変わった話
一
夏休みの入る幾日前か、隣の市と私の住む市の境目の街で同じ通り魔事件が二件連続し、その内容もあって液晶画面を睨む皆の顔付きも険しくなった。一件目の概要は、被害者は近所に住む三十代の主婦で、買い物を終えた彼女は帰り道の信号を渡り、小学校の前を通り掛かった時、突然背後から襟首を掴まれ引っ張られ、悲鳴を上げて抵抗を試みると刃物で団子に結った髪を切り落とされたそうだ。二件目は、矢張り同市に住む高校二年生の男子生徒で、軽音楽部に所属する彼の頭髪は大変長く、普段髪を高く結っている、ある日下校途中に駄菓子屋の前を通った時、突然横から襟首を掴まれ髪の毛を切られた。幸い被害者の二人に頭髪を切られた以外の怪我は無く、時期が夏休み直前ともあり、警察による周辺の巡回を増やすと言う対応を取っている。犯人の容姿は不明瞭で、誰も不審者らしい不審者に心当たりが無いと言う。捜査は行き詰まっている、と複数の報道番組で観た。
朝食の真っ最中に薄気味悪い話を観たと苦々しく思い、目線を逸らして塩胡椒で味付けた玉子焼きと白米を頬張った。赤味噌の味噌汁の飲み、具を掻き込み、壁掛け時計を見て矢庭に席を立ち、食器を流し台に置いて二階の自室に駆け上がり、学習机の上の桃色のランドセルを引っ手繰って階段を駆け下り、出掛けの言葉を茶の間の家族に聞こえる大声で言い、通り魔の報道を観た後の家族は一層硬い声音で、行ってらっしゃい、と言った。運動靴の踵を直し、桃色のランドセルを背負い、見る度顔を顰める少女然とした色に嘆息した。この桃色を選んだ幼稚園の頃の自身が恨めしい。幼い私は桃色が好きで、塗り絵等では桃色が真っ先に無くなったが、年を経るに連れ、桃色より緑色や黒色が好きになり出した。御蔭で今のランドセルの色が気に食わない。
ランドセルの他、手提げ鞄を一つ持つのが、当時の女子小学生の間で流行り、私もランドセルの色に合わせた緋色の線が一本走った手提げ鞄を持ち歩いた。中は教科書や筆記用具、体操着や割烹着を入れ、肝心のランドセルの中身はノートやリコーダー等の軽い物許り入れていた。
私の通う小学校の通学路は、件の男の子と密会を重ねる公園の神社に向かう道を、踏切を越えた後の大きな十字路を真っ直ぐ進み、又信号機の設置された大きな十字路があってまだ真っ直ぐ行く。小さな十字路を左折し、直進する事約二百メートル、右手に背高の正門が見えて来る。平均身長の少し上位の背丈の私の足は特別速くない、特別遅くもない、小学校高学年だった頃の登校に要する時間は四十分前後、学校が始まる八時前に着けば万事宜しいから大体七時前後に家を出る。今日は時刻の確認の段階で七時十九分だった。両親祖父母も画面の向うの報道記者に夢中で、時間に気付かず、私も気付かなかったが、到着時間が八時五分前になった。建付けの悪い教室の後方の引戸を開け、目が合うと同時に列の最後部に座る友人がお早うと言った。
自身の席に着き、教科書等を抽斗に仕舞い、ランドセルは教室の後方の壁際に並ぶ扉の無い木製の戸棚に押し込む。大半の同級生がこの戸棚をロッカーと呼ぶが、極少数の同級生は単に棚と呼び習わし、私も棚と呼ぶ方が適切に思われ、小学校の六年間後方の戸棚は棚と呼び続けた。私の席は棚に一番近い、男女で机をくっ付け三列にした列の窓際の最後部で、椅子に座った儘手が届く。但し私の戸棚は、横長の棚の真ん中辺りにあるので余所様の戸棚に用は無いから席の位置に少しく不満を抱き、担任の先生の気紛れで行われる席替えの日が待ち遠しかった。
八時丁度、鈴が鳴って中途半端の禿頭が哀愁を漂わす担任の先生が教室前方の引戸を開けて入られ、教卓の横に立って出席簿を置いた。黒板の向って右端に何月何日日直誰々と書かれており、男子の日直が起立、礼、と言う。教室に居る生徒一同、異口同音にお早う御座いますと言い、日直の着席の一言で椅子に座った。朝の挨拶の後、先生のお話が始まり、今朝の報道番組で取り沙汰される隣市の連続通り魔事件について、夏休み直前と言う事もある為、又事件が隣の市と言う比較的近所で起こった事も踏まえ、下校は完全下校の放送の前に、余り遅くならない程度に帰るよう繰り返し言われ、教室の生徒の顔を順繰りに眺める先生は苦く笑って出欠確認を始めた。
窓際の席の最も窓に近い席は男子生徒が居て、彼は頬杖を突いて窓の外の校庭、或いは学校の敷地と人家とを隔てる金網の向うの雑木林の樹冠を眺め、報道迄された事件の凶悪さと夏休み前の注意事項を述べる先生のお話は端から聞いていないのだ。教室中を見遣り彼以外の生徒の顔を瞥見し、生徒各々俯き加減に机上に出した筆箱の陰で落書きしたり、堂々と落書きしたり、頬杖を突いて天井を仰ぎ見たり、指を組んで蛙や犬や他色々の物を作ったり、好き放題に暇を潰して誰一人真面に取り合わない。先生も諒解済みの体で出欠確認を取り、名簿に印を付け、朝の会合が終わる。五分程の小憩を挟み、壁に貼った巨大な時間割表を見て一時間目の授業、算数の道具を出して鈴が鳴り響き、授業が始まった。
退屈を極めた学校生活も給食と昼休憩は楽しく、友人達と今朝の報道番組の通り魔事件を語り、被害者は二人頭髪が長く縛っている、予め頭髪を短く切って犯人が切る余地を無くせば良い、と授業中に妙案を閃いたと興奮気味の友人が身を乗り出す様に言って、改めて切る余裕の無い頭髪の場合は頭か首を直に切られるのではないか、と別の人が容喙して議論は白熱した。昼休憩の終了を告げる鈴の余韻の、耳の奥に縹渺と残る余韻を聴きながら着席し、隣席の生徒が捕まりゃ皆同じよと呟く横顔を一瞥した。相手の頭皮の透けて見える坊主頭に視線が留まり、窓を全開にして通気を良くする努力を重ねても尚暑い、日盛りの獰悪な光線を浴びて噴き出した汗がビーズの如く光り輝いていた。
学校の時間も過ぎて下校時間になり、放送委員の曜日担当の生徒数名以外は案外早く下校し、私も周囲の顰みに倣い通学路を途中まで逆行して公園の神社の賽銭箱の裏に身を潜める。だが、賽銭箱の裏の階段には先客が居て、件の男の子が人形染みた茫洋とした面持ちで腰を掛けていた。紹介が遅くなり申し訳ないが、彼の名前は安藤充景と言う。戦国武将か随分渋い名前で、聞いた当初は苗字で呼んだが、当人の希望で名前を呼び合うに始まり、今日の密会を重ねる仲に発展した。日焼けを知らぬ漆黒の頭髪が羨ましく、見事な艶と頭部に掛かる白い輪っかを見て、これ程綺麗なら自身も髪を伸ばす長髪主義になるが、生憎量が多く傷み易い髪質の私は短く切って掻き毟る主義だ。長髪を結ぶ事も容易でない艶やかな髪質の男子生徒が大変妬ましい。
充景は無傷の黒色のランドセルや荷物諸々を腰掛ける段の一段上に置き、荷物を持ち帰る為に下校時が大荷物になるこの時期、荷物が賽銭箱の陰を食み出し、日の直撃を受けて帰ろうと御輿を上げた頃に持つと咄嗟に手を放す程熱くなる。日陰の確保に難儀する季節故、致し方無しと往生して日向も構わず荷物を置く。私は未だ抽斗を持ち帰っておらず、終業式前に持ち帰る心積りだったので、本日漸く抽斗を抱え、上に手提げ鞄や体操着や割烹着を載っけ、何処かの競技場の観客席を歩き回る売り子の様に、腕の疲れに目を瞑って抱える恰好で帰路に就いた。社殿の縁の下の地面が剥き出しの所に置いて、定位置の階段に座り、定例の話し合いを始めた。
「そう言や」と私は学校での友人達と交わした議論を充景に披露した。
彼は曖昧に笑って言った。
「髪を切る妖が居る」
「そんな訳の解らない妖怪が居るのか」と私は感心した。
彼は笑みを引っ込め、夏の暮色の迫る明るい空を見詰めて言う。
「昔は、皆髷を結っていた。だから、その妖に、髷の部分だけ切られるんだ」
「何故、髪を切るのだろう。髪集めが趣味なのかな」
「髪には力が宿る。長い髪の毛先の方は、随分長い付き合いじゃないか、力も溜まって行く」
「昔の人は髪が長い」
「権威の象徴みたいな所があった。髪は大事にされていたよ」
「長い方が長寿とか、色々ありそう」
突然呵々と笑った充景は、鳩尾を押さえ咳き入り、肩で呼吸しながら段々落ち着いて、深く息を吐いてまだくすくす笑う。
「切る、と言う事は、縁起が悪いとよく言われる。大事な髪が切られりゃ、皆悪い事と思うね」と私は言って充景の顔を覗き込んだ。
「現代の人は、妖より人間を疑う」と彼は私の目線に合わせて上体を傾げた。
「事実人間の犯行だ」
「本当かな」
「だって、報道される事件の犯人は皆人間で、皆犯行を認めている。やった当人がやったと認める、妖怪を引っ張り出す必要は無い」
「勿論、妖が全て悪い訳ではない、しかし全てが人間の仕業と言う訳でもない」
「何だ、それ。面倒臭い話だね」
「妖は自分の遣りたい事に忠実だ、存在意義だもの。それで、心に隙間のある人間は、妖の影響を受けて悪事を働く事がある」
「宗教で言う悪魔が取り憑いたとか、呆れた事を言い出し兼ねない連中さ」
「まあね、はっきり言えばそうだろう。魔が差す、と言うし」
「卑怯者さ。見えない物に責任転嫁する」
「成る程」
「何が」
「見えない物なら文句を言って来ないし、幾らでも捏造出来る。信心深い人なら、或いは同情を寄せられ、犯人は無罪放免となるかな」
「卑怯者」と私は投げ遣りに言った。
「よく言うだろう、人は心に魔を飼う。心の隙間に飼う空間を作って、其処で育て、魔は飼い主を唆す。何故だと思う」
「解らない」と私は間、髪を容れず答えた。
少し間を空けるとか、と充景が呟き、見事な漆黒の頭髪を掻き毟って微苦笑を浮かべる。
「でも、まあ、考える時間はある」
「夏休みの宿題がある。あんまりないよ」
「夏休み以外もある」
「家でこんな事を考えない。君と話す時くらいだ」
彼は破顔一笑、一寸下方から私を見上げる体勢で言った。
「それは、嬉しいね」
笑顔や言葉の意味は丸で解らないが、それで本日の密会はお開きにして熱された荷物を背負い、又抱えて帰宅し、常の順序で眠りに就いた。
翌日、我が家で暗黙の了解か知らない同じ局の朝の報道番組を聞いていた時、学校でも騒いだ髪切り通り魔事件の続報が流れ、男子高校生が被害に遭った最後の事件から一日空けた某日、更に翌日、新たに二件通り魔事件が発生し、市民に警戒を呼び掛ける様な事を言った。今度の被害者は小学六年生の女子児童が自宅の数百メートル手前で長い頭髪を切られ、もう一人は四十代の会社員の女性が深夜の帰宅途中に長い頭髪を切られたそうで、一つ問題が発見された。女性会社員は最初の事件が発生した市と同じ市に住み、女子児童は私の住む市の、別の学区の子供だった。無論顔も名前も知らぬ相手だが、自分達の住む市に通り魔が遣って来たと聞いて良い気持はない、寧ろ不愉快である。顰めっ面で登校の準備を済ませ玄関に立った私に、母が自動車で送ると言うから、今日は送迎の車が道路に溢れるだろうと予想した。自動車に乗って通学路を窓外に眺め、果たして親の送迎車に乗って登校した児童で溢れた正門前に私も降りた。
教室に入って友人達と集まり今朝の報道の内容を語り合い、又直ぐ鈴が鳴って各々席に戻り、日直の号令と共に朝の挨拶を言って着席する。生徒全員の着席を待って先生が口を開いた。
「皆知っての通り、近所の別の小学校の六年生が髪を切られる被害に遭った。犯人が近所に居る可能性がある。もう直ぐ夏休みだが、なるべく外出は控え、家で過ごすように」
不満の声が教室中に上がり、不満は解るが、と先生が溜息交じりに制し、大半の生徒が黙るが愚痴を叫び続ける男子生徒が一人二人居て、彼らの頭を鷲掴みして沈黙を促す。一同堪らず黙り、先生は言葉を続ける。曰く、登校日等の外出を余儀無くされる場合は出来れば家族の誰かに付き添って頂くよう。
外出自粛令が発布され、藁半紙の手紙を一枚配られ、その日一日の学校生活は不平を鳴らす生徒達が五月蠅かった。別段夏の長期休暇中の家族旅行を禁じられた訳でもないし、学校側に自宅での生徒の私生活を縛る権限は無い、拘束力は生徒一人一人の性格によって変わって来る。不満を露に愚痴を零す生徒達は、長期休暇中、外出自粛令を無視して遊び倒すに違いないが、先生達も巡回等の対策は練っていると思われ、それも例年より厳重になっていると考えられる。学校の教職員方、暑い中を大変お疲れ様です。
しかし私の中に問題がある。充景と会う日だ。夏休みの間ずっと会わぬのも面白くない、どうしようか知らと思案投げ首、結局神社で会って合議した結果、犯人逮捕の報道があった翌日の昼過ぎに会う約束を交わし、当分顔を合わす機会の無い友人との別れを惜しんだ。
二
終業式の翌日、即ち夏休み初日の朝、隣市と自身の住む市を股に掛け市民を聳動させた某通り魔の逮捕の報道が茶の間の人々を賑わせ、長期休暇の開始早々に事件が解決を迎えたので目を瞬がせた。逮捕のきっかけは被害者四人の証言らしく、四人共に頭髪以外の外傷も無く、殺人未遂より只の傷害事件と扱われる事が解り、又犯行の動機についても不明瞭で犯人の言動に一貫性が見られず、動機解明はまだ先の話と思われた。液晶画面の向うの女性記者の眦の小皺を見詰めて鼻を鳴らし、一旦目を食卓に遣って、朝食の昨日の晩御飯の残り物の天麩羅を齧りながら犯人の男性の憂鬱げな顔の映る画面に目線を戻した。三十代無職の男性と言うが、成る程無精髭は不衛生な印象が強く、無職の文字に説得力を与えた。
朝食の後は、暑い夏の日差しを総身に受けて往来を闊歩する気も起きず、二階の自室の空気調節を、湿度を下げる除湿に設定して以降廊下に出ない。我が家は二階建てで、庭の藪蚊の温床の雑木林の中の狭い池に鮒を三、四匹放していて、庭に面した二階の部屋の窓から雑木林の空白に池を認め、奥の見当は祖母の趣味の四季折々の花や野菜の畑が広がる。藤棚の様な棚もあり、其処にキウイフルーツが生る。棚の傍に小屋の様に小さいビニールハウスもあって葡萄棚もある。何でもある実家の庭の夏景色を眺め、家自体の大きさと庭の規模を比較し、何故庭が馬鹿みたいに広いか、皆目解らない。祖母の生家が農家で、つまり祖父は婿養子な訳だが、長女の祖母は本家の近所の土地を分与され、夫婦で住んで母が産まれ、と言う事は父も婿養子な訳だ。趣味か生まれた家の宿命か、邪魔臭い雑木林は放って置き、庭を耕し畑を作り、池に鮒を飼い出した。尤も鮒は親戚の誰かが不要だと言うので貰っただけで、飼うつもりで貰って来たのは、一階の庭に面した雑木林の手前に犬小屋を建て、其処に寝転がる柴犬だか秋田犬だか犬種は失念したが矢張り親戚の誰かから貰った犬が居る。名前をフジ、性別は聞いていない。
窓際の学習机を離れ、宿題の羅列された夏休みの栞の宿題の欄を見る気になれないで、普段蒲団を敷く畳に寝転び、電灯の長い紐の先の音の鳴らぬ鈴の鍍金の剥がれた表面に映る自身の阿呆面を睨み付ける。ふと思い立って御輿を上げ、電灯の木製の傘の松の模様を凝視し、枝と枝の重なる鋭角に黒い埃が溜まっているのを見付けて雑巾で掃除しようか悩んだ。学校で授業を受ける事に不満は無いが、寛ぐ可き自宅で予習復習等の自習に努める事は甚だ不快で辛抱ならない。一家の目上の人達は誰一人として私の心情に理解や同意を示さないが、昨今の緩い規則に緩い罰則の世で育った若者に、一昔前の厳格なる規則や罰則で縛られ叩かれ育った者の価値観を理解しろと言う方が無理難題であろう。逆も然り、厳罰が当然の世に生きた祖父母や両親が、緩み切った若者の心境を把握するのは難しい。価値観の変移は往々にしてある事で、時代が変わる毎に変わり、免れぬ事だ。では、何を思い立って電灯の傘の埃を気にしたかと言うに、それは夏休みの栞を開くも、表紙を見るも、学習机に並べた宿題の山を見るのも嫌で、目線を邪魔な物の山に移さない為である。
傘の掃除の為に準備する物は、新聞紙に脚立に雑巾に掃除機、内部屋を出る事無く用意出来る物は無い、雑巾は一階の洗面所に、新聞紙と脚立は家の東の納戸に、掃除機は居間の畳の部屋にある筈で、掃除の準備の為に汗をかくのも億劫に思われ、思い直して又寝転がった。畳の湿気を素肌に感じ、交換の時期かと眉を顰めるが進言しなければ畳屋に注文する事も無いから、この儘黙って家族の誰かが言い出す迄湿気を我慢しよう。畳の交換は七面倒臭い、だが障子紙の貼り替えも七面倒臭い。障子戸を外し、紙を濡らし爪で引っ掻き、割れた篦で木枠に残る紙を剥がし、乾かし、糊を塗って障子紙を皺の無い様貼って行く。幼稚園児の頃、又従兄弟の家の障子の貼り替えを手伝う機会があり、障子紙の筒を刀に見立て家の子とちゃんばらごっこをして遊び、家の人の雷が落ちた記憶が鮮明に残っている。紙屑の掃除も埃の掃除も、概して掃除は面倒臭く、成る丈避けたいものだ。同時に現実逃避の手段には打って付けの方法で、宿題を強制されると部屋の四隅の陰が気に掛かり、掃除機を持ち出し辺りを散らかし、無理矢理宿題以外の用事を作って片付ける。
私は夏休みの宿題の山と向き合う時間を、明日へ明日へと繰り越し、長期休暇の終了を目前に学習机に向かう事が毎年の恒例だった。無論今年も同様の末路を辿ると考えている。最早諦めの境地、と言うやつだ。
夕方に夏の長期休暇も関係無い父が帰宅し、宿題の進捗具合を尋ねるので観念して正直に本日の怠惰を告白すると、明日の朝食前、一時間許り学習机に向かうよう厳命され、毎年の夏休み終了直前の逼迫感漂う自室に籠もる数日間が、今年はもう少し楽になるかもしれないと思った。翌日早朝、午前六時に目覚め、学習机に向かい漢字練習帳を取り出し、数十或いは百数個の漢字を一つにつき十回ずつ、丁寧に書き取っていった。
父の帰宅の後、晩御飯が始まり、件の通り魔事件の続報が夕方の報道番組で流れた。祖父が近頃の若者は云々と愚痴を零し、近頃の若者で悪かったような、近頃の若者と一括りにする祖父の暴言に憤れば良いか、自身の気持が縺れて家族への言葉を濁した。常の順序の内、歯磨きと入浴を逆転させ、入浴を終えてから歯を磨き、順序を入れ替えた為に不愉快な気分の胸を撫ぜつつ、フジと仲の好い愛猫の茶虎猫の寅ノ助を抱いて自室に戻った。蒲団を敷いて扇風機を点け、出力最大、六時間で切れる設定で寅ノ助と共寝して、深夜午前一時頃、寅ノ助の高体温と呼気に蒲団の中が熱れて目が覚めた。寝汗が淋漓として顔面に滴り、蒸し暑い蒲団も構わず胴体も四肢も好き放題に伸ばし、丸で野生を感じさせぬ愛猫の寝姿に腹が立ち、白い腹を撫で回し、寝言か寝息か判然しない音を立てる様を見て、再度扇風機を点けて寝直した。
翌日に国語の宿題の漢字書き取りを少し進め、朝食の後も半分迄続け、正午に祖母が庭仕事を中断して昼食を作った。御飯の完成の前に私は階下え下り、お勝手の祖母に手伝いを申し出て、食器を卓袱台に並べるよう言い付けられた。調理中の手元を覗き込み、湯気で火傷を案じた祖母に急かされ箸を人数分、食器棚の抽斗の上の空袋の文字を見て、昼食のお素麺を楽しみに食器を盆に載せて茶の間へ向かった。
昼食のお素麺は濃い桃色の麺や緑色の麺が真っ白の麺の山に輝いて、私は桃色の麺が好きで、白濁した氷を三個麺汁の入った硝子の茶碗に入れ、目立つ色鮮やかな麺を探して箸を山の中腹に突っ込んだ。大量の麺を持ち上げ、引っ掛けた分を茶碗に移し、桃色を探してちびちび食べた。
食事を終えると約束の時刻が迫る。壁掛け時計の長針を見遣り、貴重品の財布を懐に押し込み、夕飯の刻限迄に戻る旨を伝えて玄関を飛び出した。背中に祖母の声を聞き、公園の神社目指して道路を駛走し、走る間は問題無い暑さだが、足を止めた際の肌に張り付く着物と汗の滴る不快感を思い出して駆け出した自身を恨めしく思った。太陽が中天を越した油照りの猛暑日に全速力で駆ける私の姿は、往来を走る自動車の中の運転手や助手席、後部座席に座る人達はどう思われるか、冷房の効いた車内で車外の歩行者を眺めて優越感でも覚えているか知らないが、苦痛を感じる猛暑の中を行く私は自動車の冷房が羨ましい。
神社の境内の手前の鳥居を潜った時、今正に賽銭箱の裏に潜ろうとする充景の背中を認め、声を張り上げ駆け寄ると彼が振り返り、嫣然として手を振った。
賽銭箱の前に立って、私が先に言った。
「久し振り」
「久し振りだね」
と彼が応え、普段賽銭箱の陰で交わす会話を日向で交わし、揃って大汗をかきながら話に興じた。
「犯人、捕まったね」と私。
「うん。でも、本当に終わるか、それは解らない」と充景。
「何だい、愉快犯の心配かな、仕様がないよ、いるもんだよ」
「何故、ああ言う人が出るか、其処を突き止めねば」
「無理だろう。だって、犯人は、ストレスでやったとか、何とか」
「何故、ストレスだったのか」
「何が」
「何がストレスだったのか」
「さあね。親か周りの人か、友達か」
「皆、人だね」
「ひとって、人、人間の事か? 社会は大変ねって話じゃないのかな」
鳥居が石畳に陰を落とし、不恰好な鳥居の陰の色は日の強さを表す様に濃く、地面の色と陰の色の境界が明瞭で見ていると眩暈がするようだった。此処まで全力疾走して来た私の顔色を気にした風の充景は、人様の腕を掴み賽銭箱の上で下方に引き、私を賽銭箱の縁に座らせた。まさか賽銭箱を腰掛け代わりにする日が来るとは思わず、仰天した私は慌てて立って大量の汗を石畳に滴らせ、その汗の量か飛散した汗か判然しないが、何か機嫌を損ねた風の充景が賽銭箱を腰掛けに腰を掛け、そうして私も諦めて隣に座った。其処で暫く、と言っても僅か数日間だが、顔を合わさなかった数日間の出来事を語らい、互いに話せなかった時間を埋めていった。
不意に充景の顔に剣が滲み、私の肩を掴むと矢庭に立ち上がって腕を取り、遮二無二引っ張って社殿の裏の松林の下陰に駆け込んだ。突然の暴挙に言葉もないが、尋常ならぬ顔付きを見て胸騒ぎを覚える。暑さを煽る、と言うと矛盾がある気がしてならないが、一層汗の噴き出す熱風が吹き荒び、松の枝葉を揺さぶり足下の木陰が踊り、耳も目も賑々しい松籟の波の中を、充景に手を引かれる儘走った。線路と神社を隔てる石塀に突き当たり、塀沿いに塾の見当と反対の方向に走り、方向転換の際に後方の人影を認め、その人物の握る物に目を見開いた。凶悪な陽光を反射して、燦爛と輝く曇り無い物体は、目算で刃渡りを測る事は出来ないが園芸用か日曜大工用か、将又図画工作等に用いる物か、兎に角入手の容易そうな鋭利な刃物を持った男性が子供二人を追い掛ける。
誰何する間も無く逃げ惑う私達は石塀の角に追い遣られ、刃物の尖端を向けられて膝が笑い出し、自身を背後に庇う充景の着物の裾を握り締めて、細い肩越しに相手の男性の顔を盗み見た。多量の細かい出来物の所為か頬は福々しく、反対に体格は華奢に見え、季節外れの長袖を着た男性は血走った目で眼前に震える子供に刃物を突き付ける。悲鳴を上げ公園で遊ぶ子供達の保護者に危機を知らせようか、石塀を乗り越え線路の向うへ逃走範囲を広げるか、最も怪我無く目の前の危難から逃げ果せる方法は何か、恐慌に陥った頭で、文字通り死に物狂いで考え、しかし考え付く前に男性が行動に出た。
凡そ人間の動きと思われぬ所作で間合を詰め、一歩或いは半歩で充景の鼻面まで詰め寄った男性の腕が撓り、白刃の尖端が彼の前髪を掠めた。額を捉え、深く抉る筈の一撃を避けた充景は、反らした上半身を戻す事無く捻って、自身は体術等の体捌きに詳しい訳ではないが上段回し蹴りの要領で片脚を振り上げ、小学校高学年の男子児童の蹴りが刃物を持つ男性の手に当たり兇器は斜め後方に吹っ飛んだ。格闘技が趣味特技であると言う話は聞いた覚えが無く、単に身軽であったと考えた方が後々七面倒臭い話を避けられる。私は充景の超人的動作を身軽と言う言葉で済ました。その超人充景は仰け反った男性の横に滑り込み、体勢を崩した所を寸毫の容赦も無く蹴るか押すか、動作が速くて目が追い付かないが相手の頭部が手前に垂れ、背後に回った充景の手で地面に突き倒された。物の数分で終わった逃走劇に腰が砕け、私はその場に頽れて、突っ立っつ勇ましき児童を見上げる。
心中の窺い知れぬ顔付きの充景は人差し指と中指だけを立て、後の指は折り畳み、繊細な顎に立てた指を近付けて何やら呟くらしい。蒸し暑い風が松の枝葉を揺らし、潮騒に似た葉擦れが境内を占め他の音響を聞き取れず、御蔭で充景の言葉も聞こえなかった。只口元が動き、耳慣れぬ事を言っている、と言う事実だけを察して、彼の手が動き指先の行方を追い、袈裟懸けに軽く振り下ろされた指が解ける瞬間風が止んで蝉の声が耳に付き出した。その時漸く風音以外の音が無かった事に気付き、仰天して周囲を見回すが、既に身辺は無用な程の音響に溢れ耳を塞ぎたい気持になった。煩わしい蝉の声に混じって公園の見当から人声がして、駅の見当から踏切の警告音や笛の音が聞こえた。
すっかり元通りの周囲の様子に狼狽した私は、足下に突っ伏して意識混濁に陥り、四肢を投げ出し微動もしない男性の後頭部を見遣って、救急車を呼ぶかと充景に尋ね、首を振って却下されて目を瞬かせた。理由を問う前に彼が腕を取り、賽銭箱の裏に引っ張り込み、息を殺して松林の奥の石塀付近に倒れる男性の気配に耳を澄ますらしかった。
社殿の階段の一番下の段に腰を掛け、賽銭箱の角の金属で覆われていない縁に額を預け、後頭部の毛髪を暴力的な日光に焼かれつつ、蝉時雨の中で人様の足音を聞き分けてじっと待った。疾うに中天を越した太陽は、正直地元でも東西南北の感覚は判然しないが昇った太陽の沈む方角は常識的に考えて西側なので、黄色い様な真っ白い様な斜陽は地平線上の空を白っぽく、人々の頭の真上の空は濃い青色に、軈て西への傾斜がきつくなる頃、白っぽい空に暮色が見え出した。落日に浮かび上がる鳥居の影を見詰め、大分経った頃充景に無言で着物の裾を引かれ、肩越しに顧みると、建物の簀子縁と言うのか只の廊下か濡れ縁と言うのか、名称を知らない歩廊を囲む欄干の向うに人影を認め、階段に身を寄せる様な体勢で松林の下陰の人影の行動を注視した。
木陰を這い出て全天を仰ぐ人影は、先の男性で間違いない。男性は惚けた顔で四辺を見回し、頭を掻き毟り、溜息を吐くと観念した様子で鳥居を潜って、公園の人声を避ける風に直ぐ塾の建つ鉤の手になった角を曲がった。本来鳥居を潜り短い階段を下りた直後の人様の行方は知れないが、神社の前に設置される石碑の前は、松の枝葉が張り出した小道が塾の建つ方に伸びていて、駐車場が境内の樹木の間隙から隠見する。だから神社を出て塾の方に行けば、境内に居ても男性の後ろ姿を見る事が出来た。
頼りない後ろ姿が駐車場の向うの建物に隠れる迄見届け、見えなくなった時、無意識に強張っていた肩の力を抜いて階段に寝転がった。汚いとかは考えない、とてもそんな気分ではなかった。
「何、又あれかい、あれみたいなのかい?」と私は早鐘を打つ心臓を宥め賺して隣の充景に問うた。
彼は曖昧に笑って首肯した。
「びっくりさせて、御免」と充景は心底申し訳なさそうに言った。
「君が謝る必要は無い。私は君に助けられた、これで二度目だ。で、あれも、前みたいなのなんだろう」
彼は一度頷いて言った。「妖、妖怪、妖異だね」
階段で起き直って彼の俯き加減の顔を覗き込み、憂いを帯びた横顔に胸が閊える気がして、背中を撫ぜてやると彼が顔を上げて微笑んだ。不細工な笑顔を繕う元気や余裕が回復し、階段から立って賽銭箱に体を凭せ、目線が下の私を見下ろして続けた。
「色々の言い方がある。種は細かく分ければ異なるが、大まかに言えば皆妖異と言える」
「ああ、怖かった」
「八重、君に怖い思いをさせて、俺は悔しいよ」
「君が居なけりゃ、私は死ぬか大怪我をしていた。あれ、妖怪なの?」
私の素朴な疑問に彼は破顔すると、緩慢に腰を屈めてその場に座り、無礼も不敬も無く賽銭箱に凭れて膝を抱える。膝小僧に顎を乗せ、丸めた背中を尚丸め、中途半端に長い黒髪の所為で顔が翳って不健康に見えて、答えを聞く時間すら惜しく感じて早く帰ろうと言いたくなった。私が言うより早く、彼は口を開き、素朴な疑問に答えてくれた。
「前に言った、髪切り、と言う名の妖怪だ。今は殆ど見ないが、昔は髷を結ったから、男女関係無く襲われた。髪を切られると変死する、と言われて恐れられた…らしい」
「でも、今の、人間だった」
「妖異って、昔は実体を持って行動出来たんだ。でも、現代は昔と違い実体化出来る程の力を持てない。神様は信仰がある、信仰心を糧に力を揮う、だから人心が離れると力を無くす。よく言うだろう」
「言うかな。漫画とか、物語だとよく聞くね。現実でもそうなんだ」
「うん。そして、妖は、人の恐れる心を糧に力を揮う。勿論、人の恐怖の対象が具現化されたものもあるけれど、それは、妖が先か、恐怖が先かの問題で、徒人が気にする必要は無い」
「妖が居て、妖の存在に恐怖して、その恐怖心が妖の糧になる。何か怖い物があって、怖い物を恐れる心が妖になって、矢っ張り恐怖心を糧にする」
「そうそう。でね、現代の人に妖怪云々と言っても、皆遊園地とかのお化け屋敷を怖がっても、実際に妖怪の話しをしても、しんから信じる人が居るかい」
「居ないだろう」
「居ない。つまり、妖を恐れる心が無い。人心が妖からも離れているんだ。では、妖異が存立するに必要な人心をどうやって集めるか」
「さあ?」
「現代人は、皆、何を恐れる」
「…地震雷火事親父?」
と此処で充景は呵々と笑い、私は大真面目に言ったつもりなので、笑われて非常に腹が立った。解り易い不機嫌面をしていたのか、私の顔を見た充景が声を引っ込め、居住まいを正して咳一咳、又言葉を続ける。
「そうだな、人、人間を恐れる。人間社会も広がり、昔の村単位の付き合いも無くなり、都会では隣人に挨拶も無い事が黙認され、挨拶無しでも村八分になる事も無い。まあ、子供社会の、特に学校なんかは、まだ村を一つのクラスと見做して、村八分とかはあるね」
「社会って、国際問題とか、そう言うの?」
「人間社会の視野は広がった。人付き合いの仕方が変わり、人々の目は、妖より隣人の一挙手一投足に向くようになり、人は隣人を恐れる様になった。人の恐れる心は、人に向き始め、闇に巣食う妖を顧みる事も無くなった」
「成る程」
「でも、妖だって生き残ろうと試行錯誤を繰り返す。形を変えて、現代の妖は、人間社会に潜り込んだ。今度の通り魔事件も、髪切りと言う妖怪が、隣人の様子を恐れる、心に隙間も持つ人の、その隙間に入り込んで唆した訳さ。人を襲え、やってしまえ、って」
「じゃあ、逮捕された人の所為じゃない?」
充景は緩く頭を振って否定した。
「先刻の人の様に可笑しな動きが出来る程度に妖怪の力が表に出て来るけれど、唆され、実行したのは、結局その人自身だから。心を強く持てば、妖異に魅入られ、惑う事も無かった。言っては難だが、今度の通り魔事件の犯人は、自分に負けた、そして人間社会の罪を犯し、人間社会の法で裁かれる」
「先刻の人、あの人は?」と私は瞠目して樹木の隙間に見える建物を振り返った。
「取り憑いていた妖を祓った。深く入り込まれていても、力を揮う時は浅い所迄出て来る、取り憑かれて間も無いみたいだし、白昼夢を見た様な、暑さでやられた様な、そんな術も掛けたから、あの人は俺達の事を憶えていないよ」
私は溜息を吐いて階段の踏面に座り直し、尻の尖った部分が痛んだ。階段の最後の段に立って、達磨の様に体を丸めて膝を抱え、非常に暑いが尻の痛みを我慢して座り続ける気力が払底し、足首が疲れる姿勢で尻の痛みを取る事を選んだ。
賽銭箱に凭れる充景は石畳の上に尻を置くものだから、自身より一層痛むと思われ、実際我慢の限界だったようで、又立ち上がって賽銭箱に体を寄り掛からせた。神様の貯金箱に凭れる度胸に感心し、ふと自身の居る場所を振り返って、自分も大差ないと苦々しく思った。
「人は殖えた。現代の人は、隣人を恐れ、隣人を恐れる心を糧に妖が生きる。昔の人が恐れた夜道、現代の人はその夜道で何を恐れる、自分を傷付ける人間を恐れる、夜の闇に住む妖でなく、人間を恐れるんだ」
「先刻の人は、最初の相手が君だった訳だ」
「うん。運が良かった、俺だから、あれで済んだ」
「人の法で裁かれなくて良いの?」
充景は夕焼けを背景に、日で翳った顔に一等不細工な笑みを湛えて言った。
「あの人は、又憑かれだろう。俺は妖異を祓う術を知っていても、妖異を招く原因を払う術は持たない。あれは、あの人が、自分自身に打ち勝たねば、いつ迄も終わらない」
と言葉を結び、知らぬ間に回収したらしい、何処に仕舞っていたか知らない兇器を取り出し、抜身の切っ先を頭上に翳して嘆息した。一見繊細な彼は、実は恐ろしく強い。私が彼と出会った時も助けられ、その出会いを契機に密会を重ね、一方的の感は否めないが段々友情を抱く様になった。
運命の初邂逅の日を想起していた時、落日の照り返しに目を射られ現実に意識が戻る。悍ましい輝きを放つそれの柄を握る先の男性の顔を思い浮かべ、御多分に洩れず私も他者の狂気に恐怖を禁じ得ない。
まあ、よくあるネタです。
妖は人間の怖い行動の中に居る、と言うやつ。