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チョコレイト・リリィの誘惑  作者:
2.嫉妬
24/66

摘み取った男、疑う女

 期末テストが近いこともあって、富広中学校は徐々にその対応に追われ始めている。

 教師たちは授業にテスト対策を取り入れ、休み時間には職員室を生徒立ち入り禁止にし、テストを作る。一方生徒たちは、既に対策の勉強を始めている者もいれば、前日まで全く焦る様子のない者もいたりと様々だ。

 テストが滞りなく終了し、採点と返却を終えてしまえば夏休みもすぐそこ。宿題の準備をそろそろしておかないといけない。教師にとっては、何かと忙しい時期である。

「佐川先生、出張お疲れ様です」

「あぁ、ありがとう」

 同僚教師たちから掛けられる言葉に笑みを返して、佐川は再びパソコンに向かう。学年主任ということで、保護者向けの便りを作っているところだ。

 昨日まで嘘をついて旅行――しかも不倫旅行に出掛けていたことに関して、罪悪は今更感じていない。むしろわざわざ付き合ってやったのだから、感謝されこそすれ。

 嘘なんて、とうに吐き慣れている。もちろん、周りにバレる自信などあるわけがない。現に生徒も、周りの教師たちも、妻さえも欺き続けているのだ。

 ただ、娘の帆波は……もしかしたら、薄々感づいているのかもしれない。それでも彼女は賢い子だ。そんなことをおくびにも出さないし、きっと今後もそのことに関して自分を問い詰めてくることもないだろう。

 いつの頃からか無表情がデフォルトとなり、何を考えているのかさえも読めないことがあるけれど、それでも彼女のそういった聡明さは嫌いではない。こういう時、大いに役立つからだ。

「佐川先生」

 ふと耳に届いた、甘みを含んだ高めの声に、佐川はパソコンから視線を外し、顔を上げた。にこやかな顔でこちらを見ているのは、薄手の黒いワンピースに身を包んだ女。

「お疲れ様です」

 真っ赤な唇を朗らかに緩め、彼女は――香澄は、笑う。ぞくり、と肌の泡立つ嫌な感触を覚えた。

 ちらり、と以前見た光景が、佐川の脳裏にフラッシュバックする。

 黒いワンピースをはためかせ、どこかに歩いて行く女。紗織と泊まりがけの旅行へ行く前日……いつものホテル街で、その幻影を見かけたような気がする。

 一度だけなら、気のせいで済む。

 しかしその前にも確か、同じ姿を――しかも男と一緒にいるらしきところを、見かけたことがあったのだ。

 若槻の街は広いように思えるが、よく考えれば非常に狭いテリトリーだ。そんな中で、あんなに目立つ黒いワンピースを着た女が、二人以上もいるだろうか。それも、けばけばしいホテル街なんかで。

 宗教の定期集会で彼女に会うという妻の話では――別に聞きたくて聞いているわけではなく、あっちが勝手に話してくるのだ――、彼女はどうやらプライベートでも黒い服を着ているらしい。だからこそ、余計に嫌疑が深まる。

 ……いや、別に彼女が誰とそういう関係であろうがどうでもいいはずだし、特段悪いことをしているわけでもないのだから、放っておけばいいだけの話なのだが。

 それでも、一度気になってしまったものはどうしようもなく。

 嫌悪のような、慕情のような。どっちつかずな気味の悪い感情を湛えながら、それでも仕事場では顔を合わせざるを得ない存在。

「……佐川先生?」

 問いかけに答えず眉をひそめていると、香澄が横から不安そうに顔を覗き込んできた。佐川は思わず、飛び退くように顔を動かしてしまう。

「いや、何だ、その……」

 ベテラン教師らしくもなく口ごもってしまう佐川に、香澄はその真っ赤な唇を再び緩め、ふわりと笑った。

「お疲れなんですね。出張の翌日から仕事じゃ、さすがに身体が持ちませんでしょう……」

「あぁ、まぁな……一日くらい、振替休日を作ってくれればいいんだけど」

「そうですね。それくらい、あってもいいはずですよ」

「でも、忙しいのはいいことだと思ってるよ。上が、俺の実力を認めてくれてるってことだし」

「鑑ですね。わたしも、そうなれるように頑張りたいものですわ」

 不思議なもので、一度話し出すと、自然と本来の調子を取り戻していくことができる。苦手意識は消えないものの、その部分でだけはきっかけをくれた香澄に感謝しなければいけない。

 ホッとしつつ、佐川は香澄に笑いかけた。


    ◆◆◆


 いつもなら彼氏と一緒に立ち寄っているホテル街に、瑠璃は一人でいた。

 何もホテル街だからといって、ラブホテルだけがあるというわけではない。この辺りには飲み屋もあれば、瑠璃が勤めている若槻銀行の支店だって建っているのだ。

 瑠璃は今日、若槻銀行の支店を訪れていた。すぐ帰る予定だったのだが、支店の社員に捕まって長話をしているうちに閉店になり、さらに閉店後勘定が合わないからと手伝いに駆り出され、結果全てを済ませようやく店を出た頃には、辺りは薄暗くなってきていた。

「あぁもう……」

 苛立ちながら、光を灯しだすネオン街を瑠璃は一人で歩く。

 あからさまにカップルと分かる男女の二人連れがいくらか通り過ぎていく中、きらびやかなネオンに一人照らされる自分の何と惨めなことか。

 違うのだ、自分にだって恋人はいる……そう、今にも周りに言いふらしてやりたい衝動に駆られるが、今日は残念ながら恋人こと亮太は接待が入っているという。どうやら、顧問先の偉いさんと飲んでいるらしい。

 ふぅ、と瑠璃は寂しく溜息を吐いた。

 気を取り直し、顔を上げるが、やはり目につくのは仲睦まじそうなカップルばかり。まだ夜には少し早い時間だが、今日は金曜日だから気兼ねなくゆっくりできるし、少しでも長く二人の時間を持ちたいから、さっさと早いところ営みを始めよう……とでもいったところだろう。

 偶然にも、黒っぽいインナーの女性とすれ違う。その色を見た瞬間、瑠璃はどきりとした。彼女(・・)のように全身真っ黒というわけではないのに、自然と足が竦み、立ち止まってしまう。

 思わず、辺りをきょろきょろと見渡した。まさか再びこんなところで顔を合わせるわけはないのだが(そうと信じたいが)、つい気になってしまう。

 突然道の真ん中で立ち止まり、挙動不審になる瑠璃を、通り過ぎる他人たちは訝しそうに一瞥していった。人間など至極淡泊なもので、基本的には誰も自分以外に興味など持つわけがないのだから、当然といえば当然だ。

 現に瑠璃だって、周りは何も見えていない。自分の思考だけで、いっぱいいっぱいだ。

「そうだ……」

 瑠璃は一つずつ思い出す。今までわざと目を背けてきた、恐怖と疑問の数々を。

 はためく黒いスカート。射るような視線。不自然に歪んだ真っ赤な唇。小奇麗な顔に貼りついていた、いっそ奇妙なほどの無表情。

 あの日の出来事を隅々まで頭に描き、身体が小刻みに震えだした。

「……あの、女」

 亮太と一度この場所へ来た時に、彼が親しげに話していたカップル――正確には女のことが、あれ以来どうにも引っ掛かって仕方ない。

 もちろん、畏怖もある。品定めをするかのような視線を、純粋に怖いと思った。もう二度と、出来ることならお目にかかりたくはない。

 しかし何より瑠璃は、あの日彼女が一緒にいた男の存在に引っ掛かりを感じていた。

「この間殺されたって言ってた、男の人……」

 そう。

 以前殺害されたと騒がれていた、どこぞの会社の社長――副島、といっただろうか。彼は確かに、あの日一緒にいた男だった。亮太も同じようなことを言っていたから、間違いない。

 できた偶然かもしれない。誰しもが――きっと亮太でさえも、周りと同じように口を揃えてそう言うだろう。

 それでも瑠璃には、あの黒い服を着た女が副島を取り殺したかのように思えて仕方ないのだ。

 一度陽が落ちると早いもので、辺りは先ほどよりも確実に、徐々に暗闇を生み出していく。

 夏場とはいえ、夕方ともなると少し肌寒くなってくる。夏用の制服を着ていた瑠璃は、冷や汗も相まってもはや凍えそうになっていた。

 ゴトリッ、

 その時後ろで物音がして、早鐘を打っていた瑠璃の心臓は危うくその動きを完全に止めてしまうところだった。そんなに近い距離ではないはずなのだが、やけにはっきりとその音が耳に届いたのは何故だろう。

 ハッと我に返り、それまで凍ったように動けなかった身体がゆっくりと、ギシギシと音が鳴りそうなたどたどしさで動き始める。

 瑠璃はそっと、後ろを振り返った。

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