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小鬼の夢  作者: 明日
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折鶴の話

 記憶の底の大分曖昧になった泥を浚って目を凝らすと、幼稚園に通う時分の異郷の風景が瞼の裏に蘇り、確か昔の町の景観を護持する古い街で、何処の川か判然しないが古い町並みを貫流し、遠方に流れる川と合流して又大きな川に注ぎ、西方の河口で海に出る。海川の話は今回の話題と無関係なので省略して、街を貫く川の両岸に整然と林立する柳や両岸を繋ぐ蒲鉾の形の橋を見て、屡時代劇の舞台になる古風な街中の川の風景に似ていると喜んだ。事実其処の街は、時代劇の撮影に使われる事のある街だそうで、幼稚園児の、つまりまだ五、六歳児の私は自身が時代劇の舞台に上がった気持で柳の傍から川の底を覗き込んだ。

 川の底は渡し舟か何か今も知らないが、石垣に沿った石段を下り、其処に大人二人が横に並べる程度の桟橋があって、棒杭に小舟を舫い、料金を支払った客を乗せて川を下る商売をする男が複数人居た。私も最初に街を訪れた折に乗り込み、川波に揺られ石垣を見上げ、地面を擦る程低く垂れた柳の枝葉越しに往来を行く観光客の群れを観察した。当日の空模様は晴天だった記憶も曇天だった記憶もある、最初の舟の記憶は輪郭も朦朧として掴めないが、幾度も船上から青空や雨空を仰ぎ見て、時に雨滴に打たれた経験もあり、矢張り両手の指では足りぬ程乗っている。川下りの記憶は幼い記憶から更新された覚えが無く、幼稚園児の時分に散々乗った所為か、小学校中学年の頃辺りに件の街を歩いた記憶が無い。此処数年、県外の観光名所へ足を運ぶ事はあっても、近場の観光地に行かない、そんな事を今朝になって思い出した。

 夏休みの某日、如何なる涼も意味を成さぬ猛暑に庭の雑木林の緑陰に寝転がる愛犬の息苦しい鳴き声が二階の締め切った自室に届き、愛猫が出窓に乗って、窓際の学習机の前で算数の宿題の文章問題の難解さに呻く私を振り返り、猫缶を強請る様な声で一声鳴いた。無論宿題の問題の解に四苦八苦する私は無視し、書いては消してを繰り返す内に丸まった鉛筆の黒い芯の、黒い曖昧な線で書いた数字を見て、大粒の汗の滴る顔面の額の生え際を素手で拭い、濡れた手で鉛筆の緑色の持ち手を握り不快感を覚えて宿題を諦めた。夏休みの栞の付録の宿題の放置を決意し、栞を閉じて筆記用具を机の正面の本来教科書等を仕舞う、仕切りのある棚に投げ入れた。鉛筆は学習机の壁に跳ね返って閉じた栞の表紙に転がった。

 無視した許りの愛猫事寅ノ助の待つ出窓に手を突き、窓硝子の向うの愛犬の寝姿は見えず、藪蚊の甚だ鬱陶しい雑木林の中の池の真昼の猫集会を部外者の立場で観覧する。池周りの猫集会に窓越しの参加が日課の寅ノ助は、毎朝窓越しに挨拶を交わす相手の弱々しい声が気に掛かるらしく、今日も又猫集会を欠席して出窓に張り付く。他意無く虎模様の背中を撫ぜると、寅ノ助の背中がひくひく動き、先端が僅かに白い耳が後方を向いた。機嫌が下り坂になるのが解る。執拗に撫ぜれば先端の白い尻尾を振り、縞模様の尻尾の半ばで人様の腕を叩いて、首を巡らして背後の私を見遣り、可愛くない濁声で寝言を呟く様に鳴く。狭い額を引っ掻くと耳が元の位置に戻って雑木林の下陰に寝転ぶ知己の不幸に同情する。

 学習机の隅に備え付けた目覚まし時計で時刻を確認して昼食の時間が迫る事を知った。栞を抽斗に仕舞って自習に区切りをつけ、名残惜しい冷房を切り、出窓で愛犬の難行苦行を見守る寅ノ助を抱き上げ部屋を出るが、襖を開け廊下へ出た時点で冷気の残る部屋に戻りたくなった。後退し掛ける足を自制し、廊下を伝い梯子段を下り、茶の間の卓袱台の前に御輿を据えて暑苦しい寅ノ助を畳の部屋に押し遣るが、畳の部屋の襖の敷居を跨ぐ為前脚を上げた恰好で、廊下の床で僅かな涼を求めて寝転がった。野性味の欠片も無い事は承知済みだが、敷居を跨ぐ途上で力尽きる姿は、野性を知らぬ家猫の生意気な姿だと思った。

 お勝手に立つ祖母が昼御飯のお素麺の器を持って茶の間へ入り、私も摘み食い旁配膳を手伝い、家族が揃うを待ち、祖父の音頭で戴きますと合唱した。おかずは、調理に季節の熱気が苦しい天麩羅で、人参の短冊切りの掻き揚げを頬張って意外な熱さに吐き出し、お汁を冷たくする為に入れた氷が見る見る溶けるのを見て天麩羅を半分に割り、断面から汁を染み込ませて食べた。人参の短冊切りの掻き揚げは咀嚼の度に甘みが増して、お汁の器に盛ったお素麺を一緒に食べると、頬がはち切れんばかりに膨らみ、顎が疲れるが、美味しいと感じるので止められない。不行儀の孫の痴態を見咎めた祖父が食事も構わず説教を垂れ、反対に食事に夢中の孫たる私は嫌な顔一つせず、適当な相槌を打ち乍ら茄子の天麩羅を二枚取り、半分に裂いてお素麺ごと食べた。

 昼食後に除湿の効いた畳の部屋の戸障子を少し開けて廊下の日向に寅ノ助を出し、窓外の雑木林の下陰で気息奄々として昼寝を敢行するフジの赤く長い舌が舐める地面の染みに、水分補給は独自に、又頻繁にしているらしいと安堵した。胸を撫で下ろし乍ら畳の部屋の戸障子を閉めようと、膝を後退させ、磨り硝子を嵌めた木枠に指を引っ掛けた時、熱した鉄板の如く灼熱する廊下の床板に文字通り飛び上がった寅ノ助が室内に戻って来た。外界の刺激に敏感な肉球を舐め、部屋続きの仏間の仏壇の前で、音を立てて寝転がり、無愛想に鳴いて召使いの人間に毛繕いを強請し、召使いの人間之を無視して仏壇の供花の鮮度が落ちるを気にして水の交換を始めた。御主人様のお猫様は不満げに鼻を鳴らし尻尾で不機嫌を表した。

 水の交換を済ますと今朝の時代劇の舞台の街並みを思い出し、茶の間と畳の部屋の間の廊下で何やら作業する祖母に異郷の記憶を語り、孫娘の思い出話に得心した風の祖母は、記憶の街の名前を言って、此処数年近場の異郷の土を踏んでいない事に気付いた。新聞紙を床一面に延べ、皺の寄った一枚に端座し、金属製の掌大の容器を置き、中の半透明の糊状の物体を休まず箸で攪拌する。節榑立った祖母の手を見詰めて作業の内容を問うと言う野暮な真似はしない、趣味の幅広い人の成す事は、逐一尋ねぬ方が後の被害を被る確率を下げられる為心安い。緘黙を貫き祖母の言葉に耳を傾け、小舟の浮かぶ川の両岸に地面を掃く程長い枝葉の垂れた柳の居並ぶ古い街並みと、其処へ立ち寄る機会の多かった幼稚園時代の出来事を懐古して、ふと茶の間の壁掛け時計の文字盤に目が行って、密会の時刻を教えた。

 二階の自室へ戻り、身支度を整えて一階玄関前の廊下の新聞紙の敷物を踏ん付けて三和土に飛び降り、運動靴を履いてお夕飯の時間迄に帰る旨を告げ、作業中の祖母と表の工場で機械弄りに没頭していた筈の祖父の返事を聞いて国道沿いの歩道に出た。噴き出す汗を熱風で吹き飛ばし、約束の神社の御神木の前に、炎天下でも顔色一つ変えず佇む充景の顔面を伝う特大の汗の粒に申し訳なさを感じると共に豪儀な立ち姿に感銘した。

 賽銭箱の裏の階段の一番下の段に腰を掛け、特別関心ある話題も無い為今朝の出来事を話し、もう一度左右を柳が林立する散歩道を闊歩したい訳でもないが、彼の土地を訪れた当時の理由を思い返すと又あのお店の盛り蕎麦を食べたいと思った。時代劇の撮影の行われる異郷の其処へ、当時幼稚園に通う年齢の我が子や孫娘を連れて、その土地の有名な蕎麦屋の暖簾を何度も潜り、蕎麦屋の癖に蕎麦より美味い饂飩を食べたり、自慢の蕎麦団子を食べたりした。幼い私が最も好んだ料理は蕎麦団子を使った善哉で、毎度食後に食べて、五、六歳児の胃袋に見境無く物を詰め込み、満腹にならぬ訳もなく毎度食事の中途で餡に飽き、呆れた風の父の満杯の腹に無理矢理流し込んで片付けた。矮小な体躯の胃袋は当然体躯に見合った大きさで、自身の許容量を把握出来ぬ子供は、必要以上の物を食べたくて無闇に料理を注文し、家族に怒られるのは自然の光景だ。今なら胃袋の具合も把握出来るし、前より沢山入る。蕎麦団子の善哉も完食出来る。又あの蕎麦屋の饂飩を食べたいな、と夏空に揺蕩う白雲の間隙に見える飛行機雲を見て思った。

 そう言や時代劇の舞台に選ばれるだけあって、古い街並みは遠近に名を馳せる観光名所、と言う事実は無根だが観光客が集まり、古き日本家屋が軒を連ねる大通りを囲む店屋の正面の野天の陳列棚に並ぶ商品は染物の扇子や浴衣、駄菓子屋もあったが、大半の商品には地名と店名が入っていた。蕎麦屋の帰りに醤油味のアイスクリームを食べようと、瀟洒な外観が公共団体の事務所を連想させる建物の隣の広大な駐車場の片隅に、馬小屋の様に粗末な店屋があり、外観が隣の建物との権力の差を余所者に強烈に印象付け、幼いながら店屋の主人を不憫に思った。実際は隣の立派な建物は元銀行だか郵便局だそうで、当時既に其処は食べ物屋が入り、此処だけの話、其処は饂飩屋と聞くが蕎麦が美味いらしい。蕎麦の美味い食べ物屋の隣の可哀想な店構えの甘味屋は、一発逆転の醤油味のアイスクリームで本当に逆転し、繁盛して主人の顔色も明るくなった。

 肝心の醤油味のアイスクリームは生憎食べた事は無い、食べる前に満腹で、他に食べ物を詰める事が出来ない。食べるのは父と祖母である。祖母は蕎麦の美味い食べ物屋の向って左手の路地を真っ直ぐ行った突き当たりの県道の途中にある饅頭屋の饅頭と大福が好きだった。買う時は親戚に配る分を纏めて買い、饅頭や大福が揃わず店の奥の厨房で、追加で作り始めた時は時間が掛かり、その間に小舟に乗ったり食べ物屋の斜向いの古本屋を覗いたり、川沿いの店屋巡りで時間を潰した。

 川を縦断する道があり、蒲鉾型の橋でなく扁平な橋が両岸を繋ぎ、その縦の道を直進して古い街並みの尽きる一寸手前に着物屋があって、暇潰しに覗いて浴衣を物色し、其処で単と言う着物を知った。店の奥の土間に他の商品棚が置かれ、土間の所為か将又窓の無い薄暗い奥の部屋である所為か知らないが妙に肌寒い部屋に、布製の草履や漆塗りの下駄や縮緬の財布等が陳列されていた。同じ部屋の商品棚の脇に硝子張りの箱があって中に厳めしい甲冑が安置せられ、更に隣の一寸奥まった硝子張りの箱に千羽鶴が飾られて、箱の前に木札か貼り紙か、記憶が判然しないが、飾られる千羽鶴の由来が書かれていた。内容は憶えていない。千羽鶴であったかも曖昧だ。小さい鶴の両翼が両脇の鶴と繋がり、大変長い鶴の紐が出来て、見事なもんだと父と並んで感心した。

 そんな思い出を感慨深く語り聞かせ、聞き入った風の寝惚け顔の充景を見遣って、熱心に翼の繋がった千羽鶴の話をした。充景は翼の繋がった千羽鶴に食い付き、貧しい想像力で壮大な鶴の紐を虚空に描いて凄いね、と一言漏らした。人様の感動振りを見て、別に私が折った訳でもないのに凄いだろうと踏ん反り返った。想像上の千羽鶴を思い浮かべる彼は熱風や凶悪な日光の仕業と一概に言い切れない上気した頬を緩ませ、見てみたい、と膝を抱え直して微笑んだ。

 石畳に鳥居の濃い陰が差す程苛烈な日差しに閉口して、充景と合議した結果、社殿の縁の下の日陰に潜って着物が汚れるのも厭わず直接地面に座り、土熱れのする其処の不潔さに少々の居心地悪さを覚え、夏季の間は何処か別の場所が良いか知らと、仲良く首を傾げた。他の条件の良い場所は知らない。児童のみで出這入り出来て、且つ児童のみで違和感の無い居場所は踏切近くの喫茶店や国道沿いの飲食店が精々で、しかし踏切や国道沿いは私の家のご近所だから成る丈御免蒙る。最終手段は互いの家に行き来する事だが、異性の友人宅を訪問する勇気は、残念乍ら私は持ち合わせない。結局湿気の酷い社殿の縁の下で我慢して、先刻の充景の千羽鶴を想う横顔が脳裏にちらつき、常の会話は全く記憶に無く、帰宅後に未だ新聞紙の散らかる廊下を踏んで、奥の両親の寝室にある我が家唯一のパソコンを起動させて折鶴について調べた。

 幼稚園で円卓を囲んだ昔日の色鮮やかな記憶を頼りに本棚を漁り、今の用事にお誂え向きの薄い冊子を数冊見付け、適当な頁を捲って折鶴の折り方を見直した。基本の鶴を折るのに二通りの折り方がある事を思い出し、所謂昔の遊びは不知案内の私だが、数冊の冊子を繙閲した限りでは折鶴自体は特別複雑でもないらしく、又寝室のパソコンで調べた両翼の繋がった千羽鶴も、翼が繋がる様に折れば普通の折鶴と違わない事も知った。一度知ると自身が賢くなった様に思われ、無駄な万能感を覚えていると寝室の外が騒がしくなり、四つ這いで廊下を覗くと、漸く作業を終えた祖母が新聞紙を纏め、纏めた新聞紙の一山をお勝手の冷蔵庫の脇の勝手口の三和土の隅に、古新聞紙や畳んだ米袋を堆積して出来た紙山に積み上げる。

 私は紙山を見るなり両翼の繋がった折鶴を折る為に必要な、大きな紙を一枚強請り、都合好く紙がある筈ないが、孫娘の期待に応えたい祖母が都合好い紙を食器棚の下段の棚から引っ張り出した。暑中見舞いの贈り物の包装紙で、一見和紙に見えるが表面は光沢があり裏面は真っ白い。両翼を繋いだ儘折る為に大きな紙が必要なだけで千羽鶴と呼べる程沢山折る気は毛頭無い、千羽折ると今晩中に終わらない、第一時間が足りない。孫の我儘を叶えてくれた祖母に謝辞を述べ、素早く身を翻して自室へ籠もり、畳に直に座って折り始めた。寅ノ助の妨害の際の勝ち誇った面に憤慨し、つい作業の手を止め、白い腹を撫で回した。

 深更、覚束無い手付きで折鶴の紐を学習机の上に置き、翌日は寝過ごして母の怒鳴り声で目覚め、寝惚けた頭で朝御飯を食べたが、御神木の前で待って居た充景の折鶴の紐を見て触って感嘆の溜息を聞いた時、真夜中まで頑張った甲斐があったと、欠伸混じりに溜息を吐いた。彼の笑顔に報われた気持で、境内を賑わす松林の葉擦れに肩の力を抜いた。

 あの連鶴(?)は、包装紙とか、長い紙を使って漸く折れました。

 A4のコピー用紙だと、頑張っても四羽しか折れませんでした。

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