第8話「学びたい大人たち」
夜の村に、かすかな火の灯りが揺れていた。
焚き火のそばで紙を覗き込む子どもたちの輪に、今夜は珍しい顔ぶれが混じっていた。腰を曲げた農夫、幼子を背負った母親、鍬を置いてやって来た若者たち。
皆、炭筆を握った子どもを食い入るように見つめている。
「……その字は、なんて読むんだ?」
農夫のごつごつした指が紙を指した。
「これは“水”です」
澪が答えると、農夫はうなずいて何度も口にした。
「みず、みず……」
子どもたちはくすくす笑ったが、母親の一人が真剣な声で言った。
「澪さん、わたしたちにも字を教えてもらえませんか?」
澪は少し驚いた。
「大人の皆さんに……?」
母親はうなずく。
「子どもたちが楽しそうに紙を読んでいるのを見て、悔しくなったんです。字が読めたら、畑のことも病のことも、自分で学べるでしょう?」
その言葉に、周りの大人たちも声を上げた。
「俺だって覚えたい」
「年寄りでも大丈夫か?」
「遅すぎるなんてことはないだろう」
澪は胸が熱くなるのを感じた。知識を求めるのは子どもだけじゃない。むしろ、日々の暮らしを支える大人たちこそ必要としているのだ。
「分かりました。じゃあ……夜に集まりましょう。大人だけの学びの場を作ります」
◆
次の夜。村の広場に松明がいくつも掲げられた。炎のゆらめきが大人たちの顔を赤く照らす。
子どもたちは「先生役」を任され、澪の横で小さな黒板に字を書きつけていく。
「これは“火”です」
「ひ……」
農夫は額に汗を浮かべながら、木片に炭筆でぎこちなく線を刻む。線はよろよろと曲がり、子どもに笑われてしまう。だが農夫は照れ笑いを浮かべ、また真剣に書き直した。
母親たちは、子どもを背に揺らしながら筆を握る。指先は不器用だが、目の色は真剣そのものだ。
「こんなに頭を使うのは、嫁入り前以来だよ」
「わたしなんて手が震えて、うまく書けない」
「でも……読めたら、あの紙のことも自分で分かるんでしょう?」
そう言う母親の声に、澪は深くうなずいた。
「ええ。自分で読めれば、誰かに頼らなくても知恵を手にできるんです」
◆
夜学は、村の小さな祭りのようだった。
失敗して笑い合い、うまく書けたら拍手が起きる。農夫が初めて「米」と書けた時、子どもたちが歓声を上げ、本人は顔を真っ赤にしていた。
数日が経つと、大人たちは簡単な言葉を少しずつ読めるようになった。
「……これは“塩”か?」
「そうです! すごい!」
「ふふ、わしもまだまだ若いのう」
その姿に、澪の胸は熱くなった。
――知識は、誰にでも届く。年齢も、身分も関係ない。
子どもたちも誇らしげだった。
「大人が勉強してるの、変な感じ!」
「でも、かっこいいよね」
◆
だがその一方で、澪の心にかすかな影もよぎっていた。
領主や寺は、村人たちが“文字を知る”ことを良く思わないかもしれない。知識を持つ者が増えれば、支配が揺らぐ。
その懸念を口にすると、年寄りの一人が静かに笑った。
「怖いかもしれん。だがな、澪。わしらはもう、戻れんのだ。字を知った。学ぶ喜びを知った。これを手放すなんて、できやせん」
澪はしばらく黙ってから、強くうなずいた。
「……そうですね。なら、私も覚悟を決めます」
炎に照らされる大人たちの目は、まるで子どものように輝いていた。
澪はその光を胸に刻みつけた。
――どんな困難が来ても、この光を消させはしない。
夜風が松明を揺らし、火の粉が星空へと舞い上がった。
学びの声は、夜更けまで村に響いていた。