第2話:三分の沈黙と、背徳の琥珀色
天界評議会場は、かつてない熱気に包まれていた。
知恵の神ソフィオスをはじめとするエリート神たちが、アストラが設置したパチンコ台の前に列をなしているのだ。全知全能の計算を裏切り続ける銀色の玉に、彼らは「予測不可能な報酬」という快楽を見出していた。
「……ふむ。アストラ、パチンコは理解した。だが、この『玉』は腹を満たさぬ。神には栄養は不要だが、魂に刺激を与える『実体』はないのか?」
ソフィオスが、大当たりで得た鉄球をジャラジャラと弄びながら問う。
私は、待ってましたとばかりに、法衣の袖から「プラスチックのカップ」を取り出した。
「さすがソフィオス様。では本日は、人類が到達した『待機と背徳の結晶』……カップラーメンをご紹介しましょう」
私は指を弾き、評議会の机の上に、湯気の立つポットと、色とりどりのカップを並べた。
「これは、乾燥した小麦の紐に、熱湯を注いで食すものです」
「……乾燥? 効率が悪い。最初から完成した状態で創造すれば済む話だろう」
軍神マルスが、退屈そうに鼻で笑った。
「いいえ、マルス様。この娯楽の神髄は、**『三分間、何もせずに待つ』**という非効率な儀式にこそあるのです」
私はポットを持ち上げ、カップに湯を注いだ。
その瞬間、私の手がわずかに震え、熱湯がアストラの指先に、そして隣にいたソフィオスの高価なサンダルに盛大に降りかかった。
「あっちちっ! ……あ、すみません。でも、この『うっかり』もまた、これから訪れる悦びへの前奏曲ですから」
「貴様の失態を美学にすり替えるな! ……む、だが、この香りは何だ……?」
カップの隙間から漏れ出す、化学調味料とニンニク、そして脂の混ざり合った強烈な匂い。
天界の「清らかなるエーテル」の香りとは対極にある、あまりにも**身体的**で暴力的な芳香。
「さあ、ここからが苦行です。三分間、ただ香りを嗅ぎ、空腹というノイズを脳に響かせながら、じっと耐えてください。全知全能の貴方たちが、最も苦手とする『無益な時間の経過』です」
神々は、無言でカップを見つめた。
一秒が永遠に感じられる。彼らは全知ゆえに、下界でこのラーメンを啜る労働者たちの情景、深夜の静寂、そして一口目の快感を脳内でシミュレートしてしまう。だが、シミュレーションは「手触り」を伴わない。
「……まだか。あと何秒だ、アストラ」
「あと百二十秒です。……あ、お箸を割るのに失敗しました。片方が細くなっちゃった。これもまた、人間らしさですね」
「……ええい、貸せ! 私が完璧な比率で割ってやる!」
知恵の神ソフィオスが、全神経を集中させて割り箸を割る。パチン。完璧な二等分。彼はそれだけで、宇宙の真理を一つ解き明かしたかのような達成感を顔に浮かべた。
「……三分経ちました。どうぞ、啜ってください。音を立てて、品性など捨て去るのが作法です」
神々が一斉に、琥珀色のスープに浮かぶ麺を啜った。
「ッ!? ……この、舌を刺すような塩分と、脳を直接殴るような旨味の暴力……!」
「身体に悪い、と本能が叫んでいる。だが、手が止まらん!」
効率と高潔を司る神々が、ズルズルと音を立てて麺を食らう。
全知全能の彼らにとって、それは「理解できないほどの下俗さ」と「圧倒的な幸福」の意味の再接続だった。
「アストラ……。この『のびる』という現象、そして『スープを飲み干してはいけないという禁忌』。これこそが、完成された美にはない、不完全ゆえの誘惑か」
ソフィオスは、最後の一滴までスープを飲み干し(禁忌を破り)、満足げに腹をさすった。
「はい。完璧な調和は美しいですが、飽きてしまいます。ですが、この『ジャンク』な刺激は、次に何が起きるか分からないワクワクを思い出させてくれる。……あ、ソフィオス様、お髭にナルトがついてますよ」
「……フン。これもまた、調和のノイズというやつだろう?」
ソフィオスは不器用な笑みを浮かべた。
天界の空気は、確実に変わり始めていた。
だが、その時。評議会場の扉が荒々しく開かれる。
「何をしている、愚かな神々よ!」
現れたのは、一切の娯楽を否定する「沈黙の主・タナトス」。
彼の背後には、天界の規律を正すための「監査官」たちの影があった。




