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小鬼の夢  作者: 明日
3/4

異物の話

 一

 昔の家族旅行で山奥のキャンプ場に泊まった際、晩御飯に真っ赤の分厚い生肉の塊を母が持ち出し、俎板に広げて空瓶の底で力一杯何度も肉を叩き、効能を尋ねると肉が柔らかくなると言った。独特の湿った音、重い音や鈍い音、色々の表現があるけれど筆舌に尽くし難い音と言った方が適切に思われ、敢えて名状するなら歯茎の疼く音だ。自身も音を脳裏に再生する事は出来ても、言葉に書き起こす事は困難な音だった。肥大した筋肉に蓄積される脂肪、他諸々が詰まった生の塊を叩く音は、傍で聞くも良い気持はない、仮令食用肉でも殴打の音を聞けば肌に粟が生じて耳を塞ぎたくなる。要するに、私は現実に暴力的行為を目前にする事が嫌で、目前に暴力を揮う者があれば制止を掛けるが、暴力を忌避したい気持は常にある。この心情は平素暴力を受け、逃げ惑った者なら誰でも思う事で、理不尽を知る者なら誰でも理解を示す事で、しかし人は真に痛い目に遭わねば万事了解する事もない。

 夏の長期休暇は七月下旬から八月一杯、七月中は父の仕事の関係で何処へ出掛ける予定も無いが、八月中旬に北海道北部へ旅行に行く事が決まっている。旅行より先の八月上旬に催される地域の七夕祭りが、七月最終日の昧爽の空を仰ぐ子供の私にとって、最初の心踊る娯楽である。

 七月最終日の昧爽、二度点けた扇風機の電源が切れて一時間も経たぬ内に汗が滲み、愛猫寅ノ助の毛皮と自身の人熱れの不快感も手伝って夢の国を追われ目が覚めた。春夏秋冬の寒暖を考慮に入れず、年間通して使う蒲団の人口率は人一人と成猫一匹で超過し、敷き蒲団と掛蒲団の空間は熱気の稠密した熱帯空間と化して脂汗にも似た不快極まりない大粒の汗が噴き出て、これにはさすがの愛猫も音を上げ、扇風機の止まった数十分後に蒲団を這い出て畳の上に腹を出した。胴体を畳に横たえる音が、どすん、とか、どたん、とか大袈裟な音に思われたが掛蒲団を捲って茶虎の背中を盗み見ると、大袈裟と言う言葉も別段大袈裟でない、文字通り力尽きて行き倒れた様な恰好で寝転がって居た。長い尻尾が蒲団を避け、畳と畳の境目に嵌まっていた。

 余程扇風機を点けて又寝を敢行しようか懊悩し、冷房か除湿機能を使わねば同じ末路と、思い切って休日に早起きと言う新境地の空気を味わう事にした。蒲団の湿気を確認して日干しの日を決め、出窓の障子戸を開けて硝子窓も開け、網戸の状態にして風を通すが、風の通り道の確保が杜撰な為余り涼しくない。廊下に続く襖を開けて風の道を普請するが、天井の隅や床板の溝に夜の気配の色濃い廊下の熱気が室内に入り、既に溜息も出ない位、目覚めた時点で疲労困憊の所に新たな熱気を食らい、澱んだ空気が動き出したのは解るが秩序を感じさせぬ流れに閉口して畳の上に倒れた。廊下の窓の向うの朝焼けを見て、自室の出窓まで這い寄り、腕力に物を言わせて上半身を出窓に持ち上げ、辛うじて風を感じる網戸の向う、鬱々とした庭の雑木林を俯瞰する。

 陰気な雑木林の被さる池の周囲の早朝の猫集会、二階の部屋で庭を見下ろすと池の部分は空白地帯で、鮒狙いか水分補給か知らない野生動物の姿が見え、一時報道番組等、お茶の間を賑わした害獣等も頻繁に現れ、畑を荒らされ堪忍袋の緒が切れた祖母が捕獲用の仕掛けを設置し、翌日に鼬や白鼻心を捕まえた。鼬と言えば以前、私達の対応が悪かったのは勿論だが、地面に直接棒杭を立て金網を巡らし、中に小鳥を放し飼いしたが数日で食い殺された。地面を掘って侵入した形跡を認め、野犬の仕業と騒いだが、同様の被害を受けた一家が近所に居て、当時幼稚園に入るか入らないか位の私の耳に真実が入ったのは小鳥の供養も終わり大分経った頃で、一匹の凶暴な鼬の捕獲の報が入って知った。捕獲後の野生動物の行方は知らない。多分保健所に連れられ、殺処分になったと思われる。

 池の周囲の猫集会は真っ赤の朝暾が地平線を出切って東の空の焼けた色が青味を帯びて来る頃に終わり、私は部屋の寅ノ助を振り返って、窓から参加しなくて良かったのか言葉を掛けた。すると長い尻尾を振って畳を叩き、頼りない音に彼の眠気乃至遣る気の無さを再認識し、ぐうたら猫と愛猫を詰って手近の団扇を手に取った。寝転ぶ寅ノ助は異音に耳を後ろに向け、素早く顔を上げて期待に満ちた目で人様の手元を見詰める。ぐうたら猫に風を送る程心優しい性格をしていない私は自分自身に風を送り、網戸越しに来る風量では不満の寅ノ助が風を求めて私の膝の傍に来て、又大きな音を立てて横になった。出窓の台に寝転べば表の風も直ぐなのに、後一歩と言う手間を億劫がって人力の風を所望する底意地の悪さ、称賛に値する横着振りである。朝風で取れる涼は、家の一室に籠もる人間と猫の満足のいく程度ではなかった。

 青葉の茂る真夏の早朝の温風に頬を当て、欠伸一つに覚醒から一時間許り経った北山時雨の腹を押さえ、

醇乎たる空腹感に責っ付かれ御輿を上げて短い廊下の急峻な梯子段を下り、随伴する寅ノ助と共にお勝手の冷蔵庫や食器棚のお菓子入れを漁って堅焼き煎餅と餅入り最中を見付け最中を取った。お勝手口の隣の今年の春に買い換えた冷蔵庫を漁った序でに、烏龍茶を取り出し、白磁の湯呑と盆に載せて茶の間に向かう。お勝手は梯子段の直ぐ右手で、直進すれば茶の間は目と鼻の先だ。卓袱台に盆を置き、自分の朝御飯乃至間食を強請る寅ノ助の猫撫で声を無視して座り、廊下を挟んだ左手の畳の部屋の玄関から遠い部屋、其処が両親の寝室で休暇の朝の惰眠を貪る二人を起こすまいと息を殺しながら最中を貪った。

 茶の間の隣の畳の部屋の襖は閉じられ、中で祖父母が寝て居り、畳の部屋は八畳敷きで、襖で仕切られた八畳間を仏間に使っている。黒檀の壁に埋め込んだ仏壇に私の曾々祖母の御位牌があり、他名も知らぬ御先祖様方の御位牌も居並び、毎朝三本の線香に火を点けお供えする。故に畳の部屋と続きの仏間は線香の匂いが染み付き、又私は線香の匂いが好きで、不謹慎は承知だが仏間に居る事が好きだった。幼い記憶では、無論今も変わらないが、雛祭りが近付くと仏壇との間を半畳空けて豪奢な雛壇が設置せられ、何段あるか数えた覚えも無い為実際の段数は判然しないが六段以上ある雛壇にお内裏様とお雛様、三人官女に五人囃子、他に燭台や桃の花、車や菱餅等の飾りを並べ、贅を凝らした雛壇が雛祭りの三日前から仏間に鎮座した。愛猫寅ノ助が来た当初、もう雛壇を全て飾る事は出来ないと思われたが、最後の記念にと飾った折、何を感じ取ったか寅ノ助は雛壇に近寄らず、雛壇のある限り仏間に近寄りもしなくなった。雄猫も世の雌猫の為に雛人形に襲い掛かる真似は控えたと思われる。

 最中の餡を包む皮は非常に乾燥して、飲み物無しに食べ続ける事は困難である。用意した烏龍茶を湯呑に注ぎ、二口飲んで、最中を頬張り、又茶を飲み、噛り付く。次第に口中の味覚に飽きが来て、食べ止しの最中を平らげ後は食器棚に戻し、茶の間に戻ると先程来食べ物を強請る声の五月蠅い寅ノ助が卓袱台に身を乗り出して最中の滓の散らかる卓上の小袋に鼻面を突っ込み、赤い舌を懸命に動かし舐めていた。怒鳴るも面倒臭く、纏めて小袋を鷲掴みにして、お勝手口の横の屑籠に捨てた。最中の細かい滓が鼻に入った寅ノ助の抱腹絶倒物のくしゃみ連発劇を観覧し、治まる頃に食器棚の下段の観音開きの棚の戸を開けて猫用缶詰を出すとくしゃみを止めて素っ飛んで来た。本当はカリカリ─我が家のドライフードの呼称だ─の方が滋養のある健康に良い食べ物らしいが、矢張り猫もお菓子感覚の缶詰の方が好きなのだろう。

 愛猫の缶詰を貪る音を聞きながら液晶テレビの電源を点け、平日朝の報道番組を眺め、先日の通り魔事件の様な身の危険を感じる報道は無い事を確認した。液晶画面の時計で時刻を見て愛犬フジの散歩の時間に気付くが、朝の散歩は健康に害成す趣味を持つ祖父の担当で、直に畳の部屋から物音を立てて祖父母が起き出し、祖母は私が朝一番に茶の間に座る様を見て瞠目すると慌てて朝御飯を作りにお勝手へ駆け込んだ。

 甚平姿の祖父が着替えを済まし、朝食の前に散歩に出ると一声掛けて愛犬の散歩に出掛け、庭の雑木林の手前で人間の散歩の一言に欣喜雀躍、その場で跳ね、全身で喜びを表すフジに祖父が一喝して黙らせ、直ぐ一人と一匹は仲好く出掛けて行った。時間は三十分経過、両親が起床して朝食の支度が進み、更に三十分経って祖父が帰宅した。一時間の散歩だった。丁度朝食も出来上がり、皆茶の間に揃い、祖父の音頭で戴きますと食前の常套句を言って朝御飯を認めた。

 満腹か腹八分目くらいの寅ノ助は廊下を横切り畳の部屋を横断し、庭に面した廊下の大窓越しにフジを鼻面を突き合わせ朝の挨拶等を済ます。液晶画面の向うで猫の特別番組が始まり、鳴き声を聞き付け身を翻して白黒の斑猫の映る画面に文字通り飛び掛かった。

 朝食を終え、昼食迄の数時間を宿題に費やし、大嫌いも生温い算数を五分の一程片付け、それで数時間が経ったのだから私の頭は数字の整理に向かないのだろう。昼食に呼ばれ茶の間に下り、真夏の蒸し暑い空気の中煮物を作った母の根性に感銘して昼食は自身の分を完食した。時刻を確かめて直ぐ様席を立ち、食器類は流し台に置いて梯子段を駆け上り、荷物の鞄を襷掛けにして出掛ける旨を伝える。祖父母両親は揃って手を振り送り出してくれた。


 二

 通い慣れた道路を駆けて車止めを擦り抜け公園の鉄棒の裏を行って、石造りの鳥居の階段を登り、御神木を囲繞する棒杭の傍に充景が佇んで居た。騒々しい足音に顔を上げた充景は、私に手招きして賽銭箱の裏へ回って腰を掛けた。陽光の鋭さを示す白光りする石畳と自身の濃い陰を瞥見し、当然私は隣の空間に体を捻じ込み、背凭れ代わりの蹴上の高い一段上の段に背中を預け、庇と日盛りの青空の、不思議に濃く見える境界を見詰めて盛夏の実感を与える色彩に目を細めた。澄明な夏空を仰ぎ見て、濃い青色に輪郭の模糊として見え難いが白い人形を認め、昔、と言っても昔と胸を張れる程長生きしていないが、十数年の生の半ば位の頃に読み耽った絵本を思い出した。

 影送りと言う題名だったか記憶が判然しないが戦前か戦時中の少女の話で、物語の季節も曖昧だが、自身の陰を一切瞬きせず十秒間睨み付けて目線をゆっくり空へ遣る、すると自分の形の白い影が青空に写ると言う遊びだ。物語の概略は失念したが、足下の陰を青空に送る遊びを知り、読んだ当時、公園の黄色い地面を睨んで試し、その通りの白い影を見て両親に自慢したが、試した回数は数える程で、今空を見上げて空の人形を見なければ忘れた儘に違いない。特段面白い遊びでないし、太陽の光の鋭い昼間に試す遊びは承知でも目に悪い気がして、正直今の年齢で友人と一緒に試すものではないと思われる。

 眼底に痛みを覚え、硬く瞑った目を指の腹で擦り、心配げな面持ちの充景を横目に自身の濃い陰を見遣ると、数秒後に目線を上げたい衝動に駆られるも、之を堪えて俯いた儘手掌で両目を押さえた。隣の手が無遠慮に後頭部を撫ぜ、しかし慰撫の手が嫌でないから黙って慰められ、目の奥の疼痛が治まると頭を擡げ溜息を吐いた。まだ少し痛い。充景の自身を案ずる言葉に絵本と影の遊びを教え、屋根の下陰に顔が掛かり薄暗い所から明るい空を見て目の明暗の調節が追い付かないのだろう、と彼は言った。動物の瞳孔は身辺の光の加減で大小が決し、愛猫事寅ノ助の目は一層判り易く、瞳孔の黒色が虹彩か強膜か知らない黄色の領域に程良く広がると普段不細工な顔も可愛らしい。猫の明暗への順応性の高さはよく聞くが、元は夜行性の動物だから別段驚く事でもないと思い直す。

 やおら御輿を上げて日向に出て、白光りする石畳を踏まぬ様に地面を踏み、少し短い自身の陰を睨み付け十数秒、目線を頭上の青色へ転じて白っぽい人形を見詰めた。賽銭箱の裏を這い出た充景が隣に突っ立ち、濃い陰を睨み、十秒程数えて目線を空へ遣り、其処に人形を認めたらしく私の方を見遣って二人で並んで居ると言った。二人横に並び、寄り添う形で双方の陰が地面を這い、二人分の陰を眼底に焼き付け空を見て二人並んだ人形を感慨深く見詰める。絵本の中途か最後か時系列は忘却の彼方に旅立って久しいが、絵本の少女も誰かと並び合った自分の影を見た。数秒で青色に紛れた影の余韻の無さが哀惜の念に堪えない。

 又賽銭箱の裏に御輿を据えて会話に興じ、尻を暖めて出っ張った部分の骨が軋る音を立てる頃、薄暮の迫る境内の鳥居の向うの種類も名称も不明の樹木が歩道と公園の鉄柵に沿って棋羅し、蒼々たる樹冠を照らす夕日の鬱陶しい光線が笠木の両端に遮られ、一層鬱陶しく且つ凶悪な細い光線となって社殿の正面に居座る私達の目を射った。二人して天罰を食らい、頭痛を伴う目の疼痛に呻きつつ、腰掛けの階段を辞して松林の下陰に逃げ込み、疼痛の緩徐に治まるを待って境内と公園を繋ぐ階段とは別の、境内に続く階段の隣の石段があって、其処から公園に下りて二つの階段の間に建つ円錐形の青い屋根の休憩所の本物の腰掛けに腰を掛けた。雑種と思しき大型犬の散歩旁煙草の調達を忘れぬ片目が斜視の小父さんが居て、円卓の上に酒の小瓶を置き、蝉の住み着く木立を背に煙草を吹かす。持参の灰皿の吸殻の山を見て、自身の祖父の麦酒腹が脳裏を過り、機械弄りの工場の規模拡大を申し入れて趣味の機械に没頭してもらおうと改めて思った。

 充景と並んで休憩所の腰掛けに陣取り、犬の散歩の途中の小父さんを余所に内容の無い会話を続け、落日が底を焦がして天地明暗の明瞭な夕雲が群れを成し、一箇所に集って公園の一角を暗くする。花模様の茶色の犬が飼い主に訴え、相棒の訴えを受けた小父さんが煙草を銜えた儘灰皿を仕舞い、席を離れ、紐の無い首輪だけの犬の先頭に立って公園を出て行った。唯一の身分証が首輪の飼い犬は飼い主に忠実で、後を追い、決して吠える事無く公園を出て、直ぐ隣が墓地だが、墓地の石塀を前に足踏みするだけで飼い主に擦り寄った。一人と一頭が座を辞した途端休憩所の中が狭くなった様に思われて、何故か顔の熱に意識が集中し、無性に腹が立って彼の向いの腰掛けに座り直した。

 尻を腰掛けの板の隙間の無い所に置いて肩口で顔を拭き、大粒の汗を吸って変色した着物の肩に、涼しい顔付きの充景とを見比べ、君は暑くないかと問うた。馬鹿げた自明の問いを掛けた時、彼の額や蟀谷、襟刳の色の濃い部分を認めて閉口した。彼は破顔一笑、暑いけれど暑い顔をするのは鬱陶しいだろう、と言って半袖の袖で頬を伝う汗を拭った。

 半袖は上腕の半ば迄を覆い、もっと短い袖や袖無しもあるが、彼が袖無しの着物を着た姿は一度だけで、他意は無いが理由を尋ねると日焼けが痛いと単純明快な答えをくれた。人生で一度で良いから、日焼けが痛いと言って見たい。私は元来色黒らしく、日に焼けても皮膚が剥ける事も痛みを感じる事も無い、経験してみたい苦労だ、と友人に話したら、皮膚を寄越せと物騒な事を言われた。

 榻背代わりの休憩所の壁に凭れ、自身の羨望の的の色白の肌を凝視しながら公園の人声に耳を傾け、ふと先刻の薄闇の被さった一角から剣呑な会話が聞こえ、上半身を伸ばし、壁越しに薄闇の見当を覗いて不愉快な光景に口が尖るのが解った。自身の学区内の中学校の男子制服を着た男子生徒が四人、内三人が一人を取り囲んで人様の頭を小突き、背中を蹴り、仕舞いには長椅子の天板を蹴り上げ、腰を掛ける男子生徒の体が前方に吹っ飛んだ。手前に転倒した男子生徒の背中に三人の片足が乗っかり、ぎゅうぎゅう上から押さえ付け、到頭力尽きた男子生徒は顔面を公園の硬い地面にぶつけ、苦しいと悲鳴を上げて藻掻いた。三人は変声期前の甲高い声で笑った。

 何か後頭部の大分内側に寄った箇所が熱を帯び、地面に突っ伏す男子生徒の背中を押さえる力を瞬時も緩めぬ上、無垢な声で笑う三人の笑顔が真横から射す落日に照らされた瞬間、熱が弾けて気付けば休憩所を飛び出していた。だが、充景の掣肘を受けた挙句、休憩所の中に引き摺り戻され、最奥の円卓を挟んだ腰掛けに押し遣られ馬鹿馬鹿しい現場に怒鳴り込む気概を挫かれた。敵は正面の野郎とばかりに胸倉を掴み、円卓に引き倒して活路を開かんとしたが、片手で遠くの肩を掴まれ腕が喉を圧して呼吸が困難で、眼前の彼の人差し指を立てた真剣な顔を見て腰掛けに全身を落とした。

 充景は休憩所の壁を乗り越え、蝉の住み着く樹木の枝に腕を伸ばし青葉を一枚頂戴し、山折り谷折り、所謂蛇腹折りで青葉を三等分すると、三枚に手掌を離れない程度に呼気を掛け、休憩所を出て公園を出て、公園を囲む鉄柵を挟んだ男子生徒達の背後に回った。彼が墓地と公園の間の砂利道で何をしたか皆目解らないが、苛々の募る中、只管現場を見詰めて居た時、三人が断末魔の叫び声を上げて跳ね回り、四肢を振り回して踊る様に駆けて公園を出た。蹲る男子生徒も顔を上げ、私も同様の間抜け面で三人の飛び出した公園の出入り口を眺め、晴れ晴れした顔の充景が戻り、私の隣に腰を落ち着けて大丈夫と言った。無論何が大丈夫、問題無しなのか知らないが、男子生徒達は身の毛の弥立つ光景を目の当たりにして逃げ出したのだろう。

「何をしたんだい」と私は惚けた儘尋ねた。

「一寸脅かした。葉っぱの欠片一つに就き一匹の蜂に見える、蜂に追われて逃げたのさ」と得意満面の充景は私の顔を覗き込んで続ける。「八重が行くと危ないし、君、彼らを煽る事しか言わないだろう。怪我してしまうよ」

 又々強張る肩の力を抜いて、嫣然として私を見遣る充景に言った。

「蜂に追われるのは御免蒙りたい」

「追い掛けられたら、俺が追っ払ってあげる」と充景は笑みを深めた。

 私は未だ茫然自失の男子生徒の心身の状態が心配で、声を掛けようか逡巡し、充景に手を引かれ断念する。椅子を離れた尻を直して壁の向うの樹木の枝葉の青色を見て、一枚ご提供下さった木に目礼した。

「何故、馬鹿げた事をするかね。今から他者を蹴落とす社会人の世界を学ぼうと、勤勉な学生の振りか」

「どちらかと言えば、学校や家庭で溜めたストレスの発散じゃないかな」

「世の中不足無くても差別は起こる、何気無い言葉が、実は差別的で、言った当人にその気は無くとも、心底は差別していたりする」

「余り分別無く言うと、差別的、と言うだけで差別している事になり兼ねない。も少し考えないと」と言って充景は椅子の上で膝を抱えた。

「何故、馬鹿げた真似をするかね」と私は繰り返したが特段意味は無い。

「ストレス発散、勉学からの逃避、学校内での階級社会。何故そうと言われても、集団には同年代でも上下関係が出来て、上の者が未熟だと下の者を威嚇する事しかしない」

「何だかなあ」

「先憂後楽、と言うけれど、自分が先に楽しんで、憂いは他者に押し付ける、憂いの解決は面倒臭いしね」

「責任逃れ、と言うね。そう言う奴は、誰かに責任を押し付け、逃げ果せようと馬鹿をする」

「責任て、重大な何かを成し遂げんとする際は、責任者が必須だけれど、だからこそ重大な何かが失敗した時の重圧が凄まじいのだろう。責任は重いよ。当然、重くなければ責任ではないけれど」

 地平線が暮れ、二人慌てて家路に就いた。


 三

 村の畑の作物を表の筵に広げ天日干しにして乾物を作り、突兀たる樹木の樹冠が東雲の朝日を浴びて青々と輝き、朝餉の支度を教える湯気が人家の屋根の穴から昇り風に流れ、村人達が家を這い出し、一日の仕事に取り掛かる。薄青の気配の残る森の見当から畑裏の一家の親父が私の家に来て父の所在を尋ね、中で朝餉の支度に追われる長姉が不興顔で表に出て、今出ている、後で報せる、と言って追い返した。畑裏の一家は異形の童子やその両親同様、村の不都合な存在らしく酷く疎まれ、昔父と懇意だった一家の親父は未だに我が父を頼りに顔を見せる。父と長兄は嫌な素振りを見せぬが他の子供は嫌がり、私は家族相手に顔を顰める兄弟の許で育った為畑裏の一家も嫌いでない。一家の親父はそれを諒解して遣って来る。

 長姉が追い返し、又朝餉の支度に戻って竈の火を見て、大嫌いな私に家族を呼ぶよう言付け、畑仕事や他の仕事に出掛けた家族を捜して朝餉の整った旨を伝え、最後に呼んだ父と一緒に家に帰った。大根の煮物に粟飯を食べ、後片付けは次姉の仕事で、私達は各々外仕事に繰り出した。本日の私の仕事は枝集め、他筵に広げた乾物擬きを紐に括り軒先に吊るす、以上が任務だが前者の方が重要視される。後者は気付いた家族が勝手に括って吊るす可能性もあった。

 森の下陰の深い所で手頃な枝葉を集め、纏めて背負い、背負えるだけ背負ったら一度村に取って返し荷物を降ろし、又森に繰り出し枝葉を集める。時節柄薪に使える枝葉は少なく、仕事は捗らず、参ったと頭を掻き毟りつつも仕事の手を休める愚は犯さない。

 そうして二度三度往復した頃、畑の向うの木立の手前に子供の集団を認め、その中心に蹲る黒色の一塊に仰天した私は石を投げて子供達を追い払い、痛む箇所が複数あって身動きの取り様が無い異形の童子の脇に膝を突いた。畝を蹴飛ばし逃げ惑う子供達の悲鳴を背中に聞きながら、泥塗れの童子の顔を覗き込み、肩を掴んで起こすと前歯が欠け、上唇から下方が真っ赤に染まって温かな水が頤に滴った。童子は頻りに、痛い痛い、と喚いて涙を流し、袖口で頤の鮮血を拭って遣り、口の両端の血を拭こうと、人差し指と中指を揃え着物の袖で覆って一方の口の端に添え、触れるか触れない内に童子が痛いと絶叫した。無理矢理口の両端を拭いて、欠けた前歯を樹木の根元に見付けて拾い、集めた枝葉を降ろして動く気配の無い童子を背負い直し、彼の家を目指しえっちらおっちら畑の隅を行く。

 森を背にした童子の家が見え出し、表の大根の簾の前に屈んで作業する母親が足音か童子の泣き声を聞き付け、体格の大差無い私が背負う様を認めて悲鳴を上げた。大事な一人息子の顔中真っ赤の姿は、小鬼を産んだと罵詈される彼女の心中を一層複雑にしただろう。狼狽気味の母親に背中の童子を抱き取って貰い、家族の悲鳴に、家の裏の別の作業場を飛び出し鎌を構える父親が顔面の真っ赤な我が子を見るなり兇器の鎌を取り落とした。二人の案内で家の奥にお邪魔し、童子の口元の手当てを横目に、土間の屋内の中央に延べた筵の上の薄汚い物体に目を瞬かせた。鼠色の薄衣の塊が蠢いき、真っ白の小枝が虚空を掻く所で、母親の方へ目を遣ると童子の妹だと言った。身重の母親は、村に知られぬ儘出産を終えていた。

 貪婪な好奇心を発揮して薄衣の嬰児の顔を見せて貰う事になり、寝そべる嬰児を抱いた母親は険しい顔付きで私を見遣って、童子と同じく接して頂きたい、と改まった口調で言うので少しく嫌な予感を抱くも頷いた。膝を進め傍に寄る母親の腕の薄衣を見詰め、頭に視線を感じて顧みると、歯の欠けた箇所を布で押さえる童子と目が合い、瞬間、青味を帯びた銀色の双眸の奥の憂鬱を看破した私は彼の妹の容姿を察した。果たして母親の腕に収まる嬰児の容貌は凡そ人の物とは思えぬ程の、実に形容し難い有様だった。敢えて言うなら、まず、茶の濃い金茶色の頭髪の童子だが、妹は新雪の如く真っ白の頭髪で、童子の銀色の双眸と違った雨後の青空の如く真っ青の双眸で、色白だが色のある白の童子とは矢張りこれも異なり、真っ白の肌が、ともすると薄紅色に見える。

 正直見た直後は本物の小鬼かと思い、咄嗟に半身を引いて目を瞬かせ、背後の童子の着物の裾を引っ張って新雪の眩しい雪景色を髣髴させる妹の容姿について、君の妹の様に思えないと直截に言った。彼自身も思う所があるのか、情けない顔で首肯し、血を被った後拭い切れないかの様で一寸不気味だ、と呟き乾いた頬を手掌で拭った。両親の方は息子の時の経験を活かし村の誰一人に告げる事無く子供を産み、予想に違わず異形の嬰児で、腹に居る頃から予感していた事と双方諦観の体で育てる意志を示した。諦観と表するは無礼に値するが、徒人の私の目線で真っ白の小鬼を顧みると、いっそ異形の誕生を享受した方が心安いのだろうと思った。親の気持は、子供の私の思考の埒外にあり、自身が親になる日迄解る日は来ない事が、その日に解った。

 私は再度真っ白の嬰児を見下ろし、暫し見詰め、段々嬰児の白が可愛く思い出して、真っ白の兎が居ると聞くから、馬の様な顔の人間も居るし猿の様な顔の人間も居る、そう考えて白兎の様な人間が居ても不思議でないと思い直した。童子に耳打ちすると、途端彼も呵々と笑い、一頻り笑った後は涙目で深く頷いた。

 童子の家を辞して枝葉を降ろした畑に戻り、元の儘の枝葉を掻き集め、森に踏み入って季節外れの薪の枝葉を拾って束ねて背負い、背負える量を確認して一度家に引き返す。屋根の見える少々の上り坂を駆け、頂上を越えて緩い勾配を下り、今朝方広げ回収を待つ筈の、表の筵の作物達は次姉の手で紐に括られ、軒先に簾の様に吊られていた。

 真っ白の嬰児と初の対面を果たした数日後、黄色い朝暾の背高の樹木の樹冠の向うに昇る様子を眺め、朝餉の支度に右往左往する長姉の言付けで外仕事に出た家族を嘯聚し、一家団欒は私の存在で敵わぬが、平素変わらぬ顔色の父親が居る御蔭であるが、別段不穏な雰囲気なる事も無く恙無く朝餉は終わる。村の者達総出の外仕事があるとかで、父親と長兄長姉が出払い、家を預かる次姉が乾物の処理を自任し、次兄は畑仕事に出て、私は又薪集めを命ぜられ、不承不承道具を背負って森に駆け込んだ。枝葉を程良く集め一度目の帰宅で次姉に枝葉を纏める縄を貰い、二度目の帰宅で又貰い、三度目で今日は沢山あるねと言われた。その日は何故か沢山集まり、あるんだよ、と首を傾げて三度の往復の収穫を見遣って眉根を寄せた。

 四度目の枝葉集めに森の草藪を割って驀進し、村を囲む森を大分深く行った所に冷水の潺々と流れる小川があり、草藪を割る事に夢中の私は遠く小川に迄辿り着き、気持良く流れる水音に喉の渇きを覚えて水を頂戴した。両の小指の辺を合わせ冷水に浸し、皮膚に染みる冷涼な水気を堪能しつつ腕を持ち上げ、掬った分の水を飲み干す。喉の内側を氷塊が滑り落ちる様な感覚に身震いして、ふと小川を挟んだ指呼の間にある草藪の下陰に薪に丁度良い枝葉を見付けて、一人集めた今日の収穫量を誇りに思った。

 小川を飛び越え枝葉を纏めて背負うと、長く大儀な筈の帰路が楽しく思われ、軽快な足取りで草藪に作った道を辿った。行きは草の根を掻き分け歩を進める事が第一で、帰りは一歩でも家の近くへ戻る事が第一で、目的地は正反対だが、進むと言う目的に変わり無く、只管前へ進み、又耳朶を掠める鋭い悲鳴に眉宇の動くのが解った。次いで遠方の草藪の見当に届くのが不思議な程の、鈍く重い音が響き、反響する様な類の音でない事は確かだが、可笑しな音が断続して自身の血の気が引くのを感じた。まだ道の無い草藪を蹴る様に、踏み潰す様に道無き脇へ反れ、灌木の根元に蹲る黒色の塊の顔と思しき箇所の赤色を、異形の童子への仕打ちに怒り心頭に発して最早意地の境地に達した仲裁の石投げを慣れた手付きで従前通り行い、蜘蛛の子を散らす様な無様な逃げっ振りの子供達を睥睨する。肩で息をして、五月蠅い胸を宥め、滅多に聞かぬ苦痛を訴える甲高い悲鳴を発した童子の赤い項を回顧し、涙の滲みそうな目を素早く拭って息を吐いた。

 早く顔中滴る鮮血を拭いてやらねば、と私は股を引き上げ背丈の高い草を踏み潰した。

 何だかなあ。

 もう良いや。

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