第3話:沈黙を殺す、沈黙の「あっち向いてホイ」
「……何という醜態だ」
凍てつくような声と共に、評議会場の温度が数度下がった。
沈黙の主・タナトス。彼は世界の「静止」と「規律」を司り、無駄な感情の揺らぎを最も嫌う。彼の背後に控える監査官たちは、カップ麺の香りに包まれた神々を、汚物でも見るような目で見下ろしていた。
「パチンコに、ジャンクフード。アストラ、貴様は天界を低俗な泥沼に引きずり込むつもりか。この場にいる者すべて、千年間の『無言瞑想』の刑に処す」
神々が青ざめる。千年の沈黙は、神にとっても精神を摩耗させる苦行だ。
だが、アストラは平然としていた。それどころか、わざとらしく躓いて、タナトスの足元に「あるプラスチック製のハンマー」を転がした。
「……あ、失礼。手が滑りました。タナトス様、せっかくの沈黙を破ってまでいらしたのです。一つ、私と『神聖な沈黙の儀式』で勝負しませんか?」
「儀式だと?」
タナトスが眉をひそめる。
「はい。人間界の修行僧……もとい、子供たちが魂を削り合って行う、一瞬の判断と反射がすべてを支配する決闘。その名も、**『あっち向いてホイ(ヘルメス式改)』**です」
アストラは、タナトスにピコピコハンマーを、自分には洗面器を持たせた。
「ルールは簡単。指を向けられた方向に、反射的に顔を向けてしまったら負け。負けた者は、このハンマーで脳天を叩かれます。全知全能の貴方なら、私の指の軌道など、光の速さで読み切れるはずですよね?」
「……フン。思考の予測など造作もない。その慢心、ハンマーと共に粉砕してやろう」
沈黙の主が、冷酷な笑みを浮かべて構える。
監査官たちが見守る中、究極の「思考の読み合い」が始まった。
「最初はグー、じゃんけん、ホイ!」
あいこ。あいこ。
神々の間で、火花が散るような計算の応酬が続く。タナトスは全知を駆使し、アストラの筋肉の弛緩、視線の動き、過去一万年の癖を解析した。
(次は、右だ。アストラは右に指を向ける)
「あっち向いて――」
アストラが指を向けたのは、上。
だが、タナトスは動かなかった。完璧な予測だ。
「ホイ!」
しかし、次の瞬間。
アストラは指を動かす代わりに、「あっ、コーヒーこぼした!」と叫んで自分の足元を見た。
「……ッ!?」
タナトスの意識が、わずかに揺らいだ。
「全知」ゆえに、彼はアストラの叫びが嘘か真かを確認しようと、無意識に彼女の視線を追ってしまったのだ。
「ホイ!」
アストラの指が、タナトスの鼻先を捉える。
彼は完全に、アストラの指と同じ方向――下を向いていた。
「……あ」
ポコッ。
静寂の評議会場に、プラスチックの気の抜けた音が響いた。
全知全能の監査官が、ドジっ子女神にピコピコハンマーで叩かれたのだ。
「な……何を……。私は今、何をした……?」
「タナトス様。貴方は今、完璧な規律を捨てて、私の『ドジ』というノイズに寄り添ってしまったんです。……これこそが『あっち向いてホイ』の真髄。全知ゆえに、他人の視線や言葉に反応してしまう……人間的な『隙』を楽しむ遊びです」
タナトスは、叩かれた頭を呆然と押さえた。
彼の中にあった「完璧な静止」が、ピコピコハンマーの音と共に崩れ去っていた。
「……理不尽だ。全くもって不合理な。……だが、今、一瞬だけ……『次の瞬間に何が起きるか分からない恐怖』と、その後の『脱力感』が、魂を震わせた」
「それ、ドーパミンって言うんですよ」
アストラは、こぼれてもいないコーヒーのカップを掲げて笑った。
監査官たちは、主君の変わり果てた姿に困惑したが、タナトスはハンマーをじっと見つめ、呟いた。
「アストラ。……もう一度だ。次は私が、貴様の『こぼした』というノイズを読み切って叩く」
「えー、タナトス様、意外と負けず嫌いですね?」
その日、天界からは「沈黙」が消えた。
代わりに響いたのは、プラスチックの叩き合う音と、神々が「不条理」に敗北しては笑い転げる、人間味溢れる喧騒だった。




