するわけがない。佐川は香澄を見て、何故か気まずそうに、怯えたように身をすくめていたが、やがてしどろもどろに「いいんじゃないか」とうなずいた。

 帆波はそういったアトラクションものに興味はない。しかし、特に反対する理由もない。……というより、黙っていたらそのままなりゆきで決定してしまった、といった方が正しいのかもしれなかった。

 ただ、誰かから不自然に見られることがないかどうかは少し気になったものの、別に自分が考えるようなことではないか、と帆波はすぐに妥協した。

 どうせ、この家族でいる時間もあと少し(・・・・)なのだ。


 さすが休日とあって、テーマパークは人でごった返していた。

 花形ともいえる人気のアトラクションともなると、二時間待ちなどの行列はざらである。せっかくなので行列のほとんどない、さほど人気のなさそうな地味めのアトラクションを楽しむことにした。

「せっかくですもの、家族水入らずで楽しんでいらっしゃいな」

 香澄の進言に、帆波は首を横に振った。

「二人で行ってらっしゃいよ。こんな機会そうないもの。恋人時代の、デートのことでも思い出せばいいわ」

 律子は恋する少女のようにうっすらと頬を染める。佐川は相変わらず落ち着かなさげに視線を彷徨わせるが、そのようなことを気にも留めず、律子は勧められた通り佐川を連れて中へと入っていった。

 ふと、帆波は横に並んだ香澄の横顔を見る。心なしか、その頬はいつもより艶やかに見えた。

 思えば、愛人のところへ行った翌日の父親も、同じような肌の艶を纏っていた――そんな、今となってはどうでもいいことを思い起こす。

 何となく、嫌な気分になった。

 ごわん、ごわん、と響く音。馬の形をした座席に佐川と律子が並んでまたがり、律子が佐川の腰回りに両腕を絡めている。

 円形に並んだ、いくつもの馬の座席が、陽気な音楽とともにくるくると回り出す。はしゃぐ律子はすっかり子供帰りしていて、佐川の背に縋りつきながら、嬉しそうにきゃらきゃらと笑っていた。

「……昔、」

 柵の外側で帆波が独り言を漏らすのを、隣に立つ香澄は静かに聞く。

「お父さんが、ひとつ前の馬に乗って。わたしはお母さんに抱かれて、一つ後ろの馬に乗った」

 幼い頃に聴いたのと同じ、明るい音楽が鳴り響く。まだ無邪気で、何も知らない子供だったあの頃。

「優しく微笑むお母さんの腕の中から、身を乗り出して。『パパ、パパ』って呼んだら、振り返ってくれて。手を伸ばすわたしを見て、目尻にしわを寄せて、本当に嬉しそうに手を振ってくれた……」

 もう、二度と戻ることはない。楽しかった、人並みに幸せな子供として育っていたあの頃。

 そんな、かけがえのない家族の想い出を作ってくれたのもあの人。

 そして……そんな家族の幸せを、壊した(・・・)のもあの人。

「帆波さん」

 呼びかけられて、顔を上げる。今の自分は、相当虚ろな表情を浮かべていることだろう。

 こちらを見下ろす香澄は、微笑んでいた。ただ、穏やかに。

「わたしは、あなたが羨ましいわ」

「どうして」

「……わたしには、いなかったから」

 父も、母も。わたしには最初から、いなかった(・・・・・)

 今日のような小春日和にふさわしく、穏やかで優しい微笑み。されどその真紅の唇から零れるのは、悲しげな自嘲を含んだ言葉。

 帆波は顔を背け、ひんやりとした声で答えた。

「わたしは、あなたの方が羨ましい」

 ――あんな家族、いっそ最初からいない方がよかった。

 裏切りを受けるくらいなら。こんな、惨めな想いをしなければならないくらいなら。

「いっそ、あんな人たちは――……」

「香澄さん、帆波ちゃん!」

 帆波の呟きをかき消すように、律子の嬉しそうな声が響く。

 すぐさまパッと表情を作り替え、にこやかに手を振る香澄の横で、帆波は聡明な瞳に、母親の姿を漠然と映した。

 宿る光は疎ましそうに。そしてほんの少しだけ、手の届かない『何か』を想い焦がれるように。


    ◆◆◆


 結局その後は、香澄と帆波も交えて四人でいくつかのアトラクションを楽しんだ。お土産を買い、内設のレストランで夕食を摂ってから、佐川家へと戻る。

 今日は土曜日だから泊まっていけばいいわと、律子が香澄に言う。とはいえこれは形式的なものでしかなく、返ってくる答えは分かっていた。やっぱり、香澄はいつものように遠慮の言葉を述べた。

 いつもならさほど遠い距離ではないため、香澄は自身で歩いて帰るのだが、今日は時間も遅いので、佐川が車で送っていくことになった。家の近くだというコンビニエンスストアまで、車を走らせる。

 やりにくそうに振る舞う佐川の顔へ、香澄の視線がまるで絡み取ろうとするように向かう。佐川と不倫相手のことをまた思い出してしまい、帆波は気分が悪くなった。

 トイレで軽く吐いて、律子のいるリビングへ戻る。ドボドボと、水の落ちる音が聞こえた。

「パパが帰ってくるまでに、お風呂に入っちゃって」

 言われた通り風呂を済ませ、浴室を出ると、パチパチと何やら微かな音が聞こえた。心なしか、家の温度がいつもより高い気がする。

「何だか暑いわね。クーラーでも掛けましょうか」

 ここでも律子は呑気にそんなことを言っている。違和感に気付いた様子は微塵もない。

 いつもと違う雰囲気に気付いた帆波だが、だからといって興味はなかった。これからどうなろうが、知ったことではない。

 とりあえず、部屋に戻っていた方がいいだろう。

 そう思い、二階へと続く階段へ向かうと……。

 ――ヒュンッ、

 何かが、帆波の耳の横を掠めた。振り返るより早く、近くの花瓶がパンッ、と音を立てて割れる。

「帆波ちゃん!」

 さすがにこれには律子も驚いたらしく、駆け寄ってくる。

「大丈夫!? 怪我は……あらっ、大変! 耳から血が出てるわ!!」

 律子が外野で慌てているが、当の帆波にさほど感情の機微はない。自身に危険が降りかかっても、相変わらずまったく興味が湧かないのだ。

 ダイニングの棚へ、律子は救急箱を取りに行った。それより先にすることがありそうなものだが。

 床に砕け散った花瓶の残骸に混じって、プラスチックのBB弾が一つ、転がっているのを見つけた。

 部屋の気温がじわりと上がる。

 額に浮かんだ汗を、帆波は静かに拭った。

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