いないはずの人と、いるはずのない子
リュシアンが五歳の姿になってから、半日が過ぎた。
その間、アルヴェインは不思議なほど自然にその小さな狐を世話していた。
だが。
違和感がなかったわけではない。
食事を終え、執務室へ向かおうとした瞬間。
ふと、思う。
リュシアンはどうしている。
朝の挨拶をしていない。
いつもなら、静かに頭を下げる姿がある。
距離を保ちながらも、必ず。
アルヴェインは足を止めた。
そういえば。
寝室を訪れたとき、そこにいたのはこの子だけだった。
視線が腕の中の小さな狐へ落ちる。
今は自分の膝の上で、書類をじっと見つめている。
椅子に座らせると落ち着かないらしく、結局こうなった。
小さな体。軽い重み。温かい。
「……お前、どこから来た」
問うても、答えはない。
ただ、ぱちぱちと瞬きをするだけ。
その琥珀色の瞳に、なぜか胸がざわつく。
似ている。
誰に。
考えた瞬間、名前が浮かぶ。
リュシアン。
同じ色だ。
同じ、少し不安げな光。
アルヴェインは眉を寄せた。
馬鹿なことを考えるな。
あいつは大人だ。
今頃、部屋で休んでいるはずだ。
だが。
胸の奥が落ち着かない。
アルヴェインは側近に命じた。
「リュシアンの様子を見てこい」
しばらくして戻ってきた側近は、困惑した顔で告げた。
「奥様は……お部屋にいらっしゃいません」
空気が変わった。
「いない、だと」
「はい。外出の記録もなく……」
アルヴェインの瞳が鋭くなる。
屋敷内を即座に捜索させる。
庭、温室、図書室、客間。
どこにもいない。
胸が、冷える。
白い契約。
無理をさせるつもりはなかった。
距離を置いた。
それが。
追い詰めたのか。
まさか、出て行ったのか。
拳がきしむ。
そのとき。
くい、と袖を引かれた。
視線を落とすと、小さな狐が自分を見上げている。
不安そうに。
まるで、自分を心配するように。
「……」
その表情に、胸が締めつけられる。
アルヴェインは無意識に、その小さな体を抱き上げた。
「心配するな」
低く、優しく。
それは本当は、自分に向けた言葉だった。
リュシアン。
どこへ行った。
逃げたのか。
嫌われているのは、知っていた。
いや、そう思っていた。
あいつは、いつも一歩引いていた。
触れれば壊れそうなくせに、触れさせてくれなかった。
本当は。
番契約を結びたかった。
子も欲しかった。
あいつとの。
だが、子供が好きだと言えなかった。
噂が広まったのは、自分のせいだ。
昔、姪を抱いていたとき。
「子供は面倒だ」と冗談を言った。
それが尾ひれをつけて広まった。
否定する機会を逃した。
結果。
リュシアンは、子供を望まないと思い込んでいる。
すれ違い。
馬鹿だ。
本当に。
腕の中の小さな狐が、そっと胸に顔を埋める。
心臓が跳ねる。
小さな手が服を握る。
こんなにも素直に甘える。
「……似ている」
無意識にこぼれる。
「お前は、あいつに」
言葉を止める。
自嘲が浮かぶ。
大人のあいつは、こんなふうに甘えない。
甘えられないと思い込んでいる。
そうさせたのは自分だ。
アルヴェインは静かに決めた。
「見つける」
低く、確かな声。
「必ず」
だが同時に。
この子を放っておけない自分がいる。
不思議と、離したくない。
仕事中も、結局膝の上。
書類に手を伸ばそうとする小さな指を、やんわり包む。
「だめだ」
優しい声音。
小さな尻尾がぱたぱた揺れる。
その仕草が、愛おしくてたまらない。
おかしい。
なぜこんなにも。
守りたいと思う。
リュシアン。
どこにいる。
無事でいろ。
そう願いながら。
アルヴェインは、無意識に小さな狐の額へ口づけを落としていた。
「……無事でいてくれ」
その言葉は。
今、腕の中にいる本人へ向けられているとは、夢にも思わずに。
リュシアンは、胸がいっぱいになりながら思う。
この人。
子供嫌いなんかじゃない。
それどころか。
世界一優しい。
そして、世界一の勘違い夫だ。
溺愛の日々は、まだ始まったばかり。




