悪事は明るみに
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登場人物『市村小夏』が、とあるドラマの登場人物と名前がモロ被りしていることに投稿してから気付いたため、『市村緋夏』に改めました。
仕事帰りに立ち寄った自動販売機で、気分転換に珈琲を買う。
近頃疲れているせいか、とみに珈琲の摂取量が増えていた。普通はこういう時煙草の量が増えるものだが、あいにく律子が嫌煙家のため、吸うことができない。結婚して以来はずっと珈琲が相棒だ。
歩きながら、珈琲の缶を開ける。こういう時でも――何をしていても、自然に頭を過ぎるのは、今現在の仕事のこと。
少し前までは腫れ物を触るようだった佐川への扱いが、目に見えてひどくなってきた。仕事を回されることもなければ、そもそもそこに最初からいないかのような態度を取られることもある。いわゆる『窓際職員』状態だ。
ここ最近、集会や自分の受け持っている授業――といっても、受け持つ数さえ以前より減ったのだが――以外は職員室から出ることなく、自分の席にずっと座ったままで一日が終わることもある。
『いい気なもんだ』と、若手教師から飛び出す陰口を小耳に挟んだことも、一度や二度ではない。
じわじわと、音のないストレスは確実に佐川の身体を侵食していた。
これからいったい、自分はどうなるのだろう。一向に見えない未来に、気が重くなる。珈琲缶に口をつけ、甘苦い液体を一口、喉に流しこんだ。
ついでだからここで少し休憩していこうと、休息の体制に入ったのが悪かった。大人しく車に帰ればよかったと、すぐに後悔する羽目になるとは、佐川はそうなる直前まで露ほども思っていなかった。
珈琲缶を啜る佐川の目の前に、ひらり、と一枚の写真が落ちてきた。缶から口を離し、屈んでそれをそっと拾う。
そこに映っているものを――いや、人を見た瞬間、佐川は固まった。
最近撮られたものらしく、まだ真新しいその写真。
夕暮れの中で撮られたのか、被写体の人間は赤く翳っている。少し遠く、おまけに正面を向いていないので、詳細までは見えなかった。しかし佐川が見間違えるはずなどない。
この男は間違いなくあの、以前瑠璃と一緒に歩いていた青年。
『彼』にそっくりな、あの男。
「何、で……」
偶然に怯えていると、コツ、と目の前にハイヒールらしいものが見えた。黒く光るそれは暗闇にほとんど輪郭が溶け、今にも消えてしまいそうだ。
「ごめんなさい。それ、わたしのなんです」
そう、声を掛けられて……。
佐川は凝り固まった首をギギギ、と上げ、もう一度驚愕に目を見開いた。
◆◆◆
秋も深まったある日の朝、緊急に開かれた全校朝礼。
なんだろうね、めんどくさいなぁ……直接私語を交わすものは少なかったが、確実にそんな空気が飛び交う生徒たちの前で、校長が沈痛な面持ちで口を開いた。
マイク通りの良い声が、一人の少女の死を告げる。
『――二年C組の市村緋夏さんが、昨日亡くなりました。自室で、首を吊っていたそうです』
周りから、驚愕の声が漏れる。混乱気味に、息を荒げている子もいる。
二年C組といえば、帆波の所属するクラスだ。これから面倒なことになるだろうと、帆波は他人事のように思っていた。
『実はご遺体をお医者さんに見て頂いたところ、体内外共に非常に損傷が激しかったとの報告がありました。常日頃、誰かから虐待を受けていたものではないかと……』
校長の口から発される事実に、周りからは「ひどい」とか、「誰がそんなことを」などといった非難めいた呟きが漏れ聞こえてくる。それでも、帆波の表情は一つとして変わらなかった。
市村緋夏という女子生徒のことは、帆波もよく知っている。明るく誰に対しても勝気な態度で、帆波とは違った意味でのリーダー的存在。クラスでは目立つ方だったはずだし、人望はおそらく帆波より厚かったと思う。
ただ、ここ一か月ほどはだんだん何かに怯えるように身をすくめ出し、近頃など憔悴しきって口数も少なく、いつもの元気はどこへ行ったのかと周りが心配していた。
……そこまで考えて、あぁ、と思う。
そんな『他人行儀』なことを考えていたって、仕方ないか。
――意外と、呆気なかったわね。
口の中でポツリと放たれた呟きを、誰かが聞くことはなかった。
「佐川さん、ちょっといいかな」
全校集会が終わり、個別でクラス会議があったあと、帆波は担任の教師に呼び止められた。あまりに無表情を作りすぎたので――まぁ、いつも通りなのだが――少し不審に思われたかもしれない。
ただ、こんな時に笑うことなど言語道断だし、泣くことなどもっとできない。そのため帆波は仕方なく、いつも通り冷静に「なんですか」と担任教師に向き直った。
そのまま職員室に連れて行かれ、担任のデスクにまで向かう。椅子に座った担任は、一通の手紙を帆波に差し出した。ピンク色を基調としたそれは、可愛らしいウサギのキャラクターが描かれていて、今の重苦しい雰囲気にはとても似合わない。
封筒には丸っこい、いかにも女子といった雰囲気の字で、『読んでください』とただ一言書かれている。
「これ、なんだけど」
「市村さんの、遺書ですか」
聡明な帆波でなくても、すぐに分かる。
そして、それを帆波にわざわざ差し出した意味も、おそらくは。
開けていいかどうかを目で問えば、担任教師は少し困ったように、この場がやりづらいと言いたげな感情を隠しもせずにうなずいた。
既に封の開けられた形跡がある封筒を開き、中から似た柄の便箋を取り出す。二つ折りになったそれを開けば、そこにはひらがなでこう殴り書きされていた。
『いんがおうほう ということば
いまさら そのいみが わかりました
いいんちょう ごめんなさい
もう わたしは たえられません
じぶんかってだと たぶんまた せめられる
でも わたしは にげます
いいんちょうからも あいつらからも』
「……ここに書かれている、委員長っていうのは、佐川さんのことだよね」
おずおずと尋ねられ、帆波は小さく息を吐く。
「そう、でしょうね」
言われなくても、そうとしかありえないだろう。市村緋夏が所属するのは二年C組。まさか他のクラスの委員長をそう呼ぶわけもないのだから、彼女が『委員長』と読んでいるとすれば他の誰でもない、C組の委員長である帆波しかいないのだ。
次に担任がトン、と指で示したのは、『あいつら』と書かれた部分。
「ここも、気にかかる」
その意味も、帆波にはなんとなくわかる。その個人名をいちいち書かなかったのは、事態を大きくすることを恐れたのか。それとも、帆波に全てを話させるためなのか。
どのみち、面倒くさいことになった。
「佐川さん。単刀直入に聞くけど」
教師としての責任を果たそうとしているのか、いつもより強い光を宿した瞳が帆波を見つめる。それでも、帆波が動じることはなかった。
「市村さんが何で死んだのか、知ってるんじゃないかな?」
きっと、この人は勘付いているのだ。
市村緋夏の自殺に、帆波が何らかの形で関わっていることを。
「……」
だからといって、事実の全てを話すつもりはない。それは保身のためではなく、帆波自身が本当に、認めていないから。
市村緋夏を自殺に追い込む、その引き金を引いたのが、自分であることを。
「お話します」
淡々と、帆波は普段通り口を開いた。
「校長が言っていたように、彼女の身体に損傷があったこと。もちろん先生も知ってますよね。外側はもちろん、体内……特に子宮あたり、だいぶ傷んでいたんじゃないかと思います」
担任の息を呑む声が聞こえると、同時にスッと目を閉じる。
「市村緋夏さんが、いじめを受けていたのは事実、だと思います。おそらく性的なものも含まれた、行き過ぎた酷い虐待。ですが……彼女はその前、他の子たちと一緒に、クラスの別の女子生徒に対して同じような仕打ちをしていたんですよ。わたしは、それを注意しただけです」
「だから、因果応報ってことか……?」
「えぇ、多分。彼女は同じくいじめを行っていた仲間から、返り討ちにでも遭ったんでしょう。わたしももっと早く気付いて、対応してあげられれば良かったんですが……あの子が、なかなか口を割りたがらなくて。過去に自分がしたことが、仲間を通して公になることを恐れたのかもしれません」
「なるほど……ところでその、仲間っていうのが誰か、分からないか」
「そこまでは……」
実際、市村緋夏をいじめていた生徒たちが誰なのかについては、興味がないので知らない。帆波は、何ら嘘をついていない。
――まぁ、その全てを知る人間が一人だけいることを、帆波は知っているのだが。
途方に暮れたように、担任は深く息を吐いた。
「過去の自分の過ちと、現在受けている仕打ち。その両方を苦にした、自殺……か」
顔を片手で覆い、力なく椅子に凭れる。
「弱ったなぁ」
それは生徒を一人失ったことに対してか、それとも自身の受け持つクラスに起きてしまった問題に対してか……それとも、これから徐々に起きるであろう、担任教師である自身への信頼の低下を憂いているのか。
こういう困ったことがあった時、以前なら若手教師たちは挙って佐川に相談を持ちかけていたはずだ。帆波自身もそのシーンを幾度となく見てきたし、彼らと同じ教師である香澄からもそう聞いている。
しかし、今の担任にそうする選択肢はないようだ。……まぁ、それもそうかと納得はできるが。
――佐川先生にでも相談してみればいかがです。
意地悪で言ってみたくなったけど、ぐっと飲み込んだ。これではまるで、帆波が父親を慕っているように聞こえてしまうではないか。
そう思われるのはさすがに心外だ。
結局帆波は、担任教師から「もう行っていい」のお達しが出るまで、その場に無駄に立ち尽くす羽目になった。
とある憎しみに溢れた双眼が、その一部始終を全て見ていたことに、終ぞ気付かないまま。




