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はい、バリアー! 無敵でーす!  :約6500文字 :子供

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/10/12

「○○菌つけたー!」

「うあっ!」

「はははっ!」


 ある日の昼休みのことでした。朝から降り続いていた雨はいっこうに弱まる気配を見せず、窓ガラスには絶えず雨粒が打ちつけられていました。厚い雲に覆われた空は、まだ昼過ぎだというのに夕方のように薄暗く、校庭には水たまりがいくつもでき、湿疹のように広がっておりました。

 普段なら昼休みのチャイムが鳴った途端に外へ飛び出していく男子たちでしたが、この日ばかりは教室に閉じ込められて、暇と元気を無駄に持て余していました。

 そんな中、ふいに始まったのが例のふざけ合いだったのです。

 たしか、きっかけはほんの些細なことだったと思います。誰かの小さな悪意から生まれたちょっとした思いつき。そしてそれに乗っかった小さな、小さなつむじたち。ただ、それだけのことでした。

 ある生徒が、クラスの中でなんとなく気持ち悪がられていた生徒に触れた手を『○○菌』と呼び、別の子にこすりつける。菌をつけられた子は、また別の誰かに触れてなすりつける。そうやって教室中を逃げ回りながら、その生徒の名字を冠したまったく科学的根拠のない架空のウイルスを互いに移し合うという、まあ、どこの小学校でも見かけそうな単純な遊びでした。

 けれど、そんないじめまがいの遊びが、まさかあんな奇跡を引き起こすことになるなんて、いったい誰が予測できたでしょうか……。


「はははは! 返すー!」


「はい、バリアー! 無敵でーす!」


 タッチされそうになった向井くんは、両腕を胸の前で交差させ、高らかに宣言しました。

 バリアを張れるなんて、近未来の設定なんでしょうか。もっとも、これもよくあるお決まりのやり取りでした。ですが――。


「残念、バリア貫通ー! ――あああああっ!」


 菌を持った男子は、何の迷いもなく笑いながら向井くんの腕へ手を伸ばしました――そのときでした。

 突如、教室の窓ガラスを震わせるほどの悲鳴が響き渡りました。騒がしかった教室は一瞬にして静まり返り、クラス中の視線が一斉に二人へと集まりました。そして次の瞬間、悲鳴は教室を押しつぶさんばかりに広がっていきました。

 タッチしようとした男子の指の爪が根元からめくれ上がり、今にも剥がれ落ちそうになっていたのです。

 まるで硬い壁に激突したかのように反り返った爪の隙間から血が滲み、指の腹を撫でながらぼたぼたと垂れ落ちて、床にひとつ、またひとつと赤い斑点を作っていきました。

 いったい何が起きたのでしょう。向井くんはただ両腕を交差させていただけだというのに。それと、ただ一言こう言っただけです。「バリアは無敵」と――。

 ええ、そうです。彼の手はバリアを貫通することができなかったのです。

 そうしてあの日、教室の中にも身の毛もよだつような冷たい雨が降り注いだのでした。



 ◇ ◇ ◇



「バリア解除……解除……」


 それから二週間が経っても、向井くんのバリアは解除されないままでした。

 自分の席でうつむきがちに「解除……解除……」と小声で呟き続ける彼に、話しかけようとする子は誰もいません。

 先生でさえ、いつしか授業中に向井くんを指名しなくなりました。国語の時間、順番に教科書を読むときも向井くんだけ飛ばします。出席確認の点呼の際も、“当たり障りのない”調子で名前を呼ぶのでした。

 触れられない――たったそれだけのことが、周囲から彼への“接触”そのものを遠ざけてしまっていたのです。

 どうしてこんなことになってしまったのでしょう。大人たちにもわからないことが、生徒たちに、そして向井くん本人にわかるはずもありません。きっとこれは神様が起こした奇跡なのでしょう。たとえそうでなかったとしても、科学で説明のつかない出来事は、神様に答えを預けておくのが一番ですからね。

 あの事件が起きた日の夜、政府関係者を名乗る人たちが向井くんのおうちを訪ねてきたそうです。

 なんでも、向井くんの身に起きた現象を詳しく調べたいと申し出たとか。きっと科学的に解明し、国防や兵器開発に役立てようと、意気込んでやって来たのでしょう。

 ところが、向井くんの体に触れることすらできず、結局バリアの正体も仕組みも何ひとつわからずじまい。政府の人たちは目立った成果を得られないまま引き上げていったそうです。

 彼がまだ小学生だったこともあり、マスコミには厳しい報道規制が敷かれ、この奇怪な事件が世間に広まることはありませんでした。そうして何日か過ぎた頃、向井くんは何事もなかったかのように、またクラスへ戻ってきたのです。


「ドッジボールやろうぜ!」

「しゃあ!」

「早く、早く!」

「誰か先、場所取り行けよ!」


 昼休み。いつものように男子たちがボールを小脇に抱え、教室を飛び出そうとしたそのときでした。


「……あのさ!」


 向井くんが椅子から立ち上がり、少し震えた声で彼らを呼び止めました。

 男子たちは同時に振り返り、ぴたりと動きを止めました。いいえ、男子たちだけではありません。クラス中の視線が一斉に向井くんに集まり、騒がしかった教室は一瞬で静まり返りました。


「……ぼくもいい?」


 向井くんは伏し目がちにそう尋ねました。


「……あ、いやー、その」

「向井はさ、ほら、無敵じゃん……」

「そうそう。ボールがダメになったら先生に怒られるしさ……」

「強すぎー……だからさ」

「バリアは反則っていうか……ね」


 男子たちは互いに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべながら逃げるように教室を出ていきました。

 向井くんは少しの間、その場に立ったまま教室の出入り口のほうをじっと見つめていました。廊下の向こうからは、にぎやかな声と足音が響いていました。

 やがて向井くんが無言で椅子に腰を下ろすと、教室には少しずつ話し声が戻ってきました。先ほどと同じ――いいえ。わざとらしいくらいに大きな声で話し、笑い、椅子を勢いよく引き、廊下へ飛び出していく。そんなふうに普段以上に騒がしく振る舞い、いつもの昼休みの風景を取り戻していったのでした。

 ただし、やっぱり誰も向井くんに声をかけようとはしませんでした。

 みんな、どうしていいのかわからなかったのです。そして、それはとても怖いことでもありました。わからないものがわからないまま、ずっと近くに存在している。それはまるで、ある日、自分の身体に染みや膨らみを見つけてしまったときのような気分だったのではないでしょうか。

 とはいえ、わかっていることもいくつかありました。

 向井くんが教室に戻ってきたばかりの頃、――まだ恐れられる前――興味本位で浴びせられる数々の質問に、答えてくれたのです。

 まず、バリアは向井くんの体全体をすっぽりと覆うように張られており、その範囲は基本的に体の周囲数センチほど。ただし、何もかも弾き返すというわけではないそうです。

 たとえば、ご飯を食べることはできます。なぜかはわかりません。でも、それをいうなら空気も通しているわけですから、それほど不思議なことでもないのかもしれません。

 椅子に座ることもできます。けれど、それは座面に直接触れているわけではなく、数センチほど浮いた状態で腰を下ろしているそうです。本人いわく、磁石の反発みたいに妙にふわふわと浮いているように感じるらしいです。

 鉛筆やお箸を持つこともできます。ただし、これも磁石の反発のように指先から少し浮いてしまうそうです。そのため、いつもよりしっかり握っていないと、すぐに落としてしまうそうです。あるいは、厚手の手袋を何枚も重ねてつけたまま物を掴んでいるような感覚らしいです。

 雨は通しません。傘を差さなくても、雨粒をすべて弾くそうです。

 トイレでウンチやおしっこをすることはできます。これもまた、どういう仕組みなのか本人にもわからないそうです。ただ、この件を調べようとした政府の人たちにお尻の穴をまじまじと観察されたそうです。

 そして何より、人間は誰も通しません。しかも厄介なことに、バリアの範囲も弾き返す強さも、常に一定というわけではありませんでした。


 ある日の休み時間のことです。廊下を歩いていた向井くんと、向こうからやって来た女子がすれ違おうとした、その瞬間でした。

 バン! と何の前触れもなく、女子の体は弾き飛ばされてしまったのです。

 女子はその勢いのまま壁に額を強く打ちつけ、その場に崩れ落ちました。

 向井くんのバリアに触れた腕は赤く擦り剥け、額の傷口からはだらだらと血が流れ出し、瞬く間に顔を赤く濡らしていきました。周囲にいた子供たちが一斉に甲高い悲鳴を上げ、廊下はたちまち騒然とした空気に包まれたのです。

 そしてその瞬間、向井くんが正義のヒーローとして喝采を浴びる未来は閉ざされてしまったのでした。


 ああ、なんとも不運な話です。よりにもよって、被害に遭った女子が少々ヒステリックな性格だったばかりに。

「顔に一生傷が残る」「傷口から変な細菌が入った」「腕の皮膚はもう元に戻らないかもしれない」などと後日、彼女が大げさに被害を語ったことで、クラスメイトたちは向井くんを避けるための格好の大義名分を手に入れてしまったのでした。

 その一件を境に教室の空気は一変し、完全に腫れ物扱いになりました。時おり、向井くんのほうから話しかけても、クラスメイトたちは素っ気ない返事をし、そそくさと離れていくのでした。

 そんな反応が返ってくることは、向井くん自身、きっと誰よりもよくわかっていたと思います。それでも、押し寄せる寂しさと募る不安から、声をかけずにはいられないのでしょう。そんな姿がいっそう痛々しく映るのでした。


 やがて向井くんは、昼休みになると誰よりも早く教室を出ていくようになりました。そして次の授業が始まるぎりぎりになってから、ようやく戻ってくるのです。彼がその間、どこでどう過ごしているのか誰も知りません。けれど、きっとその周囲に誰もいないことだけは確かなのでしょう。

 向井くんが教室からいなくなると、まるで水中からようやく水面に顔を出したように、わっと教室の空気が生き返るのでした。意識してそうしていたわけではなかったのでしょう。ただ、緊張から解放された喜びは抑えきれるものではないのでした。

 そんな異物を抱えた日々が少しずつ当たり前になっていきました。


 でも、ある雨の日の昼休みのことでした。


「○○菌ー!」

「ははは!」

「やめろって! ……あ」


 男子たちが例のふざけ合いを楽しんでいる最中でした。窓の外では雨が容赦なく降り続け、ぬかるんだ校庭には誰の姿もありませんでした――いいえ、正確にはただ一人を除いて。

 教室の中はいつも以上に子供たちのはしゃぎ声で満たされ、誰も彼も周囲のことなど気に留めていないようでした。

 そんな喧騒の中へ、向井くんがいつもより少し早く戻ってきたのです。

 教室の出入り口でぴたりと足を止め、両腕を体の脇に下ろした状態で、静かに室内の様子を眺めていました。先ほどまで雨に打たれていたはずなのに、その体には雨粒も泥も一滴たりともついていませんでした。

 やがて一人、二人と、クラスメイトたちが徐々に彼の存在に気づき始めました。

 笑い声は途切れ、遊びに興じていた男子たちはびくりと体を揺らして動きを止めました。

 その視線につられるように、教室にいた者は全員、彼のほうへ視線を向け、そして――誰もが息を呑みました。


 向井くんが笑っていたのです。


 それは、いったいいつ以来の笑顔だったのでしょう。誰かに話しかけるときでさえ、相手の反応を窺うように遠慮がちな表情を浮かべ、笑みといえば、卑屈めいた小さなものが滲む程度でした。


「ぼくも混ぜてよ」


 向井くんは、ふざけ合っていた男子たちのほうへゆっくりと歩み寄りながら、そう言いました。


「いや、なあ……」

「うん……」

「あ、ちょうど今終わったとこだから……」

「ははは……」


 男子たちは気まずそうに顔を見合わせ、ためらいがちに答えました。

 先ほどまでの賑やかな空気はすっかり失われ、ただこの状況を終わらせたいという焦りが滲んでいました。

 無理もありません。

 向井くんのバリアは雨を通しません。水も通しません。だから彼はお風呂に入ることができません。

 服を着替えることもできません。今着ている服をバリアの外へ脱ぎ捨てることもできなければ、新しい服を内側へ取り込むこともできないからです。

 だから向井くんは不潔で臭いのです。ええ、とても臭いのです。近くにいるだけで顔をしかめずにはいられないほど、ひどい臭いでした。そして残念なことに、バリアはその強烈な臭いを遮ってくれませんでした。

 だからみんな、向井くんがそばに来るたびに顔を背け、鼻をつまみながらその場を離れていくのでした。

 声をかけられた男子たちも、それぞれ自分の席へ戻ろうとしていました。

 ですが、そのときでした。

 向井くんが突然駆け出したのです。


 にこにこと笑みを浮かべていた彼が、何の前触れもなく床を蹴り、教室の中を駆けたのです。

 そして向井くんは、男子の一人めがけて両手を勢いよく突き出しました。


「タアァァァッチ!」


 それはひどく元気で、どこまでも子供らしい響きでした。それまでの孤独も拒絶も、まるですべて嘘だったかのように、無邪気で晴れやかで。

 ですが――タッチはできませんでした。


 バリアに覆われた向井くんの両手は、男子の体に触れることなく、いつもどおりその手前で見えない壁に阻まれました。

 そしてその瞬間、凄まじい衝撃が発生し、男子の体は弾き飛ばされたのです。

 男子は近くの机を巻き込みながら吹き飛ばされ、そのまま教室の壁に激突しました。椅子が床をこする音も机が倒れる音も掻き消すほどの、鈍く重い音が教室に響いたのです。

 男子はずるりと床へ崩れ落ち、もう二度と動くことはありませんでした。

 誰も声を出せずにいました。教室内はしんと静まり返り、ただ雨音だけが場違いなほどはっきりと響いていました。


 向井くんは床に倒れた男子をしばらく無言で見つめていました。彼はこうなることがわかっていたのでしょうか。わずかにうつむいたその表情を見た人は誰もいないので、彼の心情はわかりません。

 やがて向井くんはくるりと踵を返すと、弾かれたように教室を飛び出していきました。

 それきり、彼が教室へ戻ってくることはありませんでした。

 警察や政府関係者が行方を捜したそうですが何日経っても見つからず、生きているのか死んでいるのかさえ誰にもわかりませんでした。


 向井くんがいなくなってから時間が経つにつれて、教室の空気は少しずつ元に戻っていきました。

 ただ、あの『○○菌』という遊びだけは、二度と誰もやらなくなりました。学校側から禁止されたことも理由の一つでしたが、それ以上に、あの日の出来事を思い出したくなかったのでしょう。

 それでも雨の日になると、じめじめと湿った教室の空気に混じって、あの独特な臭いが蘇ってくる気がするのです。そんなとき、教室には言いようのない緊張感が漂うのでした。


 ただ、私は違います。雨の日になると、心がとても晴れやかになるのです。

 かつて私を菌扱いしたあの男子が、無惨な姿で床に倒れていた光景を思い出すとね。

 きっと、向井くんは恐れていたのだと思います。自分が次の標的になることを。『向井菌』にされ、みんなから避けられる側に回ってしまうことを。だから彼は心の底からバリアを願ったのでしょう。そして、その切実な祈りが神様に届いたのだと私は信じています。


 あれから数十年が過ぎて、私はようやく向井くんを見つけました。

 今、この布を取り、皆さんにお見せいたしましょう。

 深い山奥で、雨を、虫を、あらゆる菌を拒絶し続け、長い年月をかけて御神体となった彼の姿をどうぞ、その目でしかとご覧ください。

 そうです。これこそが神に選ばれし存在であることの証なのです。誰にも傷つけられず、何者にも侵されることなく、永遠に在り続ける。その崇高な姿はまさに、『無敵』という言葉そのものではありませんか。


 さあ、皆さん。両腕を胸の前で交差させてください。彼がかつてそうしたように、しっかりと腕を組むのです。神に選ばれし者を讃え、その偉大なる力を我らの信仰に刻むのです。

 さあ、ご一緒に。バリア教は無敵! 無敵! 無敵! 無敵ィィィィィ!

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