第5話「学びたい子どもたち」
澪が「先生」と呼ばれるようになってから、村の子どもたちは不思議なほど彼女のそばに集まるようになった。
その朝も、家の外に出ると、すでに数人の子どもが石を並べて待っていた。
「澪先生! 昨日の続き教えて!」
「手を洗う歌、もう一回!」
両手をこすり合わせて「ごしごし、ぱっ」と声を揃える姿に、澪は思わず笑ってしまう。
――子どもたちは遊びのように覚えてくれるんだな。
けれど、それだけでは足りない気がしていた。
昨日話したことを、子どもたちは今日も正しく覚えているだろうか。来年になっても続けてくれるだろうか。
口で伝えるだけでは、どうしても曖昧になってしまう。
澪は石板に指で線を描きながら、ぽつりと呟いた。
「……書いて残せたらいいのに」
◆
昼下がり。澪は納屋に置かれていた炭の欠片と板切れを持ち出し、子どもたちの前に座った。
「今日は特別に、絵を描いてみよう」
炭で大きく、手を洗う姿を描く。
両手から水滴が落ちる絵の横に「て」と一文字。
「これは“て”。手のことだよ」
子どもたちは目を輝かせ、まねして炭を握った。
「これが“て”? ぼくも描ける!」
ぎこちない線ながらも、小さな板に「て」と書かれていく。
「じゃあ次は……ご飯の前にするから、“まえ”」
澪は簡単な絵と文字を並べ、子どもたちに繰り返させた。
笑い声と真剣な顔。
澪は胸の奥で確信した。――絵や文字は、知恵を未来に残す力になる。
◆
夕方、母親たちが迎えに来る頃、子どもたちは誇らしげに炭の絵を見せびらかしていた。
「お母さん、これ“て”だよ!」
「ご飯のまえに、洗うんだ!」
母親たちは目を丸くして子どもを見つめ、やがて澪へと頭を下げた。
「うちの子がこんなに熱心になるなんて……本当にありがとうございます」
澪は照れ笑いを浮かべた。
「私がすごいんじゃありませんよ。みんなが覚えたいと思ってくれるからです」
子どもたちはなおも「もっと教えて!」とせがんでくる。
その勢いに押されるようにして、澪は「知恵ノート」を作り始める決意を固めた。
――板でも紙切れでもいい。描いてまとめておこう。
◆
その夜、焚き火の明かりを頼りに、澪は手元の板切れに絵を描きつけていた。
「手を洗う」「野菜を干す」「食器を煮沸する」――。
横に簡単な言葉を添え、誰でも分かるように。
ノートというにはあまりに粗末で、煤と木の匂いが鼻をつく。
それでも澪は嬉しかった。
知恵が形を持ちはじめた。そのこと自体が大きな一歩に思えた。
◆
翌日。隣村から一人の男が訪ねてきた。
やつれた顔に深い皺を刻み、手には麦の束を抱えている。
「……澪殿とやらは、ここに?」
村人が案内すると、男はすぐに澪の前に膝をついた。
「この村に病や飢えを減らす知恵を授けていると聞いた。どうか、我が村にも教えていただけぬか」
周囲の村人たちは驚き、ざわめいた。
澪は戸惑いながらも、胸の奥に熱いものを感じた。
――知恵は、村を越えて求められている。
口伝だけでは足りない。もっと整理し、もっと多くの人に伝えなければ。
彼女の手元にある、煤で黒く汚れた板切れ。
その上に描かれた拙い絵と文字こそが、やがて広く広がる「知恵の種」になるのだと、澪は直感した。
焚き火の煙が夕空に溶けていく。
澪の胸には、ひとつの決意が宿っていた。
――もっと残そう。もっと広めよう。