主役登場
主役がようやく登場します。
「ここかなぁぁ?」
久保田が一番奥のドアを空ける音がした。
そこでわたしは一気に飛び出した。
目の前には誰もいない。
トイレの入り口を走り抜け、がむしゃらに階段を目指した。
わたしが隠れていたのは男子トイレの入り口側の個室だった。
壁1枚へだてた女子トイレの音は良く聞こえ、あいつの行動は手に取るように分かった。
あの変態ヤローは必ず『女子トイレ』に隠れたわたしを見つけようとするだろう。そこで一番奥まであいつが動くのを待てば、男子トイレの入り口付近にいることで数秒の余裕を持つことができる。
その時間があれば、わたしの脚力で逃げ出せるはずだ。
南側の階段まではすぐにたどり着いた。
3段飛ばしで一気に駆け降りる。
上から何か落とされるかもしれない。石? ナイフ?
不安を振り切って夢中で走った。緊張で過呼吸になり、肺が焼けるように熱くなった。
1階に付くと電気は消えていた。非常口の緑の灯りだけがぼうっと浮かんでいる。
久保田の奇声はだいぶ上の方から聞こえる。かなり引き離すことができたらしい。
もし正面玄関に鍵がかけられていたとしても、開けて逃げるくらいの時間はあるだろう。南側の階段から降りたので、その少し先に菊池先生の死体があるはずだが、そっちは見ないようにした。「逃げろ」と言ってくれた先生のためにも、すべてを振り切って逃げないと。
正面玄関ホールが見え、そこはステンドグラスのイエス様ごしの月明かりが地面を照らしている。
まだ追いついてくる気配はない。わたしは逃げ切ったんだ!
そう思ったとき、わたしの視線は天井を向いていた。
したたかに後頭部を固い地面に打ち付けた。
一瞬で世界が全て反転したかのように、目の前がぐるぐると回った。
息ができなかった。喉が焼けるように熱い。痛くて苦しくて、涙がぽろぽろこぼれ出した。
手で喉を抑えたかったけれど、頭を打ったせいか手が思うように動かなかった。
わたしは気絶してしまうのかもしれない。
いったいなんでこんなことに?
もう少しで外に出られたのに……。
「ピアノ線は痛いだろう?」
久保田の笑い交じりの声がした。もうわたしの顔の真横に立っているようだった。
「ここの廊下をもしかしたら先に行かれるかもしれんと思って、ちょうど首くらいのとこにピアノ線を通して置いたんだよ。ここをお前が走り抜けようとしたら、きっとびーんってなるだろうなって思ったんだ。そしたら案の定だ。びいいいいんってなってたな。面白くって笑いが止まらねえな! すべてが俺の思い描いた通りになってるんだから。神のおかげだ。神の見ているその目の前で、俺たちの愛を証明することができるんだからなあ。アーメン!」
久保田は胸の前で十字を書くと、下卑た笑い声をあげた。
そしてうつぶせに倒れたわたしの腹に、どかりと座り込んだ。
わたしは苦しさで咳き込んだ。
だけど体がすこし動くようになったので、その反動で奴の顔にツバを吐いてやった。
奴はそのツバを手で拭うと、わたしに思い切り平手打ちした。2回。3回。
そして髪をつかむと、廊下にガンガンと叩きつけた。
涙と痛みで視界がぼんやりしていた。わたしは、血まみれで髪がぐしゃぐしゃになった悪魔のような顔に向けて思わず言ってしまった。こんなことを言っても奴は喜ぶだけと分かっていたのに……。
「もうやめて……わたしに痛いことしないで……おねがい」
奴は笑った。シンバルを叩くサルのおもちゃみたいに、手を打ち鳴らして爆笑した。
悔しかった。
でも死にたくない。
こんなとこでぜったいに死にたくない。
「先生おねがいです……わたしを家にかえして」
「小野、おまえは本当にかわいいなあ! 一緒に天国に行こうと思ってたけど、俺の家でペットとして飼ってもいいんじゃないかと迷うくらいだよ!」
奴はわたしのブレザーとブラウスにナイフを当てると、一気に引き裂いた。
わたしは叫ぼうとしたけれど、お腹に全体重をかけられたので声が出せなかった。
「おい小野、スポブラなんかしてんのか! 本当にかわいいやつだなあ。小さなおっぱいに色気もなんにもねえけどなあ。俺が揉みまくって大きくしてやらないといかんなあ。それで突いて突いて、擦り切れるほど突きまくって、お前に色気を持たせてやるよ。やっぱりなあ天国に行くのは先送りにすることにしたぞ。お前を俺の家に持って帰って、完璧な女になれるように調教してやることにした。それからでも遅くないからな。神にはちょっと待ってもらうことにしような。アーメン!」
わたしは目をつむった……。
もう何も見たくなかったから。
菊池先生、ごめんなさい。先生にはいつもお前は諦めるのが早いって怒られてたのに。
最後の力を振り絞ってわたしに逃げろと言ってくれたのに。
でも、もうだめなんです。
苦しいし、痛いし。もう何でもいいから早く終わってほしい。
目を開けたら、家のベッドの上で実はすべてが夢だったんだとなってほしい。
目をかたくつむっても、鼻から入る錆びた鉄のようなにおいがこれは現実だと思い知らせて来る……。
ふと体が軽くなった。
お腹に乗っていた重しが取れたような感じ。
もしかしてわたしはもう刺されたんだろうか? 魂が抜けて、ふわふわと空に飛んで行ってしまうのだろうか?
「血のにおいがすると思って来てみりゃ、こんなことかよ……」
わたしはもう死んだんだと思った。だって今一番聞きたい声が聞こえたんだから。ここは天国で、自分が思っていたことが起こる世界に来てしまったんだって。
「このクソヤローが、誰の妹に手を出そうとしてやがんだ。童貞ハゲメガネキモデブブタオッサンがよ」
違和感を感じた。
天国にしては言葉が汚すぎる。
いつもの……いつもの大好きなお兄ちゃんそのままだったから。
わたしは目を開けた。
「おにい……ちゃん」
お兄ちゃんは久保田の首をつかむと、左手1本で高々と持ち上げていた。
「よおカミラ」
黒いジャケットを身にまとい、黒ずくめで闇と同化したお兄ちゃんは、わたしににっこり微笑んだ。闇の中では見えないだろうって? そんなことない。わたしは世間が知らないお兄ちゃんの全てを知っているんだから。わたしの兄、小野無頼はこんなとき誰よりも頼りになると知っているんだから。
「待たせたな」