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チョコレイト・リリィの誘惑  作者:
3.失望
39/66

優等生の悪戯

 それを思いついたのは、ほんのたまたまだ。

 少なくとも、帆波がこれまで頭に描いてシミュレートしてきた計画書(プラン)にはないことだった。


「――え、なんて? 聞こえないよ」

 空き教室に、冷めた声が響く。その張本人である学級委員長は、埃まみれの床に這いつくばる『それ』を見下ろし、わざと苛立たしげに足をコンコン、と鳴らした。

 帆波の厳しい追及に、『それ』はうぅ、と唸り声を上げ、絞り出すようにもう一度言葉を発した。

「ごめ、ご……ごめんなさ、」

 ぐり、と上履きに包まれた幼い足が、力の限り『それ』の頭を踏んづけた。ボサボサになった髪の毛がぐしゃりと歪み、ゴッ、と鈍い音とともに、顔が鼻からまともに地面へと押し潰される。

「う、うっ」

 もはや声にならない声を上げ、『それ』は生理的なのか感情的なのか分からない涙をさらに流す。床がじわりと濡れ、もともと広がっていた水たまりの面積を僅かに増やした。

「謝罪は、ちゃんとしようね」

 人間として当然のことよ、と彼女は尊大に言う。いつもクラス会議で先頭に立ち、説明する時のように堂々と。

「あんたは、それだけのことをしたんだから」

 そうよね? と彼女は隣に立っていた別の少女に話を振る。一部始終を黙って見ていた少女――かつて『それ』を中心とする女子グループからのいじめに遭っていた女子生徒は、ガタガタと恐ろしげに震えながら、それでも幾度もうなずいてみせた。

 反応を見て、彼女はようやく踏んづけていた足をどけた。その隙を狙い、『それ』は埃まみれになった顔――心なしかさっきより、鼻が曲がっているようにも見える――を上げ、「でもっ」と食ってかかる。

「その子をいじめてたのは、あたしだけじゃっ」

 ガスッ、

「ぅぐ、うっ」

 みぞおちの辺りに、蹴りが入った。攻撃を加えた本人としては、脇腹辺りを狙ったつもりだったのだが……無知とは恐ろしい。一瞬息が止まり、鼻血と涙、そして埃で汚れた『それ』は苦しそうに咳き込みながら地面に転がる。先ほど幾度も思いきり張った頬は腫れ上がって痛々しく、酸素を求めるように開かれた大口からは、だらしなくよだれが伝い落ちた。

「言い訳なんてどうでもいいの」

 助けを求めるように縋られた手を蹴散らし、手のひらを思いっきり踏んづけてやる。ごり、と骨の嫌な感触が靴越しに伝わって、少し不快だ。苦痛に歪んだ顔は見物なのだが……あんまりいい痛めつけ方とは言えないかもしれない。

「少なくとも、主犯格だったのはあんたでしょ。その子の、何が気に入らなかったんだっけ。言ってみなよ……え?」

 言葉を促すが、急所近くに攻撃を受けた『それ』からは苦しげに喘ぐ声しか聞こえない。荒い呼吸によって床の埃が口に入ったらしく、不快そうに顔を歪めた。

「なぁに? 不服そうな顔ね」

 彼女は動じることなく、ふん、と鼻を鳴らした。せせら笑うような声色なのに、表情は相変わらずの無だ。

「……まぁ、あんたたち二人の間に何があろうと、わたしには関係ないことだし。別にどうでもいいのだけど」

 でも、このことが公に知れたら……困るのはあなたよね?

「わたしはクラス委員長。わかる? 本来なら、こういうことは先生たちに報告しないといけない立場なのよ」

 そう告げるが早いか、『それ』は焦ったように激しく首を横に振った。ここまでの一方的な攻撃を受けて、それでもなお、このクラスメイトにとってはわが身の保身の方が大事らしい。

 いい気なものね、と内心で嘲笑する。

「……お父さんみたい」

 低い呟きは、果たして『それ』に届いたのか。

「ね、ねぇ佐川さん」

 彼女と『それ』の応酬を横で見ていた少女が、困ったように口を開いた。

「もう、それくらいに……」

「優しいのね、あなた」

 冷めた表情とともに淡々と放たれる、裏腹の言葉。褒められているのか貶されているのか、分からないのが怖い。

「た、確かにわたしをいじめたことは許せないけど」

 か細い声とともに、弱気な目がちらりと『それ』を見る。今や床に這いつくばったいじめっ子の姿の、なんと滑稽なことか。

「でも……もういいよ。高慢ちきで大嫌いだったこの子の、こんなに無様な姿を見られただけで、わたしは満足だから」

「そう」

「ありがとね、佐川さん」

 少女は僅かに笑った。主犯がこうなってしまった以上、もう二度といじめを受けることはないと安心しているのだろう。

「……わかったわ」

 彼女が納得したようにうなずくと、『それ』はあからさまにホッとしたような顔をした。希望を見出したように光を取り戻したその瞳に、内心苛立つ。

 彼女は埃と様々な液体でまみれた『それ』の髪を掴み顔を上げさせると、ふらつく身体を無理矢理少女の前に座らせ、土下座をさせた。もう二度といじめをしないと誓わせ、少女を空き教室から解放してやる。

 『それ』と二人きりになった帆波は、土下座したままの『それ』の背をおもむろに蹴った。油断していたと思しき細い身体は、あっけなくべしゃりと潰れて床に転がる。

 制服の袖が、僅かに血で汚れている。おそらく髪を掴んだ拍子に、『それ』の顔についていた鼻血が触れたのだろう。それに気付いた彼女は、不潔そうに顔をしかめた。

「汚れちゃったわね」

 発展途上の小さな両手をパンパン、と軽く払う仕草をした彼女は、驚いた様子の『それ』に顔をこちらへ向けるよう指示した。言葉通りずいぶんと汚れていたので、もう自分の手では触りたくなかったのだ。

「まだ、これで解放してあげるなんて言ってないから」

 罰はこれで終わりだと思っていたらしい『それ』は、外野からもわかるほど身体を硬直させた。先ほどまでの消耗によって力がほとんど残っていないのか、未だに顔がこちらへ上げられることはない。それでも身体が小さく震えているので、きっと相当動揺しているのだろう。絶望に突き落とされた顔を見られないのが口惜しい。

「勘違いしてるみたいだけど、わたしは別に正義の味方ぶってこんなことしてるわけじゃないの。あの子がどうなろうと……これから平和な学校生活を送ろうと、自分の意志を持ったあんたの仲間から再びいじめられようと、知ったことじゃない」

 あの子にもあぁ見えて結構、下衆いところがあるみたいだしね。

 あえて急かすことはせず、彼女は『それ』に向けてゆっくりと、噛んで含めるような言い方をした。

「ね、さっきの言葉忘れた?」

 忘れたとは言わせない、と言外に込め、彼女は無表情を僅かに緩める。

「あなたは、わたしに一つ借りがあるのよ。あの子をいじめてたこと、黙っててあげるから。その代わりに」

「……その、代わりに?」

 ようやく顔を上げ、こちらを見た『それ』は、先ほどと一転して怯えた顔をしていた。内心でほくそ笑み、彼女は勿体付けたようにゆっくりと、言葉を続ける。

「あなたは今日から、わたしの所有物ね」

 そう言った後彼女は足を高く振り上げ、かかとで『それ』の脳天を強く叩いた。ぐわん、とその頭が揺れ、がくんとうなだれる。軽く脳震盪でも起こしたのだろうか。女子中学生の力で、そこまでのことができるとも思っていないが……少し、込めたストレスが大きかったかもしれない。

「あぁ、スッキリしたな」

 疲れ切ったようにぐったりと倒れ伏した『それ』を見て、帆波はようやく満足そうに破顔した。


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