第7話「隣村へ渡る紙」
朝の光が差し込む村の広場で、澪は干し草を束ねながら小さくあくびをした。
昨夜も遅くまで紙漉きをしていたせいで、指先はささくれだらけ、腕は筋肉痛だ。それでも胸の奥は不思議と軽やかだった。焚き火の明かりで子どもたちが笑いながら文字をなぞっていた光景が、今も目に焼きついて離れない。
――この小さな紙切れが、誰かの未来を変えるのかもしれない。
そんなことを思いながら手を動かしていると、村の入口が騒がしくなった。犬が吠え、子どもたちが駆け寄る。
「お客さんだ! よそから人が来た!」
澪も顔を上げる。見知らぬ中年の男と若い娘が、背に荷を背負い、疲れ切った顔でこちらへ歩いてきた。衣服は土埃にまみれ、靴底は擦り切れている。
「この村に……“知恵を紙に書いた娘”がいると聞いて、参りました」
男がかすれた声で言った。娘は深く頭を下げ、目尻には涙の跡が光っている。
「……わたしです」
澪は少し緊張しながら名乗り出た。
男は胸の前で両手を合わせ、言葉を絞り出す。
「隣村は……去年の飢えで、多くの者を亡くしました。畑は痩せ、病も広がって……。それでも、あなたの“紙”を見れば生き延びる術があると聞きました。どうか……どうか見せていただけませんか」
村人たちの視線が澪に集まる。彼女は唇を噛みしめ、そっと小屋に走った。
机の上には、まだ乾ききらない紙の束。失敗作も混じっているが、数枚だけは人に渡せる出来だった。そこに描かれたのは「灰を使った簡単な石けん」「保存食の作り方」「水を煮沸する図解」。
澪は両手で包み込むように紙を抱え、男と娘の前に差し出した。
「これで……助かるかどうか分かりません。でも、きっと役に立つと思います」
男は震える手で受け取り、娘と顔を見合わせた。
次の瞬間、ぽろぽろと涙が落ちた。
「……これで、うちの子らを守れる……」
娘は声を詰まらせ、紙を胸に抱きしめる。
「ありがとう……ありがとう……」
澪は胸の奥が熱くなった。自分のつたない絵と文字が、誰かにとって命をつなぐ糧になる――その事実に。
◆
男と娘は、村人たちに深々と頭を下げたあと、紙を抱えて去っていった。
澪は彼らの背中を見送りながら、胸の奥に小さな棘のようなものを感じていた。
――たった数枚しか渡せなかった。
紙を作るには布や水も必要で、乾かすのに何日もかかる。これでは広く届けることなどできない。今は一人、二人にしか渡せないのだ。
「先生?」
いつの間にか子どもたちが後ろに立っていた。心配そうに澪を見上げている。
澪は笑顔を作った。
「うん、大丈夫。ただ、もっと上手に紙を作れたらいいなって思ってただけ」
「ぼくら、手伝うよ!」
子どもたちは声をそろえて叫んだ。
澪は目を細め、頷いた。
「ありがとう。じゃあ、もっと効率よく作る方法を考えようね」
その声に応えるように、村人たちも集まってくる。農夫は「大きな桶を作れば一度にたくさんできるだろう」と提案し、木工職人は「紙漉き用の枠を改良してみよう」と言った。
澪は胸に温かいものを感じた。自分ひとりでは無理でも、みんなとなら前に進める。
◆
夕暮れ。丘の上から隣村の方向を見つめながら、澪はそっとつぶやいた。
「どうか……役に立ちますように」
遠くで暮れる空の向こうに、あの父娘が紙を広げ、仲間たちに囲まれている光景を思い浮かべる。
笑顔かもしれない。涙かもしれない。けれど確かに、あの紙は誰かを救う。
胸に芽生えたのは確かな実感だった。
――自分が書いたものが、人を救う。
そして同時に、強い課題感も。
――もっと多くの人に届けたい。そのためには、もっとたくさん紙を作らなきゃ。
風が頬を撫でる。焚き火の煙が夜空に溶けていく。
澪は拳を握りしめた。
「次は……もっと遠くまで」
そう誓った瞬間、彼女の胸の奥で小さな炎が静かに燃え上がった。