第10話:沈黙の神タナトスと、ビロードの聖域 〜ルノアール神学論争〜
渋谷の喧騒から離れた、喫茶室ルノアール。
深紅のビロード張りの椅子に、沈黙の神タナトスは深く腰掛けていた。
対面には、先ほどのアニメオタク――健太が、緊張した面持ちでアイスコーヒーをストローでつついている。
「……良い空間だ。この、過剰なまでに冷やされたおしぼり。そして、店員が定期的に水を注ぎに来る『沈黙の監視』……。規律を感じる」
タナトスは、おしぼりで顔を拭く代わりに、丁寧に畳んで「結界」のようにテーブルの端に置いた。
「あ、あの……タナトスさん、でしたっけ。さっきの話の続き、いいですか? めろんちゃんの『3話の作画崩壊』について……」
健太が切り出すと、タナトスの瞳に冷徹な光が宿った。
「……訂正しろ、健太。あれは崩壊ではない。『抽象化』だ」
タナトスは、スマホを取り出し、問題のシーン(めろんちゃんの目が点になっている場面)を表示した。
「見ろ。この時、彼女は主人公の裏切りを知り、感情の処理落ち(エラー)を起こしている。作画監督は、あえてディテールを捨て、彼女の『虚無』を表現するために、線を極限まで減らしたのだ。これを崩壊と呼ぶのは、人間の浅知恵に過ぎない」
「っ……! な、なるほど……! 予算不足じゃなくて、演出意図……!?」
健太が目から鱗を落とす。
「そうだ。神の視点(全知)で見ればわかる。このコンテを切った演出家の脳内には、『ムンクの叫び』のイメージがあったはずだ」
(※注:タナトスは全知全能なので、実際に演出家の脳内を勝手に覗き見ている)
「すげぇ……! アンタ、何者なんだ!? 考察班の神かよ!」
「……私は、死と沈黙を司る者。だが今は、単なる『めろんちゃん推し』の一柱に過ぎない」
タナトスは、注文していた「レトロプリン」にスプーンを入れた。
硬めのプリン。その揺るぎない弾力が、彼の規律心を刺激する。
「……健太よ。一つ、問おう。貴様にとって『推し』とは何だ?」
「え? うーん……生きがい、ですかね。彼女が笑ってると、俺も明日仕事頑張ろうって思えるし」
「……生きがい、か」
タナトスは、プリンのカラメルソースの苦味を味わいながら、遠い目をした。
「我々神は、人間に『生』を与える側だ。だが、このプリンのように、甘く、時に苦い『感情の揺らぎ』を与えてくれるのは、常に人間が生み出した虚構だ」
タナトスは、健太の目を真っ直ぐに見た。
「人間は、神よりも尊いものを創り出すことがある。……誇れ、健太。貴様が愛するその『尊さ』は、天界の輝きにも劣らない」
「……っ、うぅ……! なんか、めっちゃ良いこと言われた気がする……!」
健太が感極まって泣き出し、店員が困惑して新しいおしぼりを持ってきた。
その時、タナトスのスマホが震えた。
通知:【緊急】ゼウス様がプリントシール機で『盛れすぎ』て機械を破壊。至急、撤退せよ。
「……フン。騒がしい神々だ」
タナトスは伝票を掴み、立ち上がった。
「……行くぞ、健太。今日は私が奢ろう。その代わり、貴様が持っている『めろんちゃん・1stライブの限定タオル』……言い値で譲れ」
「えっ!? あれは家宝ですよ!? ……でも、タナトスさんなら……!」
「交渉成立だな。……ルノアール、恐るべき『議論の場』だった」




