5.悪女の原点
これからの立ち回りについては一時保留ということにして、私は改めて原作を書き留めておくべきだと思った。原作知識は、これからの挙動を決める上での指針にもなるものだ。記憶が鮮明なうちに書き留めておくに越したことはない。
オレリー視点でもヒロイン視点でも、物語の起点は7歳の時の洗礼の儀ではあるが、実際に2人が出会うのは、15歳で入学する王立学園である。物語はそこから本格的に始まるのだが、8年も経てば物語の筋の細かいところは忘れてしまう可能性がある。
何かに書くという行為は、ともすれば第三者に見られて新たなフラグになってしまう可能性もあるのだが、そのリスクと忘れてしまう可能性を秤にかけて、私は書いて保存しておくことにしたのだ。
言語も、迷ったけれど日本語で書く。幼いオレリーのこちらの世界の読み書きが拙かったのもあるが、相手も転生者というわけでない限り第三者から見られても内容を読み解かれないと言うのは大きい。
意味不明な言語でメモをとっていると言うのもそれはそれで変なフラグになりそうだが、少なくとも強奪スキルの件なども含めて第三者に読まれた場合に内容を読み解かれることがないと言うのは大きい。
相手が転生者である場合はもし読まれた場合に内容がバレてしまうけれど、それはこちらの言語で原作について書いていても同じことだろう。内容からこちらも転生者なのはバレてしまうので、同じような転生者が存在してこれを見られた場合はもう仕方がないと諦めるより他ない。もちろん厳重に保管するのは前提としてだ。
それだけの多大なリスクを前提としても、メモを残すべきだと私は判断した。
今でさえ細部は覚えていない。例えば、メインのキャラは覚えているけれど、あまり役割がなかったキャラの名前は割と忘れてしまっている。
そもそも私は原作の物語に対しては1度読んだきりだったし、正直あまり好きな作品ではなかったのだ。これが大好きで何度も読み返した好きな作品とかなら細部まで覚えているかもしれないけれど、私としては何で転生先がこの作品なんだという感覚が強い。こういうのって、普通は好きな作品とかに転生するものではないだろうか。
ただ、前世で死ぬ前に最後に読んだ作品だったのは事実だから、それが関連するのだろうか。転生する条件とかは分からないけれども。さすがにずっと前に読んだ作品とかだったら記憶から抜けてしまいそうだから、その点ではまだいい方かもしれない。
原作の『巻き戻り令嬢は聖女の力を隠して生きる』はネット投稿から始まって書籍化を経てコミカライズ化もしていたので、一定数の支持があったのは間違いないだろう。それを楽しめないのは、いわゆる"not for me"案件なんだろうなあと思いつつ読み進めていった作品だった。
正直途中で読む止めようかと思うこともあったけれど、セールに釣られてまとめ買いしてしまったのもあったし、最後に評価が逆転する作品もあるのは事実なのでダラダラと読んでしまった感覚が強い。
途中展開がダレていると思ったら最後の方の展開が神すぎた某アニメを見てから、「作品というのは最後まで見ないと分からない」というのが私の信条なのもある。
だけれど、この世界の原作においてはそういった逆転は全くなく、少なくとも私にとっては最後までつまらなかった。本当に純粋に私には合わなかったのだろう。ただ他の人の感想も見た限り、合わなかったのは私だけではなく、好き嫌いは多少分かれる作風だったのだろうと納得している。
そして、原作に批判的な人の主張は大体一致していたし、私もそれに完全に同意だった。それは、「主人公が好きになれない」というやつである。というか、正直途中あたりから私はイライラしていた。
主人公、つまりは原作ヒロインの性格が悪辣とかそういうわけではない。少なくともヒロインは設定上善良で心優しい少女だったし、私も描写の上でそれを大きく逸脱していたとは思わない。
ただ、なんと言えばいいのか。善良すぎるから悪意に鈍感すぎるのか、あるいは性格が単純すぎるのか。見えすいた罠にはまり、アドバンテージを活かせずに何事も後手にまわり、果ては味方の足を引っ張るような挙動を始めるに至っては、何でこんなに学ばないのか理解できなかった。
原作ヒロインの名前はカトリーヌ・ドレンヴァルドといい、ドレンヴァルド公爵家の令嬢だ。ドレンヴァルド公爵家は、西部で最も力を持つ国内でもトップクラスの家柄と言える。
カトリーヌは、政略で決められた王太子の婚約者だった。だけれど、彼女はスキルなしだった。それで肩身が狭かったところに、王太子は「聖女オレリー」に心を移してしまい、カトリーヌは聖女を虐げた悪女として断罪される。断罪後の牢の中で、カトリーヌは洗礼の儀の時には授かれなかった破邪スキルを授かる。破邪スキルは、この国において筆頭聖女のスキルとされるものだ、だが、時すでに遅し。自らが聖女だと証明する場もなく、処刑されてしまう。それが「1周目」の出来事だ。
そして、真の聖女であるカトリーヌが処刑されたことを憐れんだ光の精霊王がカトリーヌの時を戻したというところから物語は始まる。
巻き戻ったカトリーヌは、今度は洗礼の儀で破邪スキルを最初から授かった状態から始まるが、今度は王太子の婚約者となることを破滅フラグだと避ける。
父親と話し合って婚約者になることは免れたものの、破邪スキル持ちの聖女ともなれば王太子の婚約者になることは避けられない。そのため、聖女であることを隠して生きるというのが物語の本筋だ。
そしてまあ、原作オレリーは強奪スキルをフル活用して暗躍するわけなのだが、平穏に生きていきたいカトリーヌと上昇志向が強く悪辣なオレリーの対立が物語の軸になる。
悪女の汚名を着せられて処刑からの巻き戻り。良くも悪くも流行した筋の話である。この時点で好き嫌いは分かれるだろうが、個人的にはこうしたテンプレに沿った作品は嫌いではなかった。オリジナルティがないという酷評もあるのは分かるけど、一方で需要があるから流行る側面もあると思うのである。
悪役令嬢転生ものとか、逆行ヒロインものとか、流行りのテンプレも結構ではないかと思う。
そもそも日本人なんて和歌なんて言って、57577だとか枕詞が云々だとかルールを定めてその中でいかに表現していくかを競っていた民族ではないか。「君がため」から始まり、「春の野に出て 若菜摘む 我が衣手に 雪はふりつつ」と続ける者もあれば、「惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな」と続ける者もある。
「悪役令嬢に転生してしまった!」とか、「悪女として処刑されてしまったから逆行してやり直します!」とかから始まって、そこからどう続けるかに作家のオリジナルティというものが光るのではないかと私は言いたい。
そこにあるのはいにしえより受け継がれしジャパニーズスピリッツ、和歌の精神である! ……というのはさすがに飛躍かもしれないが。
とはいえ、同じ「君がため」から始めても凡作や駄作があるのは事実。「君がため 一生懸命 頑張るぞ 推しに貢ぐは 生きがひなりけり」などと詠めば、その歌が後世に残ることはなかっただろう。問題は「君がため」からどう続けるかなのだ。
原作のテンプレ展開が「君がため」だとして、そこから続く物語は私には刺さらなかった。けれど、私が原作オレリーと同じ行動をするつもりがない以上、この世界の「君がため」にどう続けていくのか。つまるところ、問題はそこなのだ。
分析してみると、原作オレリーの凶行の原因はといえば、自己顕示欲とか色々な欲望に振り回された結果だと言えそうだ。私の現在の人格は、言うなればオレリー・クラメールと小早川由紀の自我が混ざり合ったような感覚なので、オレリーの考え方も自己分析できるし推測も可能だ。
先ほども考えた通り、私は元よりお姫様願望が非常に強かった。
例えば、私は洗礼の儀で自分が聖女として認定されるのではないかという期待が非常に強かった。おそらく子供ならば、大なり小なり、自分が特別な力を持つような願望を持ったり妄想をすることもあるのではないかと思うが、私の場合はそれが人一倍強い子供だったと言える。あるいは、承認欲求が非常に激しかったとも。
素晴らしいスキル——聖女として認定されるスキルが理想だった——を授かって、特別だと称賛され王都に招かれる自分。あるいは、片田舎に咲く私という一輪の花に王子様が心を奪われて、溺愛されて結婚する自分。
そういう願望が非常に強かったことは認める。
——今から思えば単純だったなあと思うし、由紀としての自我が、それはどうなのだろうとツッコミを入れる箇所は多い。
だけれど、客観的に見てそこまで酷かっただろうかと思ってしまうのは自分に甘いがゆえなのだろうか。承認欲求は強く、自分に対する客観視に欠けていて、性格に問題はあったとは思う。でも、7歳くらいの子供と考えると、こんな子供はちょっと困ったちゃんの範囲とはいえ時々はいる範囲ではなかろうか。少なくとも凶悪犯罪者になって納得……というほどではなかったと思う。多分。
日本での価値観で言うのなら、周囲の環境に不満があって、いつか異世界に勇者なり聖女なりとして召喚されて、周囲から崇め奉られるのだと妄想する小学校低学年くらいの痛さで済んだような気がする。
あるいは、ほどほどのところで痛い目にあって改心して成長していれば、オレリーの問題は子供の頃の黒歴史くらいで終わったのではないだろうか。
——ただ、本当にネックは強奪スキルなんだよなあ。
人一番承認欲求の強かったオレリーにとて、強奪スキルという厄介なスキルを引いてしまったばかりに、「スキルなし」としての扱いに甘んじなければならなかったのがどれほどの苦痛だったかは想像に難くない。なんせ私のことである。
そんな中、オレリーが10歳の時に分岐点とも言える事件が起こる。両親に王都に連れて行ってもらったオレリーは、護衛とはぐれてしまって、そこでたまたま刺されて死にかけの人間と出会うのだ。
「そんな偶然あるんかーい」と思うのだが、原作ではあったのだから仕方ない。世の中、山道で迷っていたら、たまたまヤバめの青年らに遭遇し、その後バイクに轢かれた上に祠が壊れることだってあるのだから、そういうこともあるのだろう。
それはともかくとして、その人物の瀕死の中での言葉に、オレリーは「この人は悪い人なんだ」という認識を持つし、その人物はスキル持ちであることも知ってしまう。
多分普通だったら、スキルが欲しいとはいえ、殺人に手を染めるのはオレリーも躊躇したのではないかと思う。しかし、「相手は悪人(自称)である」という大義名分と、「自分が手を下そうが下すまいがこの女はそのうち死ぬ」という自己正当化の容易い状況に陥ったことで針が振り切れたのだろう。
『——刺されて死んでも自業自得だと本人が言ってる。それなら、とんでもない悪人なんだわ。どの道死ぬのなら…………最期に私にスキルをくれたっていいじゃない』
原作で描かれたオレリーの内心はそんな感じだった。
しかし、どんなに自己正当化しようとも、人を殺したのだ。その罪が人格に歪みを生まないはずがない。原作の悪女オレリーの原点は、きっとそこだ。
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