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ちいさな朝の大事件

目が覚めた瞬間、違和感があった。


視界がやけに低い。


掛け布団が重い。というより、布に埋もれている感覚だ。


リュシアンはぼんやりと瞬きをした。


白い天蓋。見慣れたはずの寝室。昨日泣き疲れて眠った、自分の部屋。


なのに。


手を持ち上げた瞬間、思考が止まった。


小さい。


指が短い。手のひらが丸い。爪まで小さい。


きょろりと周囲を見ると、寝台がやたらと大きく感じる。足を動かせば、ぶかぶかの寝間着がずり落ちた。


「え」


声が、幼い。


喉から出た音が高くて、軽くて、まるで子供のようで。


心臓が一気に跳ね上がる。


「え、え、え?」


慌てて起き上がろうとして、足がもつれて前につんのめった。


床までの距離が遠い。


ごん、と鈍い音がして、視界が揺れた。


痛い。


涙がにじむ。


でもそれ以上に、状況が理解できない。


鏡。鏡。


よろよろと立ち上がり、背伸びして鏡台をのぞき込む。


そこに映っていたのは。


銀に近い淡い金髪の、小さな狐耳の少年。


丸い頬。大きな琥珀色の瞳。


どう見ても、五歳くらいの狐族の子供だった。


「うそ……」


ぺたぺたと自分の頬を触る。


柔らかい。


耳を触れば、ふわふわしている。


尻尾まで小さい。しかも寝癖でぴょこんと跳ねている。


昨日までの自分は、どこへいった。


混乱で頭が真っ白になる。


魔法。


狐族は感情が高ぶると魔力が暴走することがある。


昨夜、自分は泣いていた。強く、強く願ってしまった。


もしも。


もしも、全部なかったことにできたらと。


この結婚も、片思いも、苦しさも。


そこまで考えて、青ざめる。


「も、戻らなきゃ……」


どうやって。


わからない。


魔力を練ろうとしても、体が小さすぎて制御が効かない。


そのとき。


廊下の向こうから足音がした。


重く、ゆっくりとした足取り。


狼族特有の、静かで強い気配。


心臓が止まりそうになる。


アルヴェイン。


こんな姿、見られたら。


説明できない。


混乱したまま扉を見つめていると、控えめにノックが響いた。


「リュシアン、起きているか」


低く、落ち着いた声。


だめだ。


返事ができない。


声が出ない。


沈黙が続いたせいか、扉がゆっくりと開いた。


金色の瞳が、部屋を見渡す。


そして。


小さな自分と、目が合った。


数秒の静止。


空気が凍る。


リュシアンは完全に固まった。


終わった。


どう言い訳すればいいのかわからない。


ところが。


アルヴェインは眉をわずかに寄せたあと、静かに近づいてきた。


「……どこの子だ」


低い声。


怒ってはいない。


むしろ困惑している。


リュシアンは反射的に一歩下がった。


足が短くて、よろける。


その瞬間。


大きな手が伸びてきた。


ふわりと体が持ち上げられる。


驚くほど優しい抱き上げ方だった。


「転ぶ」


低い声が、すぐ近くで響く。


近い。


胸板が硬くて、温かい。


狼の匂い。安心する匂い。


思わずぎゅっと服を掴んでしまう。


しまったと思ったときにはもう遅い。


アルヴェインの腕が、ほんの少し強くなる。


「怖がるな」


その声音は、甘い。


いつも自分に向ける事務的な声ではない。


完全に子供に向ける声だ。


「迷い込んだのか」


リュシアンは必死で首を振る。


けれど言葉がうまく出ない。


焦れば焦るほど、喉がひゅっと鳴る。


アルヴェインはしばらく観察するように見つめたあと、小さく息を吐いた。


「……狐族か」


そう言って、器用に自分の指でリュシアンの耳を整えた。


くしゃっとした寝癖を、そっと撫でる。


優しい。


あまりにも優しい。


「腹は減っているか」


こくり、と勝手に頷いてしまう。


アルヴェインの口元が、わずかに緩んだ。


「そうか」


そのまま抱えたまま歩き出す。


歩幅が大きいのに、揺れない。


安定していて、安心する。


胸がじんわり温かくなる。


あれ。


この人、子供嫌いじゃなかったの。


噂では、子供は騒がしくて嫌いだと。


番契約を望まないのも、そのせいだと。


なのに。


抱き方が慣れている。


視線が柔らかい。


尻尾が、わずかに揺れている。


「大丈夫だ。ここは安全だ」


低い声が耳元に落ちる。


鼓動が早まる。


これは、自分に向けられたことのない声。


五歳の姿だから。


子供だから。


わかっているのに、胸が締めつけられる。


食堂に入ると、使用人たちが目を丸くした。


「旦那様、その子は」


「迷子だ。屋敷で保護する」


即答。


迷いがない。


椅子に座らせられ、温かいスープが運ばれてくる。


アルヴェインは自ら器を取り、ふうと息を吹きかけて冷ました。


そして。


「熱い。ゆっくり飲め」


そう言って、スプーンを差し出した。


リュシアンの思考が止まる。


手ずから。


食べさせてくれるの。


震える手で口を開けると、優しくスープが流れ込んだ。


美味しい。


温かい。


涙が出そうになる。


アルヴェインはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「泣くな。嫌なことはさせない」


その言葉が、胸に刺さる。


自分に向けられたことのない甘さ。


でも今は。


今だけは。


この腕の中が、あまりにも心地いい。


リュシアンは小さな手で、そっとアルヴェインの袖を握った。


すると。


狼の尻尾が、はっきりと揺れた。


「……甘えたいのか」


低く、優しい声。


そして次の瞬間。


再び、ふわりと抱き上げられた。


大きな胸に顔が埋まる。


心臓の音が聞こえる。


強くて、規則正しい音。


その鼓動に包まれながら、リュシアンは混乱の中で思った。


こんなの。


こんなの、好きにならないわけがない。


知らなかった。


冷たい白い結婚だと思っていた相手が。


こんなにも温かいなんて。


そしてアルヴェインは、小さな狐の耳元で静かに呟いた。


「……不思議だな」


「お前を見ていると、あいつを思い出す」


リュシアンの心臓が、跳ねた。


それは。


自分のこと。


けれど、彼は気づいていない。


五歳の自分に向かって、本当の気持ちを零し始める。


甘くて、優しい日々の始まりだった。

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