兄と妹
インフルで妄想がはかどります・・
「は、離せ、俺をここから下ろせぇ」
「こっちだって好きでお前の汚い体さわってんじゃねえっつうの」
そう言うとお兄ちゃんは、片手で久保田を廊下の壁に投げつけた。
久保田は顔面から壁にぶつかり、ぐしゃっと言う音を立てて床にずり落ちた。お兄ちゃんはくるっと振り返り、わたしのところへ歩いて来た。
「お兄ちゃん……来てくれたんだ」
お兄ちゃんはわたしに自分のジャケットコートをかけてくれた。
「カミラ、背中が丸出しだぞ」
「はあ? 背中じゃねえから。丸出しになってるのはちちでしょうがち・ち」
「うそ? まったいらだから背中かと思った」
そう言うとお兄ちゃんはケラケラと笑った。許さん。明日の夕飯ににんにくたっぷりのハンバーグを振る舞ってやらんと。
「減らず口も叩けるみたいだし、思ったよりは元気みたいだな。ほら立てるか……」
ドン、と言う音がした。
お兄ちゃんの背後に久保田が立っていた。手に持ったナイフが、お兄ちゃんの背中に深々と刺さっている。
「あ……クソが、やりやがったな」
「はああああ。ざまあみやがれ、小野無頼! カッコつけて背中なんか見せてんじゃねーよ。お前のことは一目見たときから、いつか殺してやろうと思ってたんだ。頭の中はスッカラカンな癖に、見てくれだけで女にモテやがってよ。心配すんな。お前の妹もたっぷり遊んでやったあと、お前と一緒に地獄に送ってやるからさ!」
「あああっクソ」
お兄ちゃんの顔がゆがんだ。
久保田はナイフをさらに押し込んだ。壁に叩きつけられた顔は、鼻がつぶれ前歯が折れている。それでもニヤニヤ笑っている。まさしく悪魔のように。
「俺のお気に入りのセーターに穴開けやがって!」
「あ?」
「これイギリスで買ったくっそ高い奴だぞ。プリングルってブランドの。プリングルズじゃねえぞ!」
「なに言ってんだ、オマエ? もう死ぬんだぞ? こりゃ内臓までとどいてるからなあ!」
「だからどうしたんだよ」
お兄ちゃんは体をひねると、久保田の顔面を思いきり殴りつけた。
久保田はまた壁にまでぶっ飛んだ。きっと歯が総入れ歯になってしまうほどの威力で。
「な、なんで死なないんだよ。お前は化け物か!」
丸腰になった久保田は、四つん這いで逃げようとしながら言った。
「化け物はお前だろうが」
お兄ちゃんはそう言うと、自分の腰に刺さったナイフを手に取った。
「いいか、昔っから世の中では、お前みたいな気持ち悪いサイコパスの化け物はどこにでもいる。ロンドンのジョンヘイ、ドイツのペーターキュルテン。アメリカにも日本にもいる。そういうただのシリアルキラーが現代の吸血鬼とか呼ばれてる。こっちとしてはいい迷惑なんだよ。本来ヴァンパイアっていうのはイケメンで紳士なんだからな。なんでかわかるか?」
四つん這いのままお兄ちゃんの方を見た久保田は、言葉が理解できないでポカンとしている。
「なんだよ教師のくせにそんなことも知らねえのか。だから受験のための勉強ってのはダメなんだって。いいか? ヴァンパイアは自ら招待された者の家にしか入れないんだよ。お前みたいなクソレイパーと違うんだ。和姦しかダメなの! だから長い年月の優生学の結果、ヴァンパイアは美と知を兼ね備えた完璧な者になっていったんだからな」
お兄ちゃんが近づくと、久保田は這って逃げた。その背中をドシンと踏んで動きを止める。久保田は「たすけてくれ」とうめいている。
「もう長講釈は終わりだ。妹に手を出そうとするわ、俺のセーターに穴開けるわ、本当に最悪の教師だったな。どういう生活したらこんなふうになるんだろうか。まあ来世ではもっと真人間になれよ」
お兄ちゃんはナイフを振り上げた。
「死ね」
「やめて!」
わたしの声にお兄ちゃんは振り向いた。
「人は殺さないって……約束したでしょ」
「わかってるよ」お兄ちゃんはナイフを放り投げた。「カミラが止めるだろうなってことくらいは」
そして、足の下からはい出そうとしている久保田の後頭部をつま先で蹴った。前のめりにバタリと倒れる。どうやら気絶したらしい。
「ちょっと脅かしただけさ。俺だってこんなクソ野郎の血で汚れたくないしな。でもこんな奴、ガチで殺しといた方がいいぞ。刑務所から出てきたってどうせ同じようなことするだろうし」
「それでもいいよ。裁くのは私たちの役目じゃないんだから。それに……わたしはお兄ちゃんに約束を守ってもらいたいだけだから」
「はいはい、わかりましたよ。優等生のカミラちゃん。んで、この状況はどうしようって言うの?」
「警察に電話します」
「うわっ、めんどくせー。あっ今日帰ってお前に借りた化物語のDVD見なきゃ行けないんだわ。吸血鬼物って聞いたから、そうそう勉強のために」
「あ、あいつに蹴られたお腹が……」
わたしは痛い『フリ』をした。とうぜんお兄ちゃんは心配そうに近づいてくる。そこで両足をぎゅっと羽交い絞めにした。
「可愛い妹とアニメのどっちが大事なんでしょうかね?」
◆
警察の取り調べは10時過ぎに終わった。
最初は高圧的で、まるでわたしとお兄ちゃんが犯人かのような取り調べをされたのだが。
しかし途中で副学長が来て警察とこそこそ話し合うと、急に態度が優しくなった。そしてすぐに帰ってもいいと。うちの学校の宗教団体には、なにやら得体の知れない力があるらしい。
副学長(小柄でメガネをかけ髪の薄い見るからに中間管理職と言った感じの)はわたしに今回の事は外に漏らさないようにと言った。他の生徒が混乱するからとかなんとか。
わたしは別に誰にも言う気はなかった。
とにかく、もうくたくただから早く帰りたかっただけだ。
口の中は切れてるし、後頭部にはたんこぶが出来てる。とにかく帰りたいので医者は断ったけれども。
取り調べ室から出ると、お兄ちゃんが待ってくれていた。
「はよ帰るぞ」
「うん」
外に出ると10月も終わりの深夜の風は、だいぶ冷たくなっていた。
お兄ちゃんは穴の開いたセーターだけ。ジャケットコートはわたしがぶかぶかのまま、前が見えないように一番上のボタンまで閉じて着てしまっている。
「ねえ、お兄ちゃん。おんぶしてくれない?」
「ああ? なんでそんなこと。疲れるだろうが」
「いいでしょ。くっついてた方があったかいし。それにわたし、あの変態教師にぼっこぼこに殴られてるんだからね。根性で立ってるけど、実際は足元もおぼつかないかんじなんだから」
わたしはふらふらとよろけるそぶりをした。お兄ちゃんは仕方なさそうに中腰になってくれた。大きな背中に手を回して飛び乗る。寒風で冷たくなった鼻を、お兄ちゃんの暖かい首元に押し付けた。
「おいやめろ! つめてええ!」
「ふふ」
お兄ちゃんの背中に揺られて帰る、月も雲に隠れた真夜中の時間。人々は眠り、闇を愛する者が動き出す時間。ヴァンパイアたちが動き出す時間。
「なんで俺の妹なのに、あんなやつくらいぶっ倒せないんだよ」
お兄ちゃんが言う。
「だってわたしは普通の人間だもん」
「普通たって、超ド級のおふくろの血は一緒なんだから……」
「ねえ、お兄ちゃん。今日は飛んで帰ろうよ!」わたしはお兄ちゃんの言葉をさえぎって言った。
「あ? 嫌だわ。おまえ人を乗せて飛ぶのなんてめっちゃ疲れるんだぞ。それに50キロオーバーの物なんて持って飛んだことないわ」
「はあ? 40キロ台ですぅ。いいじゃん真夜中で誰も見てないから、こんなときくらい。もう5年くらいお兄ちゃんの背中に乗せてもらってないんだから」
「ああ、もう大サービスだからな。もうこんなことしてやんの最後だぞ!」
そう言うとお兄ちゃんは、わたしをおぶったまま横にあったマンションの壁を駆け上がり始めた。
「ちゃんと捕まってろよ」
ビルを垂直に駆け上り、あっという間に最上階にたどり着く。
そしてそのまま屋上を風のように駆け抜け、8階のマンションの淵から一気に舞い上がった。
わたしたちは深淵の闇の中に放り出された。
風を切る音。なびいたお兄ちゃんの髪がわたしの頬にちくちくとあたる。
いつの間にか、お兄ちゃんの両腕はコウモリの羽に変貌している。
闇の中を巨大なコウモリが滑走していく。
誰もいない街の空を飛ぶこんな気分は、普通の人には味わえないんだろう。
だからこんな時は、普通じゃなくて良かったって思う(普段は大変なことが多いんだけど)。
わたしのお兄ちゃんが、闇の支配者ヴァンパイアで良かったって。